冬が真っ赤に染まる音

鴻上ヒロ

第1章:リスタート①

 八畳の部屋の片隅に布団が敷かれている。部屋の中心に置かれた本棚が部屋全体二威圧感を放っている。本棚の目の前にあるローテーブルの上に置かれている灰皿にカーテンから漏れた太陽の光が降り注ぐ。灰皿には何十本もの吸い殻が突き刺さっている。


「うーん」


 布団の上で腹を出して寝転がる坊主頭の男、相野月光が寝返りを打った。カーテンから漏れる太陽光が月光の顔にかかる。「あー」呟きながらゆっくりと目を開けた。腕で目を覆い舌打ちをしてから寝返りを打つ。ゴロゴロ何度も寝返りを打って光の当たらない場所を探した。光は時間経過とともにだんだん大きくなり、やがて布団全体を覆う。「しょうがないなあ」と起き上がり枕元に置いていたペットボトルの炭酸水を飲み、「あぁー」と声を漏らしながら布団の横のローテーブルに置いていた煙草を手に取る。アメリカンスピリットペリック。火をつけてゆっくりと煙を吸い込む。独特なツーンとした刺激とピート香のような重い香りがする。なんとなく頭が痒くなり、頭をかいた。煙を吐き出しながらあくびをする。「ふわぁあ」という間の抜けた声が部屋の中に虚しく響いた。


 月光は煙草をくわえたまま布団から出た。間仕切りの扉をあけてキッチンに行き、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中から発泡酒を取り出す。プシュッと小気味いい音が響く。煙草を左手の薬指と中指の間に挟む。発泡酒を右手で持ち、飲んだ。炭酸の刺激が寝起きの喉を傷つけながら潤す。「うんま」呟きながらソファに座る。


 隙間があいているカーテンをしっかりと閉じ直す。暗い部屋を紫煙が薄っすらと白く染めていく。月光はすぐにビールを飲み干してしまった。短くなった煙草をもみ消し、本棚から気に入っているSF短編漫画集を取り出す。月光が読んでいるのは少年少女の乗っていた宇宙船が壊れ、不時着した土地で生活地盤を作り上げようとするも主人公だけは諦めずに宇宙船の修理方法を考えるという話だ。最終的に巨大な氷を外殻とし宇宙船を修理する。月光が鼻で笑う。「ありえるのかねえ」言いながら本を本棚に戻した。

「何度も読んでるけどあれはどうなんだろう」

「流血鬼とかは最初から最後まで素晴らしいが、あのオチはどうなんだ?」


 ジャージを脱いでジーパンとシャツを着る。シャツの上からスカジャンを羽織った。スカジャンの背中には龍の刺繍がほどこされている。鏡で刺繍を眺めながら「龍は似合わんなあ」と呟く。月光のどことなく幼く見える顔立ちにはあまり似つかわしくなかった。龍という生き物はあまりに尊大過ぎて、あまりに偉大すぎる。それを背負うということに月光は申し訳無さを感じて、誰にでもなく謝った。スカジャンとジーパンのポケットに財布と煙草とスマホを詰め込む。靴下を洗濯していなかったことに気づき、下駄を履いて外に出た。


 扉を開けた瞬間、月光の目を鋭い光が突き刺す。反射的に目を閉じてしまう。「眩しい……」ため息を付いた。空はどこまでも青く、一点の曇りもない。それなのに月光の目にはどこか霞がかっているように見えた。フラフラとしながらアパートの階段を降りると、階段の下に見慣れない車が停まっているのが見える。真っ黒な高級車だ。窓はスモークがかっていて中がよく見えないようになっている。月光は目を細めて高級車を観察した後、早足でアパートから離れて動物園前駅に向かった。

 切符を買って振り返ると、先ほどと同じ高級車が停まっている。しばらく高級車とにらめっこして、大勢の人の塊が改札を潜ろうとしている瞬間にその集団に紛れて改札をくぐる。集団と一緒に新大阪行の電車に乗り込む。扉が閉まる瞬間、月光を見て悔しそうに唇を震わせるスーツ姿の男を見た。月光は胸を撫で下ろしてシートに座る。月光はあの男に見覚えがあった。月光が金を借りている金貸しだ。闇金融ではないものの、延滞があると厳しい取り立てをしてくることで有名な街金である。


 月光は梅田で電車を降り、梅田のアーケード下にある飲み屋に入った。梅田屋。黄色い看板に大きく店名が書かれてある。朝からビールが飲める「モーニング」を提供している店だ。この店は月光の行き着けだった。月光が店内に入るや否や女性店員が「おはよう!」と声をかける。「いつもの?」と聞いてくる女性店員に対し、月光は奥から三番目の席に座りながら「いつもの」と答えた。

 月光の目の前のカウンターにはラップがかけられたおかずがずらりと並んでいる。キャベツ付きのコロッケ、ウインナーとシュウマイの合盛り、茄子の揚げ浸し、煮魚などなど……。ツマミにもオカズにもなるメニューばかりだ。月光は「コロッケもらうね」と声をかけ、コロッケの皿をひとつ手に取る。月光にドリンクを運んできた女性店員が「温めは?」と聞く。「いいや」と答える。

 月光の目の前にはコロッケとメガハイボールが並んだ。

「朝ごはんは食べた?」

「まだなんだよねー」

「あかんやん。サービスしたるから飯も食い」

 女性店員が月光の返事を待たずに白米をよそい、ふりかけをかける。月光はメガハイボールに口をつけながらその光景を目を細めて見ている。目の前に運ばれたふりかけご飯を見て月光は手を合わせた。

「いつもありがとね、楓さん」

「ええけどやな。私心配なるわあ」

「何が?」

 月光が箸を割り、コロッケを食べやすい大きさに切る。自らの蒸気で蒸されたのか、少し衣がふやけている。衣の中にはコロッとした牛肉と完全にすり潰された芋が入っていた。わずかに胡椒の香りがする。


「あんたみたいな若いもんがこんなとこで……」

 楓が店内を見渡してため息をつく。カウンターには月光と同じように午前中から酒を飲んでいる人が四名いた。四名中三名が推定年齢五十歳以上の男性。残り一名が推定年齢四十代ほどの女性だった。

「怒られるよそんなこと言っちゃあ」

 そう言って月光がコロッケを口に運ぶ。衣に包まれた滑らかな芋の舌触りと、胡椒のピリッとした刺激が心地いい。肉の甘みと食感が程よく主張してくる。その味が口に残っているうちに湯気が立っている白米を口に放り込む。そして、それをハイボールで流した。

 楓は「ええねんええねん」と言って月光の肩を叩き、カウンター奥に戻っていく。月光の二つ隣、一番奥のカウンターに座っていた男性が「悪かったな!」と笑いながら言う。「ほんまひどいですよねーあの人」と月光が笑いながらまたコロッケを口に運んだ。


 扉のない店内に外気が容赦なく入り込む。少し肌寒くなり始めた九月の末。目の前にはグツグツ煮込まれるおでん。月光の口の中によだれが溜まる。ただ、この店のおでんは昼過ぎにならないと仕上がらない。月光は仕方なくコロッケと白米を完食し、メガハイボールも飲みほした。すると月光のカウンターには勝手にメガハイボールが置かれる。楓が「飲むやろ?」と笑った。

「飲むけども」

「朝来るときはこれしか飲まんもんな」

「夕方は芋水しか飲まんしね」

 話しながら、目の前のカウンターを見る。無言で茄子の揚げびたしを指さすと、楓もまた無言でラップを外して月光に皿を渡した。カウンターに置かれている一味唐辛子を五回ほど振り、また手を合わせる。

「もう少ししたら熱燗の季節やわな」

「熱燗とおでんの時期かあ」

 言いながら茄子を口に運ぶ。素揚げした茄子から油と甘辛い出汁醤油が飛び出してくる。その少し雑味の残る味わいを一味唐辛子がピリッと締めてくれる。そこにメガハイボールで追いかける。ハイボールの若干のピート香が揚げびたしの風味と溶け合って、ハイボールが進んでしまう。月光は少しの肌寒さを感じていたが、同時に身の奥からじんわりとした温かさも感じた。


「もっかい働いてさ、熱燗とおでんが一番おいしい季節になったら彼女でも連れて来いよ」


 楓が目尻をわずかに下げながら言った。「私が審査してやるよ」とも。月光は「そうだなあ」と言いながら茄子とハイボールの組み合わせを楽しんでいる。月光は煙草に火を点けてため息をついた。

 ――また働くのも、いいかもなあ。


 家にまで張り込んでいる取り立てから逃げ続けることなどできない。サイレントモードにしているスマホを見ると十数件もの着信通知があった。「沢崎さん」と書かれている。今朝月光の家に張り込んで駅まで追ってきた金貸しの名前だ。アメスピペリックのツーンとした刺激を感じながら、月光は楓の顔をじっと見る。

「また前向きになれればいいな」

 楓は目を丸くしながら「なれる! お前は根性ある奴だからな」と笑った。月光がスマホの画面を見つめながら黙りこくる。楓は仕事に戻った。スマホの画面には沢崎の連絡先が表示されている。後は通話ボタンを押せば電話をかけられる。そうしたら「延滞している分全部これから仕事して返します」と言えばいいだけだ。沢崎からは「働くなら初任給で10万円返せ、あとは毎月5万円返済で許してやる」と言われている。


 灰皿に四本の吸殻が並び、メガハイボールを再度おかわりするほどに考え込んだ。月光は「電話かけてもいい?」と楓に問う。楓が「ええよ」と言って月光の行動を見つめる。月光は「うりゃ」と言いながら通話ボタンを押した。プルルル。プルルル。プル。プツッ。

「返す気になったかい」

 沢崎のとげとげしい声がスマホから聞こえてくる。

「今日から仕事探し始めます。なんとか金回りの良い仕事見つけて、初任給で10万、あとは5万円お返しします」

「おお。一念発起じゃねえか」

「いい加減後ろ向きなのも飽きてきたので」

 電話の向こうで沢崎が笑う。ハッハッハ。わざとらしいほどに大きな声で笑う。笑いながら「もっと早く決断して欲しかったものだな」と言う。月光が頭を下げながら「ご迷惑をおかけして……」と謝る。沢崎が「ほんとだよなあ」と笑った。するとすぐに声色が変わる。

「お前が決断さえすりゃあ話は早えんだよ。こっちで金回りのいい仕事用意して待ってたんだから」

「え? それはどんな」

「風俗店。ああゲイ向けじゃねえぞ。女の子が働く店のボーイとして雇ってやる。ちょうどツレが店長やってる店があってな。都合つけてやるけどどうするよ。初任給は手取りで30万。あとはまあ努力次第だな」

「10万円払っても20万円残るわけですか。そりゃ願ってもないことですね」

「毎月5万返済しても手元に25万残る。家賃とか生活費払っても飲み歩くには十分すぎるだろ」

「是非、僕にその仕事させてください」

「わかった。今晩な店長連れてお前のスーツ持ってお前ん家行くからよ。ああ夜十時くれえだ。詳しい話はそこでしようやな」

「わかりました。では」


 電話が切れた。ツー。ツー。ツー。月光はため息を吐いて「楓さん! ラムネチューハイちょうだい!」といつもと違うものを頼んだ。楓が「はーい!」と言ってラムネチューハイを作り、月光に手渡す。それからすぐにカウンターの奥に戻り、厨房から玉子焼きを持ってきた。玉子焼きが月光の目の前に置かれると、月光は楓の顔を見て目頭が熱くなるのを堪えながら「頼んでないよ」と言う。

「就職記念の奢りや。昔から好きやったやろ?」

「ありがとう。いただきます」

 手を合わせて玉子焼きを箸で切る。プルプルとした黄金食の玉子焼き。表面にほんのりとキツネ色の焼き目がついている。口に運んだ瞬間、優しく包み込むような甘さとその奥にほんのりと主張する塩気を感じた。そう変わった味付けではない。ただの甘い玉子焼きだ。それでも月光にとってはこれ以上ないごちそうだった。ゆっくりと味を噛みしめた後、消え入りそうな声で「うん」と言った。

「僕にとってはこれがおふくろの味みたいなもんやからね」

「知っとる。転機にはこれ食わなな!」

 楓が月光の肩を叩いて仕事に戻る。月光はゆっくりゆっくりと玉子焼きを口へと運ぶ。噛みしめる度に「うんうん」と頷く。酒を飲むのも忘れるほどに夢中で食べ、全て食べ終わった後ラムネチューハイで口の中をサッパリとさせた。また煙草に火をつけて天井をあおぐ。奥に座っている男性が「兄ちゃん就職したんか、おめっとさん」とくだを巻きながら言う。月光は天井をあおぎながら「ありがとうございます」と笑う。月光はもう何年か働いていない。貯金を切り崩して借金もしながら生活をしていた。酒が飲めるのはこの店が安いということもあるが、楓が白米などを少なからずサービスしてくれるためだ。楓は月光にとって「母親のような人」だった。


「12月頃にさ日本酒の出汁割とかメニューに追加してくれないかなあ」

「なにそれ」

「おでんの出汁でさ日本酒を割るんよ。ワンカップ買ったらよくやる」

「それならうちでもできるなあ。わかった。考えとくよ」

「そういうわけで、次来るのは初出勤日かな」

 月光が席を立つと楓が伝票を持ってレジに先回りする。「出勤日はまだ?」と問いながら伝票の内容をレジに打ち込み月光を待つ。月光は煙草をポケットにしまい、「今日決まるかな」と答えた。月光がレジを見ると画面には2350円と表示されている。2500円を支払い、150円を受け取って店を出た。

「頑張ってな! 疲れたらまた飯食わしたるで」

 背中越しに楓の元気な声が聞こえた。

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