第10話


 指揮者が腕を振り、ステージが鳴る。駆け出し、演技し、愛を囁き、笑い、こけつまろびつ川に飛び込んで、語らい、そして音楽を紡ぐ。14人分の肖像を映すのは、エドワード・エルガー作曲独創主題による変奏曲

 俺は、ヴァイオリンを弾いている。



「ラファエル、お前結婚してたのか」


 楽屋で着替えていると、不意に隣で髪のワックスを落としていたチェリストが言った。


「何の話だ」


 どこからそんな結論が出たのか知らないが、残念ながら結婚したことは一度もない。少々ばかし剣呑な顔で聞くと、だって、と言ってチェリストは楽屋の出入り口を指した。


「お前の子供じゃないのか」


 戸口にはナップザックを背負った一人の少年が立っている。歯の矯正のブリッジを見せびらかすような笑みで、こっちを見て、そばかすに眼鏡の少年が手を振っている。

 俺は解きかけていた蝶ネクタイを完全に解いて、タキシードの上着はうっちゃり、着替え途中の楽団員でごった返す楽屋を突っ切って出入り口まで駆け寄った。


「ひさしぶり、ラファエル」

「ケビン、どうしたんだ」

「コンサート、見に来たんだ。ひどいよラファエル、いなくなるなら言ってくれたらいいのに」

「ごめんな」


 いつぞやみたいにむくれた顔をするケビンの頭を撫でた。


「1人なのか?」

「ううん。パパと来るつもりだったんだけど、パパ、今日は仕事だから、別の人と来たんだ」

 

ケビンはぱっと俺の手から離れて、生意気そのものの笑みを浮かべる。


「誰だと思う? ラファエルも知ってる人だよ」


 まさか、と思って廊下を見遣ったが、そこには誰もいなかった。


「足が悪いから客席で待っててもらってるんだ」


 そんなの、殆ど答えみたいなものだ。俺は急にからからになったような喉から、声を絞り出した。


「何が、言いたいんだ」

「ラファエルは勘違いしてるよ」


 ケビンは笑っている。悪気なんて微塵もない、ただ面白いことを知っているから、教えたくて尋ねてほしくて仕方が無いような、そんな笑い方だ。


「僕、あやまりに来たの、ラファエルのこと好きだけど、全然、あの人が言うみたいに『本物のホームズ』なんかじゃないって思ってた」

「その通りだよ、俺は本物でもなんでもないし、もうそういうのは止めたんだ、帰ってくれ」

「ううん、ラファエルは本物だよ、だって誰もラファエルにああしろこうしろなんて言わなかったのに、何にも知らないのにラファエルはホームズをやったんだ」


 ケビンはポケットに手を突っ込んで、一枚の紙切れを取り出した。《エニグマ変奏曲》第14変奏の楽譜。安物のボールペンのかすれた文字で書かれた「こうするのがふさわしいんだ」と書かれた文字。


「ホームズは一度、敵に滝つぼに投げ落とされて殺されちゃうんだ。ワトソンは遺書を見つけるんだけど、そこにはこう書いてあるんだ。『僕にはこんな結末がふさわしい、僕はこうなると確信していた』ってね」

「……お前は本当に物知りだ」

「ラファエルの方が物知りだよ。今日の曲の話、謎の主題の話をね、してもらったんだ。ラファエルが教えてくれたんだよって」


 彼はその会話の中で自分のことを、一体何と呼んだのだろう。尋ねることも出来なかった。幾通りも返答を予想できたが、そのどれだって聞きたくなかった。押し黙る俺を見上げて、ケビンは問いかける。


「ラファエルは、楽しくなかった?」

 

 驚かされた。戸惑った。慣れた。朝食は美味しかった。ヴァイオリンを褒められた。心配された。朝起きると人がいた。今の部屋には誰もいない。

 楽しかったかどうかは、知らない。


「僕は楽しかったよ。みんな楽しかったと思う。だって、初めてホームズが来たんだもん。ヴァイオリンが弾ける、物知りの、僕らにとっては本物みたいなシャーロック・ホームズが来たんだもん」

「俺はホームズじゃない。ラファエル・フリーマンだ。ヴァイオリニストなんだ」

「僕らには、あのひとにはホームズなんだよ。ラファエルで、ヴァイオリニストで、ホームズなんだ」

「お前は俺に何をさせたいんだ」


 こんな小さな子供にムキになっているのが恥ずかしいという気持ちよりも、築き上げた何かを揺すぶられているような感覚が耐え難かった。問い質すと、ケビンはむくれた顔をして、俺の鼻を抓った。


「何するんだ」

「だから、僕、あやまりにきたんだってば」

「それが謝る態度か」

「だってラファエルが変なこというんだもん。なんで全部やっちゃダメなの、ラファエルでホームズでヴァイオリニストで名探偵じゃ、どうしてダメなの」

「俺に戻ってきてほしいのか」

「知らない! 僕に聞かれても困るよ」


 そのときケビンが思い浮かべていた顔と、俺の思い浮かべていた顔はきっと同じだった。降り注ぐ星を背にして、少し右に傾いた丸顔の男が微笑んでいる。



 君、僕のシャーロック・ホームズになってくれないか。



 不器用に駆け上がっていくような、第7変奏が聞こえる。頭の後ろで鳴り響いている。


「ホームズは結局死んだんだろ」

「まさか。名探偵が死ぬわけないでしょ、ホームズは敵を倒して生き残ったんだよ」

「それで?」

「ホームズは古書収集家に化けて、ロンドンの街にやってくるんだ。ホームズが変奏の達人だって話、したっけ?」

「初耳だな」

「なんにだってなれるんだよ。1フィートのおじいちゃんにも、イタリア人の神父にもね」

「そりゃすごいな、なあケビン」

「なあにラファエル」

「ホームズってのは、ヴァイオリニストにもなれるのか」


 ケビンはにっこり笑った。矯正のブリッジが天井の電灯を反射して光る。


「なれるよ、きっと。ホームズはヴァイオリンが上手いんだ。ラファエルもホームズに興味あるの?」


 読みたい? と言いながらケビンは背中のナップザックから本を取り出す。「緋色の研究A Study in Scarlet」と題された本を受け取って軽く捲りながら、俺は廊下の曲がり角に向かって歩き出した。

 本の中で一人の男が研究室のテーブルに覆いかぶさるようにして仕事に没頭している。星も降ってないし音楽も鳴らない。何だつまらないと言いかけて、大ファンの手前口をつぐんだ。


「どこに行くの?」

「決まってるだろ」


 ケビンが弾んだ声で尋ねる。汗の滲むような第7変奏から、穏やかな第8変奏に旋律は表情を変えていく。駆けて、笑って、語らう、どれを取っても、この美しい曲には変わりない。

 ヴァイオリンが得意で、好きで、それしかやってこなくて、ついにはそれしか出来なくなった。

 今じゃどうだ。物知りで、記者のフリだってできて、おまけに誰かさんにとっては本物のシャーロック・ホームズになれるんだそうだ。そんな話は聞いたことがない。ホームズも読んだことはないけれど。だが言ってやるとするならば、杖をつく男の荷物もちなんて名探偵はしてやるのか? 

 俺はしてやるが。


初歩的なことだよ、ワトソン君Elementary, my dear Watson

「それはワトソンに言ってよ」

 まったくもってその通りだ。

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