タランテッラ・シチリアーナ

ポリエチルベンゼン

プロローグ 防護巡洋艦「エリトレア」行方不明事件

◆ 1972年10月29日 『ウニオーネ・ディ・パレルモ』紙 5面


ファシズム時代の始まりである、あの「ローマ進軍」から50年。本紙においても連日特集を組み、当時のパレルモの様子を振り返っている。

本日は、必ずしもローマの情勢と連関しているかどうか定かではない、50年前の今日に発生したとある事件について取り扱う。

ロンバルディア級防護巡洋艦の8番艦「エリトレア」が、ローマからパレルモに向かう途中に消息を絶ったという不可解な事件だ。


1902年に進水した「エリトレア」は、第一次世界大戦を経て、22年春に海軍から除籍されていた。そして、ローマで解体を待つ間にファシストのクーデターが発生したのである。

しかし、この時に元艦長である海軍少将コジモ・デ・マルコーニがとった、「エリトレア」をパレルモに向かわせるという選択は不可解なものであった。

彼自身はローマ進軍に参加し、ムッソリーニの近くで行進をするほどのファシストだった。

そのような人物でも、愛艦に対する思いはイデオロギーに勝ったのだろうか。

文書によれば「無用な混乱を避けるため」防護巡洋艦の移動を決定したという。


34年にこの世を去ったデ・マルコーニの思惑は不明であるものの、いずれにしても「エリトレア」はパレルモに向かった。

そしてその途上、いずこかの地点で突然消滅したのである。


デ・マルコーニは自身の失態に対する責任を取る必要があっただろう。

しかし、ムッソリーニが海相を務めていた27年に、彼に対する問責は正式に取り下げられた。

20年に問題となった娘婿の神父殺害容疑に続いて、このフィレンツェ貴族家は再び疑惑をもみ消したのである。


我々はこの事件の目撃者が存在するのかどうか、パレルモ付近で調査を行った。

結果、当時の状況を知る数人から興味深い証言を得ることができた。


ローマ進軍のころ、シチリア北岸のいくつかの町で、電灯やガス灯の区別なく、すべての灯りが一時的につかなくなった日があったようである。

当時の報道を調査した結果、これは29日夜に発生していた。

そのために「エリトレア」を視認することは難しかっただろうというのが、大多数の証言であった。


唯一異なる証言をしたのは、元漁師という70歳の男性だった。

その日の仕事を終えて休憩がてら穏やかな海を見ていると、小型の船舶が数隻明かりをつけて航行しており、その奥に軍艦らしき影を認めたという。

すると突然すべての光が消え、彼は家の様子を確かめに戻った。

これは10分ほどで復旧し、続いて海上の船舶の様子を確認しに戻ったところ、軍艦だけが忽然と消えていたという。

彼は記者に対し、「記憶力を頼りに戻るしかなく、途中で転んだためによく覚えている。周囲は騒然としていたが、沈没に伴う轟音のようなものは聞こえなかった」と語った。


当時のデ・マルコーニ家を構成していた人物は少なくとも44年8月までには完全に離散し、一人を除いて消息不明である。

本紙は、その唯一の「生存者」といえる、コジモ・デ・マルコーニの三女であり5月の選挙で上院議員に選出されたヴィオラ・ロ・クルト女史にも取材を依頼したが、回答は得られなかった。



◆ 1962年10月29日発行 月刊オカルト雑誌『エニグマ・ディタリア』読者投稿欄


そろそろ「エリトレア」行方不明事件から40周年だし、多分来月号で特集とか組まれるだろうから、あの頃のデ・マルコーニ家の人物についておさらいしようぜ。


まず当主のコジモ。1870年生。

「エリトレア」をパレルモに行かせた張本人だが、行方不明の理由を知っているかと言われれば、俺はそうじゃないと見ている。

あんな大掛かりなことする当日に、ドゥーチェと呑気にお散歩できるほどの胆力があるとは思えねえ。


その長女のジルベルタ。1895年生。

15年頃革命的サンディカリズムに傾倒してスイスに行ったきり消息不明。

そのままソ連にでも向かったんですかね。


双子のアントニオとオッタヴィオ。1896年生。どっちも陸軍軍人。

二人とも大戦中はリビア植民地勤務だったが、オッタヴィオは17年、休暇で本土に帰る途中にドイツの潜水艦に襲われて死んでる。

アントニオは事件当時含めて殆ど植民地勤務、41年にエチオピアで英軍の捕虜になって、翌年腸チフスで死亡。


次女コルネーリア。1897年生。

あのエンリコの嫁。事件と同時期に大けがして、自力じゃ簡単には動けない状態になったらしい。

目立った活動はない。消息不明。


その旦那のエンリコ・コルドリオ。1895年生。

カトリック系の新聞記者だったらしいが、20年にパレルモの近くで神父を殺したらしく捕まった。

無罪になった後コルネーリアと結婚し、事件の後はシチリアで山賊やマフィアの摘発に関与してたみたいだが、資料が全然ねえ。

同じく消息不明。


三女ヴィオラ。1898年生。

16年にパレルモの貴族ロ・クルト家の当主に嫁いだ。

72歳と18歳の夫婦だぜ。冷えた政略結婚だったんだろうな。

今唯一生存確認できてて、キリスト教民主から出馬して下院議員やってる。


四女クレオパトラ。すげえ名前だ。1899年生。

考古学の才があってチュニジアのカルタゴ遺跡を掘ってたみたいだが、25年頃にいなくなった。

それからずっと消息不明。一時期エンリコかヴィオラの近くにいたって話もあるが、本当かは知らん。


書いたらこれだけの分量にしかならねえし、何か足んねえような気もするが、それはもうかなーり調べたぜ。


俺の努力がキューバの核ミサイルで吹き飛びませんように!

 


◆ 1952年10月29日 ある民俗学者の手記


本日取材した老人の語る内容は、他の地域の伝承とはあまりにかけ離れており類型化できるものではなかった。

おそらく一個人の豊かな創造力によるものだろう。


「地上からすべての灯りが消えるとき、蜘蛛は糸を紡ぎ出し、完成したら人々を皆巻き取った」という言葉から、私はエトナ山の噴火や地震にまつわる話であると予想していた。

しかしそれを老人に問うてみると、彼は血相を変えて否定した。

「私は生き残りだ」と鬼気迫ってまくしたてる老人の形相は忘れられないが、他の人物から同様の話は出てこなかった以上、私が論文に書くべきものではない。



◆ 1942年10月29日


この日のシチリア島の天気を報道から知ることはできない。

この日は北アフリカ戦線において第二次エル・アラメイン会戦が行われている最中であり、イタリア各地の気象情報は無論のこと軍事機密となっていた。



◆ 1932年10月29日


「ファシズムによる統治10周年」を控えたパレルモでは、一部の役人が不安な表情をしていた。

10年前の今日、沿岸部における「大規模停電」が発生した。

政府はイタリアの発展を国内外にアピールしたいことは間違いないが、世界恐慌のダメージから抜け出せない中で、10年前と同じことを起こしてケチをつければお小言以上の何かがあるかもしれない。


「ファシズムがシチリアを再び照らす」。

かつて(地中海)世界の中心であったこの島を政府が掌握しようという試みは、少なくとも「犯罪組織」鎮圧の面では成果を上げていた。

独裁体制である以上、国家内に別の権力構造が存在することはムッソリーニ政権にとって許容できるものではなかった。

それゆえに20年代のうちにマフィアや山賊の活動は抑えられ始め、(前任のチェーザレ・モーリ知事の好みでもある)大規模な鎮圧作戦も敢行された。

現状では経済面の活性化は伴っていないが、せめて町を「電飾」することで文明国イタリアの雰囲気を出さねばならないだろう。


役人たちの不安をよそに、この日は何事もなく過ぎ去った。

10年前の出来事は単なる偶然にすぎない。迷信ですらない、偶然の産物だ。

パレルモ県知事ウンベルト・アルビーニ以下、全ての地方官僚が胸をなでおろし、翌日を迎えた。

10年前の同日に起きた事件は、発生地点が不明である以上、彼らにとっては全く無関係なものだった。




◆◆ 1922年10月29日 防護巡洋艦「エリトレア」船員室


「ごめんなさい、何も言わないままあなたを連れ出してしまって」

薄暗く、波でわずかに揺れている部屋の中、男の前に彼の妻が立っていた。

その口元にたたえられた笑みは、電灯に照らされて金色の髪を飾っている。


「折角無罪放免となったのですから、館でゆっくりとして頂きたかったのですが…あんな騒ぎでは落ち着くこともままなりませんね」

妻はローマ進軍の喧騒に対し、言葉では不平を漏らしていた。

しかし、その顔はどこか嬉しげであり、むしろ除籍済みの防護巡洋艦といういかめしい「館」を好ましく思っているようにさえ見えた。


「万一にでも私たちに危害が及んではいけないと、お父様が計らってくださったことに感謝しているんです。これほど巨大な船舶である必要はなかったのですけれど、この祝賀会にお呼びしたかった方々を乗せられないよりはずっと良いですね」


男は沈黙して、座りながら妻の顔を見上げていた。

陰になっているその表情を判別するのは困難だが、体調は良くなさそうだ。

もしかしたら、私と同様にこの男も船酔いしているのかもしれない。

月明かりを浴びながら、外の空気を吸いたい。


「そうだ。あなたは船内でしばらく休まれていたでしょう。この後ちょっとした余興があるのですが、その前に私の家族を紹介するべきですよね。一緒に参加してもらうわけですから」


男が顔を上げ、私と初めて目が合った。

目鼻立ちは整っているが、長期にわたる心労を回復させている途上にあったのだろうか、少しばかりやつれていた。

「エンリコさん、ご紹介します。これが私の――




私にその先の記憶はない。

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