最終話 心のどこかで待ってた
それから十数年経った。
俺は夏じゃない季節でも、梅本先生のことを思い出しては居た堪れない生活を送ることになった。よくしてくれた人はいたし、何人かとは交際もしたけれど、梅本先生の面影は心の中からずっと消えなかった。運命からすっかり消えてしまった影を、追い求め続けるようなものだった。
俺は現場仕事の帰りに、野田駅のホームに降りて長屋があったところに建ったマンションを眺める日々が続いた。梅本先生がかつていた場所の空気に触れていることで、梅本先生がそこにいないと分かっていても、心の中が少しは満たされた。
そうしてまた夏がやってきた。
蒸し暑い熱帯夜で、ホームに佇んでいるだけでもTシャツが汗ばんでしまう。
でも、もうこの街に来るのは最後かもしれない。
街からかつての残り香がついに消えてしまいそうだという知らせがあったのだ。
楽々軒の大将からメールがあり、腎臓を壊してついに店を閉めることになったという連絡が入ったのだ。閉店に間に合うように来たつもりだったのだが、店の灯はもう消えてしまっていて、シャッターには貼り紙がはってあった。
俺が踵を返そうとしたそのとき、後ろから分厚い掌がぽんっと俺の肩を叩いた。
「よう、久しぶりやな」
振り向くと、梅本先生が立っていた。昔より生え際も後退していたし髪にも白髪が混じるようになっていたけれど、暖かい雰囲気は昔のままだった。
「先生、俺ずっと先生に会いたかったんですよ」
目に熱いものがこみ上げてきた。
ずっと会いたかった人が目の前にいることが信じられなかった。
「すまんな。北九州の学校に転勤になってな。相田も楽々軒辞をめてしまって、ずっと探してたんだぜ」
俺はあの冬の日に大阪に戻ってから、楽々軒の大将に迷惑がかからないように店を去っていたのだった。身の上が落ち着く二、三年の間は西成や山谷のドヤを転々とする生活を送っていたから、先生としても見つけようがなかっただろう。
「年、とっちゃいましたね」
「お前もな、もうお互いすっかりおっさんだな」
「先生、俺約束守れなくてすみません。あの日帰るって言ったのに」
「いいさ、一生お前を待ってるつもりだったんだぜ」
先生の顔が近づいてきて、ぬるっと生暖かい唇を重ね合った。
どんなに時間が過ぎても、大切な人とこうして一緒にいられる。
そんなことを、この日の起こったことは教えてくれた。
「先生は、どうしてここに?」
「実は先週、楽々軒の大将から店を閉めると連絡があってな。お前にももしかしたら連絡がいってると思ったのさ」
俺は先生の腕をぎゅっと掴んだ。
「このあと、どうしますか?」
「決まってる。ずっと一緒に暮らそうぜ、俺んちに越してこい」
あとから聞いた話だと、先生はあの夏。
俺にとってはその場限りの恋に過ぎないのだろうと思っていたらしい。
でも、先生は俺を忘れないでいてくれた。
もう帰らないだろうとは思ってはいたものの、
どこかで生きていてくれさえいればいいと、北九州で教鞭を取り続けたそうだ。
あの夏から20年経った。
俺は無数にある街明かりの片隅で
今も先生と一緒に年を取っている。
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