第9話

 ハドソンさんはとっくに寝ている。間を埋められるようなお茶やコーヒーも無いしテレビは消えている。

 ジョン・ワトソンはリビングのテーブルで本を開いているが、そのページがさっきから捲られていないことを俺は知っている。


「なあ、エイブラハム・デイ」


 自分の声が実際以上に大きく聞こえる。向かいに座った男は顔を上げない。


「ごっこ遊びってこと、別に忘れたわけじゃないんだろ」


 ページを捲る音さえ聞こえない。俺自身の声だけだ。あとは、かすかな耳鳴りも。


「虚しくないのか」


 本当にこれは耳鳴りだろうか。


「楽しいのか?」


 耳鳴りがどんどん大きくなる。頭の後ろで鳴っている。


「今日、電話が来たんだ。ブリストルの方の管弦楽団から、うちで弾かないかって」


 高い、ヴァイオリンの音だ。大きな波のようなヴァイオリンの旋律。


「今戻らなかったら、もう今度こそチャンスはない。俺は音楽を捨てられないんだ。ここにいたら、ヴァイオリニストの自分を忘れてしまいそうなんだ」


 目の前の男は微動だにしない。聞いているのかどうかもわからない。聞かないように努めているのだろうか。ホームズは音楽の道に戻りたがったりしない、それくらいは俺にもわかる。


「何で俺の事を『本物のホームズ』だと思ったんだ、お前のごっこ遊びにつきあってやったからか」


 返事はない。気付くとリモコンを握っていた。ボタンを押せば深夜のニュースが控えめな音量で流れ始める。

 ジョン・ワトソンは俺の手の中のリモコンをひったくるとすぐさま電源を切り、リモコンをぽいとテーブルに放って読書に戻った。ページを捲くる音が、ヴァイオリンの音より大きく響いた。


「ワトソン」


 ジョン・ワトソンは顔を上げた。


「なんだい」

「紙袋をひとつくれないか、出来るだけ大きいやつ」

「いいけど、何に使うんだい」

「ちょっと、まあ」


 首を傾げながら、ジョン・ワトソンは立ち上がって紙袋を探しにかかった。その姿を座ったまま、俺はただただ眺めていた。

 もう耳鳴りは聞こえない。《皇帝》だったな、とだけ思ったけれど。




 細々したものはトランクへ、衣類は紙袋へ。最後に残った楽譜の束をどちらに入れるか一瞬悩んで、どっちだって構わないじゃないかと結局適当に紙袋へと突っ込み、あまりに適当に突っ込んだせいで、端の1ページがズボンのボタンに引っ掛かってぐしゃりと歪んだ。

 《エニグマ変奏曲》の最後の1ページは延ばしてみようとすると、逆に破けて手の中には半ページ分の紙切れが残された。

 そのままゴミ箱に入れるのは、何故だか躊躇われたのだ。それに、ハドソンさんにあれだけお世話になったのに、一言も残さずにいなくなるのは失礼極まりないようにも思った。

 どうせ上等な便箋なんてもっていやしないのだ。安物のボールペンで、感謝と、顔も見せずにいなくなるお詫びと、朝食が大変美味しかった旨、それからケビンとウォーカー氏によろしくと楽譜の余白に書き記し、それから裏返して、「こうするのがふさわしいんだ」と大きく書いて、また裏返して机に置いた。


 白いドアを開くと、リビングにはもう誰もいなかった。静かに玄関を出て、夜空を見上げる。ロンドンの空には大した星なんて見えやしない。


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