第二章:I Promise You①出会い

 カーテンの隙間から日差しが溢れるより前に、スマホがアラームを響かせる。「うぅーん」と言いながら月光がスマホを手に取り、アラームを止めた。二度三度と寝返りを打ってゴロゴロとした後、ムクリと起き上がり布団を蹴飛ばして眠気眼でトイレに行き、シャワーを浴びる。熱いお湯を浴びながら坊主頭をシャカシャカとかき、頬を叩く。濡れた頬がペチャッとした間抜けな音を奏でた。


「早く起きすぎでは?」


 出勤は16時からクローズまでの後半シフトだ。それなのに月光は朝の6時半にアラームをかけてしまっていた。昨日の夜にスーツを着た後テンションが上りすぎて「早く起きるに越したことはねえ! 長く寝ると決心が鈍る!」と高らかに叫びながらアラームを早めに設定してしまったのだ。シャワーで頭の中がスッキリとしてきた今なお、月光の胸は早めに命を刻んでいる。決心は全く揺るがず、ただこれからの時間をどう過ごすかということばかりを気にかけていた。


 シャワーを止めて体を拭き、スーツに着替えて冷蔵庫から炭酸水を取り出す。缶をプシュッと開けて炭酸水を飲むとシュワッとした刺激が喉を爽やかに通り抜けていった。月光は炭酸水を飲みながら改めて鏡の前に立つ。シラフで自分のスーツ姿と対面した。ニヤニヤとしながら炭酸水を飲んでいる自分に「きもいな」と笑う。飲みかけの炭酸水をローテーブルに置いて布団をたたみ、カーテンを開ける。外はまだ微妙に暗い。窓を開けると肌寒い空気が少し悶々とした部屋の空気を吹き飛ばす。大きく伸びをして煙草に火をつけると、また鏡の前に立って自分の姿を観察した。スーツを着て煙草を吸う自分の姿に、月光はまた一人でニヤニヤとする。

 しばらく自分の姿を見ながら煙草を吸い、さまざまなポーズをキメた後ソファに座って煙草をもみ消しながらため息をついた。本棚から小学生の頃の卒業文集を取り出して、自分自身が書いた文集を探す。「あった」と呟いてから、じっくりとその文集に目を通し始めた。


 ――ボクは大人になったらカッコいい人になりたいです。今のボクは人にたよってばかりでイヤになる。楓さんはボクのことをよくしてくれます。朝ごはんには甘いたまごやきを作ってくれるし、辛いことがあったら聞いてくれます。何かあったのか? 大丈夫か? 何か食べるか? お風呂入るか? 気をつかってくれます。ボクは泣いてばかりです。楓さんに甘えてばかりです。楓さんがキライなわけではありません。大好きです。だけど、ボクはそんなボクが好きになれません。ボクは自分ひとりの力で生きて、自分ひとりの力でだれかのために何かをしたいんです。ボクの大好きな人を守ったり、ボクの大好きな人が幸せな気持ちになったり、そんな大人にボクはなりたい。どうしたらなれるのかはわからないけど、大人になったらたぶんわかると思います。そのときは、その方法をちゃんとやってカッコイイ人になりたいです。あこがれのヒーローみたいに。――


「ごめんなあ。大人になったら自然とわかるものじゃないんだよ。守れなかったからさあ。挫折してもうずっと何もしてなかったからね。まだ大人じゃないんだと思うよ。これから見つけるから。許してね」


 卒業文集を閉じずにじっと眺める。自分自身が書いた文字は堂々とした太い字で、印刷しても全くかすれることなく力強く残っている。他の子の文集はところどころかすれたり読みにくかったりするのに、自分の文集だけは太く残り続けていた。月光は思わず笑ってしまう。

「筆圧強すぎるやろ……お前」


 卒業文集を閉じて本棚に戻すと、外は少しずつ白み始めていた。大きなあくびをしてから押入れの奥に押し込まれていた鞄を取り出す。黒い本革のブリーフケースだ。革にはたくさんの傷が入っている。月光はその傷ひとつひとつを優しくなぞりながら「使わせてもらうな」と言って押し入れを閉じた。ブリーフケースに財布、煙草、メモ帳とペンなどを入れていく。デスクの引き出しを開けて普段使っている百円ライターとは違う光沢を放っているジッポライターを取り出した。シンプルな無地のシルバーに、ブリーフケースと同じようにたくさんの傷が刻まれている。そのライターをスーツのポケットに入れて、スマホもポケットに入れた。

 ブリーフケースを持って革靴を履き、外に出る。朝のやわらかい光が心地いい。外はまだ少しだけ白いが、もうかなり明るかった。決して綺麗とは言えない空気を思い切り肺に吸い込むと、思わずあくびがこぼれる。坊主頭をぽりぽりとかいて鍵を閉め、動物園前駅から梅田駅に向かった。


 通勤の人でごった返している地下鉄梅田駅を出る。さまざまな店舗や企業のオフィスが入っている大型の施設・グランフロント大阪前の広場にあるベンチに腰をかけて、スーツを着た人の流れを観察する。時計を気にしている男性、朝から額に汗を流して足早に歩く若い男性、あくびをしながらぼうっと歩いているOL。さまざまな人がグランフロントの中に入っていく。この流れとは違うけれど、自分もまたスーツを着て忙しい時を過ごすことになるのだと思うと、鳥肌が立った。手足が自然と震えてくる。ため息をつくと腹の底が熱いことを実感する。


 しばらくベンチで過ごした後、月光はいつもどおり梅田屋に向かった。店に入るとすぐに楓が月光を見て駆け寄ってくる。左手に空のジョッキを持ったまま右手で肩をバシバシ叩いた。言葉にならない息のようなものを漏らしながら、目をキラキラと輝かせて月光の顔を見る。月光はたまらなくなって目を逸し「今日の夕方から出勤」と呟いた。楓が「そうかそうかあ」と何度もうなずく。

「まあ……何だろう。最初に見せたくてさ」

「嬉しいこと言ってくれるねえ! まあ飯食ってきな」

「モーニングセット、酒抜きでお願い」

「じゃあ炭酸水にしとくわな」

「はいはーい」


 月光が一番レジに近いカウンター席に座る。背中に外の風とガヤガヤとした喧騒を受けながら、目の前に並んだたくさんのおかずと睨めっこする。梅田屋のモーニングは瓶ビールに米と味噌汁と漬物が付いて400円ほどだ。後はそこに好きなおかずを追加するというスタイルになっている。おかずの代金は別計算だ。月光は唸りながら米と味噌汁に合うおかずを選んでいる。今日はコロッケ、焼き魚、茄子の揚げびたし、すき焼き風の煮物、玉子焼きが並べられていた。他にも出来立てメニューを頼めるが、月光は玉子焼き以外はいつもカウンターからしか頼まない。


「はーいモーニングセット」

「そこの煮物と玉子焼きちょうだい」


 月光は目の前に置かれた白い湯気の立つご飯と、控えめにワカメが入っただけの味噌汁をじっと眺めている。味噌汁に一味唐辛子を入れてからシュワシュワと泡立つ音を出し続けている炭酸水に口をつけた。

「玉子焼きは新しく焼いたろか。煮物もあっためよか。」

 炭酸水を飲みながら楓の提案に「オーケー」のサインを作って返事をする。楓は煮物の皿を持ってカウンター奥に行き、電子レンジに煮物を入れた。それから厨房に入ってしばらくするとジュゥゥーと卵を焼き始めた音がする。


 月光は味噌汁を飲みながら店内を見渡している。店内には朝からビールを飲んでいる老人が一人と、朝からカウンターに突っ伏して寝ている老人が一人だけ。店員は楓以外に店長のおばあさんしかいなかった。もう少しすると客足も増え始め、店員の数も増えてくる。電子レンジがチンと鳴っても誰も取りに行かなかった。おばあちゃんは厨房とカウンターを繋ぐ小窓からニコニコとした顔を覗かせているのみ。


 しばらく店内を観察していると楓が出来立ての玉子焼きと電子レンジで温めた煮物を月光の目の前に置いた。

「それにしてもまあ私は嬉しいわあ」

「急におばちゃん感出してきたね」

 箸を割って手を合わせながら言った。玉子焼きを食べやすい大きさに切り取り、口に運ぶ。相変わらず絶妙に甘い味付けだった。楓はそんな月光の様子を観察してから笑みをこぼす。

「おばちゃん言うな。せめて母ちゃん感や」

「母ちゃん感て。感も何も母ちゃんやん」

「今日はえらい素直やなあ! 大丈夫か?」

 楓が指先で頬をかきながらわざとらしい抑揚を付けて言った。月光は煮物と白米を口に入れながら「はんやえん」と、つっけんどんな対応をする。


 そうこうしているうちに店に誰か入ってきたようで楓が「いらっしゃい」と言って席に案内した。月光の二つ隣の席だった。それ自体は何も特別なことではない。楓がいつも通り「何にしましょう」と言っているのを右耳の方で聞き流していくだけだ。月光はなんのけなしに目の前の飯を食べていく。


「メガハイボールお願いします」


 月光の右耳の方で声がした。とても清らかで澄んだ山の湧き水のような、冷たく透き通った女性の声だった。月光はその声に思わずカウンターに座る女性を見てしまう。首元数センチ上で切りそろえられた短めの髪。グレージュのカラーが光を微妙な角度で反射して妖しくきらめいている。パッチリとした釣り目が見るもの全てを石にしてしまう怪物のようにただ目の前だけを見ていた。その瞳には何も映っていないように見えて、月光は思わず見惚れてしまう。横顔から見える、虚無を映す瞳に釘付けになった。心臓の鼓動が早くなっていく。顔が熱くなった。たまらなくなって目を逸らそうとしても、うまく目を逸らせない。ご飯を食べても味がよくわからなかった。

 ふと、女性と目が合ってしまう。何も映っていなかった瞳に、ハッキリと自分自身が映るのを月光は感じた。その瞬間言い知れない恐怖と興奮と喜びと不安が脳の中をひたすら駆け巡り、駆け巡り、消えることなく無遠慮に居座り始めたのだ。


「珍しいですか」

 女性が淡々と言った。

「私みたいなのがハイボール飲むの。しかもメガジョッキで。珍しいですか」

 何一つとして表情を変えることなく、作ることなく抑揚もなく言った。

「い、いえ」

 女性の口調に気圧されてしまい、月光は何も言えなくなる。

「飲みたいんです。メガを。強いのを。たくさん。飲みたいんですよ」


 女性の言葉は一つひとつを噛みしめるように紡がれていく。月光はその言葉一つひとつを脳内でゆっくりと処理しながら女性の目を見続ける。ふとした拍子に女性の目が伏せられることがあることに月光は気付いた。「強いのを」と言ったとき、確かに彼女は目を伏せたのだ。どんな感情か確かなことは月光にはわからないが、彼の目には彼女が寂しく悲しくそして自分に似ているように思えた。


「いいんじゃないですかね。飲みたいときは飲むべきです」

 月光がやっとのことでまともな言葉を返すと、彼女は口元だけニッコリと笑った。

「お兄さんはお仕事前ですか」

「はい。ただ仕事は16時少し前からなんですけどね」

「それなのにスーツですか。気が早いんですね」

「初出勤なもので。昨日まで無職だったんです。ソワソワしてしまって」

 彼女につられて、月光も言葉がゆっくりになる。

「かわいらしいですね。名前は?」

 彼女がペットを愛でるような声色で言った。声色が変わったことで月光は言葉をうまく繋げられず「ええと」と間をおいてしまう。

「相野月光です。月の光と書いてひかりと読ませます」

「素敵な名前」

 月光が生まれてから一度だけ言われたことのある言葉だった。月光は目を丸めて彼女の目を見る。彼女の目は依然としてどこをとらえているのかがよくわからなかった。

「どうして?」

「あいのひかり。漢字を変えると愛の光。ラブの光」

「え」

 月光は思わず口を丸く開けて呆けた顔をしてしまう。楓が月光を見ていることに月光が気づき、楓に視線を送ると楓は俯いて厨房に消えてしまった。改めて彼女を見ると、やはり目はいまいち笑っていない。口元だけが微笑みに緩んでいる。月光は炭酸水を飲み干して一息つくと、味噌汁を箸でかき混ぜ始めた。


「どうしました?」

「ああいえ。以前も似たようなことを言われたので驚いてしまって」

 味噌汁を飲み干す。

「あまり言われませんか?」

「人生二度目です」

「それはそれは。驚かせてしまいまして。だけど素敵なのは本当です」

 彼女がメガジョッキを大きく傾ける。中身がどんどん減っていくのをまじまじと見つめながら月光はおかずと白米とを完食してしまった。

「私は伊丹陽菜子と言います。伊丹市の伊丹。太陽の陽。菜っ葉の菜。子どもの子。で陽菜子です」

 そう言って陽菜子がメガジョッキをまた大きく傾けた。既に半分も減ってしまっている。梅田屋のメガジョッキは800ml。既に400mlは飲んでしまったことになる。月光は思わず「ペース早いな」と声をこぼしていた。

「早いですか。早いですよね。仕事前なんですけどね」

「仕事前にメガですか。大丈夫なんですか?」

「まあ仕事柄。酒入ってても。大丈夫。というか入ってた方がいいので」

 陽菜子がまた口だけ笑いながら言った。月光が何も返さずにいるとまた黙ってメガジョッキを煽り続ける。何も食べることなく何も頼むことなくただただ飲み続ける彼女の姿は、この場では明らかに浮いていた。「何も食べないんですか」喉元まで出かかった言葉は逆流してきた胃液のように出ることも飲み込むこともなく、しばらく留まり続ける。月光はタバコの煙と一緒にその言葉を押し込んだ。


「職業とか聞かないんですね」

「え? ああ。初対面で不躾かなと」

「そうですね。聞かれると少し面倒くさいです。だから私もあなたの職業は聞きません。言わない方がいいことも知らない方がいいことも、あると思うんです。お互いに」

 その声はほんの少しだけ震えていて、体の奥底から絞り出したようなかすれた声だった。

「知らぬが仏と言いますからねえ」

「言わぬが花とも」

「同義ではないんですけどね。知らん方が幸せというのと言ったら興ざめやと言うのは」

「そうですね」

「はい」


 月光はタバコを消して席を立った。「お勘定して」と言うと楓が厨房から出てきて「もうええの?」と聞く。「お腹いっぱい」と言うと楓は「そっちじゃなくて」と耳打ちした。陽菜子が財布を出している月光を見ていることに月光が気づくと、お辞儀をして楓が伝票を打ち終わるのをただ黙って待った。

「連絡先とか聞かないんですね」

 陽菜子がぽつりと呟いた。レジの画面には1050円と表示されている。月光は財布から1100円を取り出して楓に渡しながら、陽菜子を見て微笑む。

「言わぬが花ですから」

 言いながら楓から50円を受け取ると、陽菜子はほんの少しだけ目元を緩ませてメガハイボールを飲み干した。

「うまいなあ」

「僕はよくここに来るので。また会えたら素敵ですね」

「そうですね。その方が確かに。素敵です」

 そうやってまた緩やかに言葉を紡ぐ彼女に微笑みかけて、「それじゃあ」と梅田屋を出た。背中から楓の「頑張れよー」という声と陽菜子の「頑張ってくださいねー」の声を感じながら、なんだか胸の熱くなる想いを抱えて月光は歩き始める。

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