「その青い花には触るなよ」
ミヒロさんは振り向かずに言った。僕がスケッチ用のペンを置いて、その花に手を伸ばしているのが見えているかのようだった。
花は古い扇風機の羽のような肉厚の花弁を広げて、温室の白熱灯に向かって仰向けに、プランターに寝そべるように咲いている。土の上に這わせた細い茎のベッドの上に手のひらより大きな花がひとつどっしりと咲いているのは、マネキンの頭部だけが放り出してあるような不気味な印象を与える。
「毒がある。潰すと汁が出てそいつに触れたところから爛れて潰瘍になる」
潰瘍ってわかるか、とミヒロさんが問う。
なんとなくはわかるけれどもうまく言語化できない。しゅ、しゅ、とカウントダウンのように小刻みにミヒロさんが霧吹きを吹く音が厚い葉の塊たちに吸い込まれていく。
ふと「気づくだろうか」といういたずら心で黙って首を横に振った。
「潰瘍っていうのはそうだな、口内炎もそうだな。痛いぞ」
ミヒロさんの声が遠くなっていく。温室にはさまざまな植物が植わっていて、さながらひとつの森のように思える。 ミヒロさんがお爺さんから継いだというこの温室は、スケッチのための題材には事欠かない場所だ。
「うちのジジイはそいつをすり潰してだな、こいつとこいつと混ぜて風邪薬にして俺に飲ませてた。仕組みは今もってわからんがとにかく鼻と咳にてきめんに効く」
「ミヒロさんも作るの?」
「作らんよ、怖くて飲めねえ。一歩間違えば毒だ」
「おじいさんのこと信用してたんだね」
ミヒロさんの返答が遠くなっていく。ざわざわと葉の擦れる音を聞きながら、僕は肉厚の花の素描に皺の多い手を書き添えた。
「ま、心配してくれる人がいるってのはいいもんさ」
温室をぐるりと一周してきたらしいミヒロさんが、僕の隣にしゃがみ込む。覗き込んでくる視線から、スケッチブックを庇いきれなかった。
「ジジイか」
「う、うん」
「手袋描いてくれ。素手で触るもんじゃねえ」
ミヒロさんのいつになく優しい声にその横顔を思わず窺う。照れたように下唇を噛んでから、ジジイは嫌いな奴に出す茶にこいつの汁を混ぜてたよ、と言った。