番外編 楽々軒での日々

 楽々軒で働いていた時代のことをちょっと話そうと思う。

 楽々軒の店裏にある十畳の従業員寮には、たくさんの漫画が置いてあった。


 こちら葛飾区亀有公園前派出所、まるごし刑事、大将の好みのおっさんが好きそうな漫画諸々だ。俺はこの中でもこち亀が特に好きだった。


 秋本治先生は、若い時分に入院したとき優しくしてくれた看護婦さんの苗字から、両津の名前を命名したらしい。こち亀の雑多でコミカルな内容とは打って変わって、秋本先生のその思い出のエピソードが好きだった。


 過去ってそんな風に焼きついた風景になっていくのかな。

 俺は深夜までの出前の仕事が終わり、眠るまでの時間、日に焼けたコミックスを読み耽った。自分自身の人生がどのように過ぎていくのか、見当もつかなかったが、こんな風に時間が流れ去っていくのかとぼうっと天井を眺めながら、濡れた段ボールと残飯のすえた臭いが立ち込める部屋で多くの時間を過ごした。


 大将はパンチパーマをあてた、昔ながらの料理人で酒が好きな人だったので店が終わると寮でしこたまよく飲んだ。色が白くて三沢光晴みたいな、とにかく腕相撲が強い人で、Sっ気があるのか、勘弁してほしいと泣きを入れても、何度も腕相撲を組まされた。


 大将と寮で話した多くのことは、もう大昔のことなのでよく覚えていない。

 結婚はするのかとか、ギャンブルの話もした気もするし、あそこの風俗がよかったとかとりとめのないことがよく話題になったと思う。

 俺は、大将みたいな普通の男性に自分が男が好きで、実はそういうところでも働いていることを知られたら、どんな受け取り方をされるのかといつも思っていた。そんな自分の隣で気を許して大酒を飲んでくれる大将に、とても後ろ暗い、罪悪感のようなものを、いつも感じていたのだ。


 ある日、出前でやくざの事務所に大盛りのちゃんぽん麺を三杯届けたことがあった。俺が指が汁に浸かってしまって、熱くてこぼしてしまわないか、ドキドキしながらガラステーブルに鉢を置いていたら、やくざの男の一人が

「そんなビビらんでええで、ニイちゃん!」と声を掛けた。


 出前から帰って、大将に

「あそこの事務所の人ら案外いい人ですね」と話してみた。

 厨房で煙草を蒸していた大将は

「そうや、自分にやましいことがなかったら堂々としてたらええねん」と笑った。


「これはどんなときでもや、自分は自分や。気持ちで負けたらあかん。正しいと思ったら貫いたらいいんや」


 大将はどうやら、やくざの事務所に出前をした件のことからは離れて少し違うことを想定して言ってるみたいだった。もしかしたら、俺が大将に隠し事をしていることを悟られていたのかもしれない。でも、この大将の一言は店を辞めたあともずっと心に残り続けた。


 若いあの時期に、大将の楽々軒で日々を過ごして本当に良かった。

 そうよく思ったものだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

1999年のサヨナラ いまづもと @yuramekigahara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ