第1章:リスタート②
梅田屋から出て左に進み、人混みをかき分けながら阪急メンズ館に向かう。すれ違う人は皆一様にどこかを目指しながら進んでいた。ゆっくりとだが確かにどこかに向かって進んでいる。ある者は楽しそうにツレと話をしながら、ある者は苦しそうな顔でそれでも前を見て進んでいる。そんな様子を見て月光は胸の奥が熱くなった。阪急メンズ館の扉の前で財布の中身を確認する。五万円入っていた。給料日までの生活費と嗜好品代として全て取っておくのが得策なのだろう。スマホから預金残高を確認すると残高は20万円だった。月光は阪急メンズ館に入ると真っ先にATMに向かい、20万円全てをおろした。エスカレーターを上って3階に行く。
向かった先はスーツなどを取り扱うショップだった。スーツは沢崎が用意する。だけど、月光にはどうしても自分の金で買っておきたいものがあった。ネクタイとシャツだ。今月光の目の前にはたくさんのネクタイが並んでいる。月光の人生で一度も締めたこともないものだ。赤と黒の斜めストライプのネクタイ、グレーにワンポイントで刺繍の入ったネクタイ。星柄。チェック柄。さまざまな柄のネクタイが並んでいる。星柄は攻めすぎている。風俗店のボーイというのを月光は何度か見たことがあったが、接客業だからか奇抜すぎるものは避けられているようだった。となるとチェック、ストライプ、ワンポイントのどれかになる。
――赤が入ってるのがいいなあ。ザ・赤というんじゃなくてワインレッドとかボルドーとかそういう濃い赤。心機一転一念発起という覚悟みたいなものを肌で感じるそういう色。
月光の目に一本のネクタイがとまった。グレーの斜めストライプにねじれるようにしてワインレッドが帯のようにして入っているネクタイだ。派手過ぎず地味過ぎず、そして月光のセンスにぴったりと合う。この色合いならスーツが黒でもグレーでもネイビーでも合うだろう。完璧な一本だった。月光は値札を見ずにそれを手に取り、シャツが並んでいる一角に向かう。シンプルなデザインの白シャツと黒シャツと薄く青みがかったシャツとをそれぞれ1枚ずつ手に取り、購入。総額1万8千円。
残りの金を持って月光は堂山町の一角にある新同一ビル3階に向かった。そこにはHYファイナンスという金融会社が入っている。月光はそこから10万円借りていた。利息だけ細々と返していたため利息は膨れ上がっていない。法定金利で貸し、沢崎のところのような張り込みなどの取り立ては行っていない優良街金だった。
「あー! 相野さん!」
扉を開けるとHYファイナンス社長が月光を指でさした。
「社長! いつもすみません」
「どうしたんすか今日は。利息以外もちゃんと返してくれる気になったんですか?」
社長がカウンターに座る。月光も向かいに座ると10万円をむき出してカウンターに置いた。社長が「おお!」と驚きに声を上げて笑いながら10万円を回収し、三度数えた。「確かに」と言ってファイルに収納し、契約書を取り出して金額を確認。社長はニッコリと笑って月光の目の前に手を差し出す。
「全額返済、おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
月光が社長の手を取る。
「三年、三年ですよ。ずっと利息だけなんですもん。感激しちゃって」
社長が笑う。月光は「ご迷惑をおかけしてすみません」と立ち上がった。社長が月光の手元を見る。「何か買うたんですか?」と笑顔で聞いた。月光は椅子を奥に押し込みながら「ネクタイとシャツを買いましたわ」と返す。
「働きはるんで?」
「そう。その前に返せるもんは返したかったんです」
「働きながら返せばいいのにー。律儀ですねえ」
「他でも借りてますからねえ」
「あー。沢崎さんとこね。まあ頑張って!」
「はい、がんばります!」
頭を下げてからHYファイナンスを出た。月光の顔はまさに今日の天気のように晴れ晴れしく、笑みに溢れている。大きく息を吸い込むと排気ガスで汚れた空気が思いきり肺に飛び込んできた。それでも家の中で鬱屈と過ごしているときの空気より何倍もおいしく感じられ、月光は思いきり伸びをする。
それからスーパーに寄ってすぐに家に帰り、閉ざされたままだったカーテンを思いきり開けた。窓を開けて本棚に積もった埃を払う。ゲホゲホと咳をしながらも埃を払っていく。床に落ちた埃を掃除機で吸い取り、布団を畳んでまた掃除機をかける。それからしばらく部屋の掃除をして、キッチンの掃除をした。
掃除が全部終わったら遅めの昼飯を作る。玉ねぎとにんじんをスライスし、思いきり熱した鉄のフライパンの上で炒める。塩を多めに振ってから豚肉をくわえ、豚肉に焼き目がついたらうどんを一玉入れてさらに炒める。うどんにカリッとした焼き目が付いてからみりんと醤油、ケチャップを回しがけた。醤油の香りとケチャップの甘い匂いがキッチン内に充満する。それから3分程度ガンガン炒めて皿に盛り、水道からお湯を出してフライパンを洗った。ナポリタン風焼うどんの完成だ。冷蔵庫から炭酸水を取り出し、皿をローテーブルの上に置く。この時点で夕方四時を回っていた。
手を合わせてナポリタン風焼うどんを口に運ぶと、しっかり焼かれたケチャップ特有の甘みと少し焦げた醤油の香ばしさが口いっぱいに広がる。しんなりとした玉ねぎにまだ少し歯ごたえの残るにんじんが食感のアクセントになってまたうまかった。月光は以前飲食店の厨房で働いていた経験がある。だからか料理は得意だった。それなのにもうずいぶんと料理をしていなかったのだ。久しぶりに自分で作った飯を食い、月光はため息をつく。
「楓さんの飯よりうまい」
完食して皿を洗い、ソファの上に座ってゆっくりと煙草を吸う。外は暗くなり始めていた。約束の時間までまだまだある。時間がとてつもなく長く感じられた。本棚に手を伸ばしてSF漫画を読んでみてもいまいちピンとこない。心臓がバクバクと足早に脈打つ。買ってきたネクタイを眺めて「また僕、頑張れるかな」と呟いた。「頑張って生きられるかな」と誰かに向かって問う。当然、答えは返ってこない。それでも月光は「ふっ」と笑い「そうだなあ」と言った。
掃除をしたときに吸殻を全部捨ててまっさらな状態にした灰皿に、五本もの吸殻が横たわる。灰皿を持ってデスクに移動し、パソコンを起動させて「風俗 ボーイ 仕事」と検索窓に打ち込んだ。エンターキーを押した瞬間約139万件の検索結果が表示される。検索トップにはデリヘルとキャバクラの仕事の違いが書かれた記事があり、その次にはソープ店員の仕事内容を書いた記事がある。自分はどんな店に配属されるのかなと考えながら、それらの記事をあさり続けた。
ふとカーテンの外を見ると完全に暗くなっている。窓を閉めてカーテンを閉じ、時計を確認すると短針は9を長針6をは指していた。冷蔵庫からロイヤルポールウインナーを出して三本ほど食べた後、ソファでタバコを吸いながらじっくりとその時を待つ。1本。2本。3本と煙草が消費されていく。炭酸水を飲んでいるのにもかかわらず喉が渇くような気がして、ついつい飲み過ぎてしまう。
ピンポーン。
来た。時間は二十一時五十五分。五分前行動なところに沢崎の律義さを感じ、月光は思わず笑ってしまう。扉をゆっくりと開けると、沢崎が酒瓶片手に陽気な顔で「おう」と言って部屋に上がり込む。沢崎の左頬には相変わらず切り傷の跡のようなものがあった。色黒強面な上に傷がついているためよく人から避けられるらしい。服装も服装だ。紫色のシャツに縦ストライプのスーツ。革靴はピカピカに磨かれていて威圧感を放っている。避けられても仕方がない。そんな沢崎の後ろから黒いスーツをビシッと来た柔らかい顔立ちの男が月光の家に上がり込んでいく。この男は沢崎とは対照的に色白であまり運動していなさそうな感じだった。スーツを着ていてもわかるほどの痩せ型。髪型は毛先をほんの少し遊ばせている長髪。推定年齢は三十代前半と言ったところだろうか。「どうぞどうぞ」と月光が促しながら部屋の奥に行き、月光は二人をソファに座らせて自分は床に座った。
「こいつが電話で話した店長だ」
沢崎に紹介されて男が頭を下げる。
「店舗型ヘルス・新乳シャイン店長の神戸啓一です。よろしくね」
神戸が月光に名刺を渡す。月光は両手でうやうやしく名刺を受け取り、「よろしくお願いします。拝見します」と言って名刺を見た。名刺には薄いピンク色の文字で新乳シャインと書かれている。「乳」の漢字の右側の部分がわざとらしく丸みを帯びて乳房のようなデザインになっていた。
「相野月光です。月光と書いてヒカリと読みます。この度はありがとうございます」
月光が頭を下げた。
「いえいえ。人手不足で困っていたところだったのでこちらもありがたいです」
「挨拶も済んだところでよ。まあ一杯やりながら話しようや。な?」
沢崎が持ってきた酒瓶を掲げた。ラベルに書かれた銘柄は白鶴酒造の特別純米酒山田錦だった。月光は日本酒用のグラスを三人分キッチンから取ってきてローテーブルに置く。「なんだ用意がいいじゃねえか」と言う沢崎に、月光は「酒好きだから酒器はたくさん持ってんですよ」と返す。沢崎が三人分のグラスに酒を注ぐ。「乾杯」と言いながら全員が同じペースで飲み干した。
「何も特別な酒じゃねえけどよ。決起するには十分だろ」
「うまいです」
「じゃあ早速説明に移るぞ」
「まずですが、ヒカリくんに働いてもらうのは新乳シャインという店舗型ヘルスです。店舗型ヘルスがどんな業態かという説明は要りますか?」
「あ、そこは大丈夫です」
店舗型ヘルスというのは店舗で受付とサービス両方を行う業態のことだ。ここで言うサービスというのは本番以外のあらゆる性的サービスである。ヘルスは基本全店本番行為禁止だが、その他にどんな行為をサービスに含めるのかどうかは店によって異なる。月光も何度か風俗で遊んだことがあり、その上に先ほど時間潰しのために調べていたため、この程度の知識はあった。
「新乳シャインは名前の通りOL風の衣装で、デスクのあるプレイルームでプレイをする店です。在籍するキャストは全員Eカップ以上。現在12名のキャストが働いてくれています。これは他店と比べれば少ないほうですね。ボーイは現在店長の私含めて5人です。正直のところ少し足りていません。正社員は二交代制で休日は週1日+有休という感じなんですよ。週1日は店自体を休みにしています。前半と後半だけでシフトを分けるわけですが、店長の私は常にいるとしても3:4になってしまってバランスが悪い上に正直3人では仕事を回すのが大変なんですよ」
神戸が頭をもたげる。月光は改めて名刺を見た。店名の下に小さく営業時間が書いてある。朝9時から夜11時半までだ。交代なしだとあまりに長い。店長である神戸の負担の大きさが名刺から透けて見えるようだった。交代ありだとしてもこれだけの時間を少人数で回し続けるのは大変だろう。このままの経営を続けていると今いる社員も負担に耐えかねて辞めかねない。その前に神戸自身が体や心を壊しかねない状況だと月光は理解した。
「だから無職の手も借りてえ状況なわけだ」
「こちらもありがたいというのはそういうことなんです」
「なるほど」
「あと仕事内容ですが、店舗型ヘルスの仕事内容は基本的に「接客」と「見張り」です。接客の仕方については店に入ってから教えます。見張りというのは部屋についてる小窓から部屋の様子を見てアウトな行為をしていないかどうかを見るということです」
「もしアウトな行為を発見したらどうするんですか?」
「そのときはインカムから私に報告してください。私の方で対応します。まあ実際そんなにアウトな行為をする人はいませんけどね」
神戸がカカカと笑う。その目はあまり笑っていない。月光は「そうなんですねえ」と言いながら酒を飲んだ。
「あとはまあアンケート取ったり部屋の掃除したり備品の買い出ししたりですねえ。まあ難しい仕事ではないですよ。みなさん数日から一週間くらいでもう慣れますね」
神戸が酒を煽り、自分でおかわりを注ぐ。月光もその様子を見ながらまた酒を飲み干し、これまた自分でおかわりを注いだ。神戸は「飲めるねえ」と笑う。月光は「好きですから」と答えた。
「ほかに説明することあるかなあ……」
「店のルールをまだ話してねえだろ」
「ああ! 堅苦しいルールはあまりないんだけど、仕事中にキャストの女の子と話すのは新人のうちはNGね。研修期間が終わったら一応はOKになるけど目的はあくまでも仕事を円滑にすすめるためだから。職場恋愛はダメ」
「わかりました。それは大丈夫だと思います」
「まあとりあえず説明はこれくらいかな。あとは仕事しながら追々ね」
神戸が懐から煙草を取り出し、火をつけた。銘柄はショートホープだった。蜂蜜のような甘い香りが部屋に充満する。沢崎もまたスーツのポケットからわかばを出して吸い始める。月光もまたアメスピペリックを吸い、三人がそれぞれ違う煙草を吸い始めた。部屋の中の匂いが異なる煙草の香りに包まれ混沌とする。
「それとシフトは前半8時から16時、後半16時から24時だ。初出勤は明日の後半シフトな」
「明日ですか」
「決断から行動は早いに越したことはねえ。時間が空くと決断が鈍る」
「わかりました、明日の16時ですね」
「まあ最初なので少し早めに来ていただけると助かります」
「わかりました」
神戸と沢崎が煙草を消して酒を飲み干し席を立つ。沢崎が手に持った黒い布袋を自分の座っていたソファに置いた。神戸は「それじゃあ明日」と言ってから玄関に向かう。沢崎は月光の肩を叩いてまた玄関に向かった。月光は布袋をチラっと見てから二人を見送る。
「それじゃあまあ明日からよろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします!」
「ま、しっかりやるこったな」
月光が頭を下げると、二人は扉を開けて家から出た。扉が閉まるまで見送ると鍵を閉めてから、ゆっくりとソファにある布袋に手をかけた。布袋のハンガーの部分を手に取り、たたまれているそれを広げてファスナーを開ける。中には濃紺のスーツが入っていた。月光は目頭が熱くなるのを感じながら自分で買ったシャツを着てスーツを着ていく。スマホで調べながらネクタイを締めてスーツのジャケットを羽織った。その姿を鏡で見る。新品スーツ特有のノリのパリッとした感覚に、背筋が引っ張られるような気がする。心配だったネクタイとスーツの色合いもしっかりとマッチしていた。始めて見る自分自身の姿に、月光はニヤニヤしながら首を傾げる。「違和感がすげえ」と呟いて笑った。
「ここからだな。また人生を始めるんだ。止まったままじゃいられない。今は人の力を借りたままでも。最終的には自分の力だけで世界を生き抜いてやる。ようし! 寝るか!」
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