生きる亡霊

朝山なの

生きるということ


 この病院には幽霊がでるという。


 いや、幽霊とよぶには語感が可愛らしすぎるだろう。それはもっといやらしく、醜い悪霊。


 死してなお生きることに執着をする。死んでいるからこそ、生にこだわるのかもしれないが。

 元は一人だったそう。けれど死したあとにも存在するため……生きるため・・・・・、生者をとりこんで同化していったそれは、もはや執念の塊だ。


 ゆえに悪霊の見かけは分からない。

 穏やかそうな老人か、中年の女性か、言葉を覚えたてのごとき幼子か。



 ともかくも悪霊は人を喰う。


 邪気の無いよう振るまい、たくみに生者へと近づくのだ。




 ▽




「糸ちゃん、今日もお注射がまんできてえらかったね」


「ありがとう! 糸はね、ちゃんとおくすりも飲むよ」


 首を右に十五度かたむけ、柔くえがおを見せる女の子。歩くたびに広がる漆黒の髪には天使の輪がまぶしく浮かんでいる。


 彼女は千野 糸せんのいとちゃん。

 十歳前後だが、小学校へは通っていない。主に心臓の病気での長期入院患者で、とても通える体ではないからだ。


「今日も絵本を読むんだって?」


「うん。おかあさんがね、『ぐーとりー』の新しい絵本かってくれたから読むの」


「そうか。じゃあ読みおわったら絵本のこと教えてね。勉強も教えるし、またお話しよう」


 朝の診察を終えた糸ちゃんは軽やかに……とまではいかないまでも、楽しげに自分にわりあてられた病室にもどっていく。


 彼女はもっぱら絵本をよむ。活字だけの小説なども買ってもらっているはずだが、きっとほとんど見たことのない病室の外の世界を、少しでも視覚で知りたいからではないかと私は思う。


 健気に自身の病気とむきあう彼女はよく笑う。決して満面の笑みではないけれど見るものの心にすっと入りこむような、そんな暖かく魅力的な顔をするのだ。


 今日も私は、糸ちゃんの笑顔から元気をもらった。

 廊下の大きな窓のそとを見れば、空までもがそうであるかのように晴れやかに澄み切っていた。




 この病院には毎日多くの患者がくる。


 都内からほんの少し外れた位置にたてられた、大きく角ばった真っ白な病院。

 異常なほどに真っ白なその外観は、みるものに清潔さを感じさせると同時に威圧感も与えることだろう。


 かくいう私も、初めてここへ来た時はひどく不安だったものだ。

 忙しなく目の前や真横をすぎる生と死に、そんな事はすぐにどうでもよくなったけれど。


 また一日がすぎさる。


 次の日のはじまりも、糸ちゃんと話をしていた。


「それでね、りーがぐーのプリンを食べちゃって。ホントはりーのために作ったプリンだったんだけど、あげる前に勝手に食べたから喧嘩になっちゃったんだ」


「大変だ、仲直りできたのかな」


「できたよ! 後でりーがね、プリンを作って二人で食べたから。……いいなあ」


 楽しく絵本の内容を聞かせてくれた糸ちゃんが、ぼそりと呟いた。

 羨んだのは、プリンという甘い食べ物を好きなように作って食べられることか、それとも友だちがいることか。どちらもずっとこの病室にいる彼女にはないものだ。


「糸ちゃんは病気が治ったらやってみたいこと、ある?」


「たくさんあるの。ぐーとりーみたいにね、友だちもほしい。美味しいものもいっぱい食べたいし、外をみて冒険とかしてみたい。糸、こんなにわがままだと叶わないかなあ」


「そんなことないよ。ほしいものは誰にでもあるから」


「うん……もっとちゃんとずっと、生きたい」


 だんだんと小さくなっていく声のなか、最後の言葉だけが力強くきこえた。


 深く伏せられた顔をのぞきこむことはできない。

 糸ちゃんは分かっているのだろう……自分の病気がいつ治るのか、そもそも治るのかも分からないことを。


 なにか声をかけようとして、なにも言葉がでないでいる私。


 やがて顔をあげた彼女の大きな目は、真っ黒で吸い込まれそうなほどに深くみえた。

 だがそれも一瞬で、いつもの笑顔にもどる。



 それでもきらりと朝の陽をうけた細い黒髪がはかなげで、私は思わずこう口にしていた。


「糸ちゃん……病院の外へ出てみよう!」




 ▽




 私は今、建物のそとにいる。

 裏から病院を見上げればあちらこちらで明かりがついていて、せかせかと動く人の影がみえる。


 セミの声やホーホーとフクロウのような鳥の声がきこえた。何の鳥だったかと周囲を見渡すが、陽がかたむき影がのびた今では探しにくい。


「糸ちゃん」


 私以上にきょろきょろと視線をめぐらしている彼女に声をかけるも、心ここにあらずな様子できこえていないみたいだ。


 ここはまだ病院の敷地内。


 今朝、私の急な提案をうけた糸ちゃんは夜に外にでたいと返した。

 たしかに夜のほうが人目につきにくいが、まず抜け出すのに苦労をした。見回りの人は私が先回りしてみつけ、慎重に進むことでなんとかここまでこれたのだ。


 夜とはいってもまだぎりぎり夕方だ。夏の陽はながい。

 真っ白なはずの病院が、真っ赤に染まっている。


 ふわふわとした足取りで進む糸ちゃんを追って、私もゆっくりと歩く。


「楽しい……! 糸が、夜におそとにいるなんて。ねえ、もっと遠くへいこう」


「待って糸ちゃん、あんまり行くと本当に病院の敷地のそとにでてしまうよ」


「いいの。外に、ずっとこうしていたいもん」


 仕方なく私もともにいく。彼女がこけた時に支えられるよう、糸ちゃんよりも前を歩く。



「ん……? あれ。前に歩けな、いっ」


 いよいよ敷地との境界線についた時、私の体はなにかに阻まれたように前へ進めなくなった。

 いや、後ろへと引っ張られるような感覚もする。とにかく私は敷地から出られなかった。


「出られないの?」


「糸ちゃん。うん、これ以上すすめなくて」


「じゃあ糸と一緒だね。糸はね、分かってるんだ。外に出たってきっと生きられないって……でもお姉さんといれるなら、糸は病院でくらすんでもいいよ」


 ぱっと両手を広げた彼女は、沈みかけている赤色に照らされこの上なくキレイにみえた。

 いつものように首を右に十五度かたむけ、柔くほほえむ。


 私は、背筋がぞくりとした。



 そういえば彼女はいつから入院していたのだったろうか。

 気がついたら彼女の存在が目にとまっていた。毎日あうようになっていた。あうのを楽しみにするようになった。


 私はいつから、なんでここにいる?


 でももう、どうでもいいか。


 彼女とともにありたい、今はそれだけなのだから。



 永遠に続くかのように思えた赤色の景色は、唐突にきえた。



 辺りが暗くなってゆくなか、首をかしげたままの彼女のもとへ歩く。

 こちらを見上げる大きな瞳は、闇の中でも澄んだ輝きをもっていた。


 私が外へ出れないのは、ここに執着しているからか。そうだ、まだ命が足りないからかもしれない。

 もう一度ぞくりと背筋が震える。この命の輝きを前にして。


「お姉さん、どうしたの?……あれお兄さん、だったっけ? 糸はどうやって呼んでたんだろう。ねえどうして顔がぼんやりして見えないの」


「糸ちゃん、私ももっと生きたい。やりたいことできなかったんだ。ううん、それも見つからなかったんだ。ずっとずぅっと生きていたら……見つかるかな、できるようになるかな。糸ちゃんみたいなキレイな命があればきっと……」


 宝をすくうように頬を持ちあげ顔を近づける。


 余すことなく飲み込めるよう、大きく口を開く。彼女は、糸ちゃんは何が起こっているか分からないようだ。



 無邪気を、無垢をとりこんでいく。



「これでまた存在していられる、生きていられる」


 あんなにキレイに映った純な色は、私の中でまじりあい分からなくなってしまった。

 けれど確かに私の中にあるのだから、これでいいのだ。


 何故か小さな虚無を感じつつも、やがてその感覚も消えていった。


 黒く夜の色にそまった病院いえを背に、太陽のかわりに昇ってきた月を背に、陽の沈んだ地平線にむけて両腕をのばす。




 ああ、生とは、素晴らしい。

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生きる亡霊 朝山なの @asayama_nano_90

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