1999年のサヨナラ
いまづもと
第1話 激辛ラーメンをあなたにお届け!
どんな物語も夏に盛り上がりを見せるのはなぜだろう?
蝉がミンミン鳴いて、人と人の汗が交錯しこれまでの人生を結実させたようなピークを迎え、やがてその人にとっての最高潮が引いていく。
1999年の夏は恐怖の大王が空からやってくるという話で持ちきりになり、閉塞感漂う日本社会もこれで終わってしまうのだという緩慢な自殺みたいな希望を皆少しだけ心のどこかで抱いていた。
俺はあの夏のことを今でも時々思い出す。JR大阪環状線の野田駅のホームに立ち寄り、闇を照らす長屋の明かりが見えると、過去の記憶がどっと押し寄せてくるのだ。
その年、俺は高校を卒業して数年間続けていた土掘りの肉体労働の仕事を夏の暑さがやって来る前に見切りをつけて野田の中華料理店でアルバイトを始めた。店の裏に従業員ならただで居座らせてくれるゴキブリ臭い十畳の雑居部屋があり、住んでいるのも俺一人だったので、気楽で気に入っていた。
夏は冷やし中華の次に、激辛キムチラーメンがよく売れる。その日も電話がガンガン鳴って、俺は岡持ちをもって自転車に乗り、灼熱のアスファルトの街を走り回った。これじゃ土建仕事となんら変わらない。出前も立派な肉体労働なのである。
22時5分前になり、もう閉店かという時間になった頃、滑り込みで電話が入った。大将が
「相田、激辛キムチラーメン!駅前の梅本さんとこや」と言い、出来上がった丼鉢をよこしたので、俺は地図でその人の部屋を確認して自転車を走らせた。
初めて行く家だった。梅本、どっかで聞いたことがあるなあ……。
梅本という客が住んでいる長屋は、昭和の大空襲以前から存在していたような古びたもので、軒下に植木鉢があり、猫がたむろしていて、祖父母の家の仏壇から香って来るような線香のにおいが鼻をくすぐる。そんな長屋だった。
共用玄関から木製の階段を三階まで上がった一番奥に梅本の部屋があったので、呼び鈴を押す。
「どうも、楽々軒でーす。お待たせしました」
部屋の奥からどかどかという足音が聞こえ、腐りかけの木の扉が勢いよく開いた。
「早いね! ありがとう」
男は半裸だった。トランクス一丁で肩からバスタオルだけ掛けている。
「悪い悪い、15分くらいはかかるかなと思って、汗だくだったからシャワー浴びたかったんだ」
「いやいや、いいっすよ。激辛ラーメン。680円です」
財布から金を出している間、ちらりと男のからだを見た。よく日に灼けた赤銅色のいかつい猪首に、大胸筋はモリモリと盛り上がり、腕っ節や脚は丸太を思わせる重量感がある。あまりの肉感につい惚れ惚れしていると、ふいに男が声をあげた。
「お前、もしかして相田か? 五年前うちの高校通ってただろ」
「げ、梅本先生!? こんなところに住んでたんすか」
俺も人様のことを言えたようなところには住んでいないが、梅本のところも俺の下宿先と負けず劣らず汚らしい。狭い畳の間に洗濯物が吊るされていて、よくわからないカップラーメンやら酒瓶やらのゴミが部屋中に散乱している。
「三年前に嫁はんに出て行かれてな。それからはずっと楽々軒にお世話になりっ放しなんだぜ」
梅本はほつれたオールバックの髪を額にかけながら、悲しげに笑った。
「相田もちゃんと働いてて偉いじゃないか、卒業したらゴロツキになるしかないと思ってたんだぜ。まさかお前が野田にいるとはなあ」
「早く服着るか、680円払ってくださいよ。長話してたら麺のびますよ」
「すまんかったな、だらしないカッコ見せちゃって。仕事、頑張れよ」
梅本先生はそう言うと、千円札を引っ張り出して俺に渡した。
梅本はテニス部だかラグビー部だかの顧問の体育科教諭で生活指導の担当でもあった。俺は朝どうしても起きられなくて、毎日遅刻していたので、梅本には生徒指導室で何度も絞り上げられた。
土方や中華料理屋一本で働いていたなら、俺も梅本に胸を張って会えただろう。
でも、俺には後ろ暗いもう一つの仕事があった。
「仕事頑張りますね。でも、俺マトモな大人じゃないですよ。もう少し梅本先生の説教を聞いていたらよかったです」
梅本はなんのことだろう、といった顔をしていたがニカッと笑って
「おい、お前ちょっと上げっていけよ。散らかってて悪いけどさ、楽々軒には俺が電話しといてやる」と言い放った。
「いいっすよ、自分で電話しますよ。でもまあ折角だしお邪魔していいですか?」
俺は大将に、明日売上金を持っていくと連絡をした。
『おめーは23時上がりなんだからよ、皿洗いとか店締めとかの仕事もあるんだぜ』と
大将にちくちく小言を言われたが、どうしても俺は梅本先生と一緒に飲んでみたかった。こんなにエロい肉体を目の前にして、頭がのぼせて沸騰しそうだった。
部屋に上り込むとこもった男臭さが充満していた。
「焼酎あるぞ。麦も芋も。俺はラーメン食うからちょっと待ってろよ」
梅本先生は激辛ラーメンを美味そうにずぞぞと啜って、あっという間に平らげた。
スープを飲み干す間に、汗の雫が逞しい胸の谷間をつたい落ちた。
「先生、これマリカーじゃないですか。一緒にやりましょうよ!」
「おいおい、酒盛りするんじゃないんかい」
夏の夜の涼しい風が開けっ放しの窓から吹き込み、風鈴をチリンと鳴らす部屋で、俺と梅本先生の時間が始まった。
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