後日談 緑の草原に…… ファルカスとシャスティエ

 珍しく妻に強請られて遠乗りに出てみれば、シャスティエの乗馬の腕は相変わらず惨憺たるものだった。昏睡から目覚めて一年ほど、この間は空の下を歩く機会もほとんどなかったから、もしかすると前より悪くなったくらいかもしれない。


「思うようにいかないものですね……」

「筋肉も衰えているのだから仕方あるまい。絶対に落ちるなよ」


 一応はシャスティエにもおとなしい馬を用意してはみたものの、王都の城壁を出るか出ないかのうちに、彼女はファルカスの腕の中に収まることになった。ひとりで馬に乗せておくには、あまりに危うかったからだ。

 妻を抱き上げた時、鞍の前に乗せて腰を支える時、痩せたことを痛感する。華奢な身体つきはもとからだし、これでも大分回復したのだが――目を離せば消えてしまうのではないか、と埒もない不安に駆られることがしばしばあった。もうひとりの妻は実際に彼の前から永遠に消えてしまったからこそ、残された方までも失うのではないかという恐怖は一層強い。


「はい。ちゃんと、おとなしくしておりますわ」


 彼の心中など知らぬかのように、シャスティエはくすくすと笑うと彼に身体を預けてくる。その温もりは確かに愛しく、甘えるような仕草も彼の胸を甘くざわめかせる。だが、妻の言葉も振る舞いも、微かな痛みをも呼び起こすのだ。


 ――気を、遣わせているのか……?


 この一年というもの、シャスティエが外出を望んだことはついぞなかった。子供たちを日光にあてさせるため、庭先に出て遊ぶくらいはしているようだが、もともと読書を好む質でもあるし、外遊びは好みではないのだろうと何となく決め込んでいた。彼としても、青褪めて目蓋を閉ざしたままのあの姿を思い出すと、外の風になど触れさせたくないと思ってもいた。


 それが、今日に限ってシャスティエは遠乗りをせがんできた。それも、アンドラーシなどを供にするのではどうしても駄目で、彼と一緒でなければいけない、などと言ったのだ。美しい妻の上目遣いと滅多にないおねだりに、彼も否とは言えなかった。どうせ外出させるのならば、彼自身の目が届くところの方が良いに決まっているし。――だが、連れ出されたのはどうも彼の方ではないか、とも思えるのだ。


 よく考えてみれば、ファルカスの方も気晴らしとは無縁の一年だった。遠乗りはおろか、狩りも、気心知れた臣下との腕比べさえ。無垢な子供たちの相手は別格としても、心躍ること楽しいことはしてはならぬものと、どこか決めていたのだろう。無意識のうちに、そして気付いたとしても、死んだ妻への罪の意識が彼にそれを許さないのだ。言い出したのが他の臣下ならば彼も聞き入れはしなかっただろうが。もしかしたら、シャスティエは自らを口実にして彼に外の空気をいうものを味わわせようとしていたのかもしれない。


「こんなことがしたかったのか? お前が満足ならばそれで良いが」

「ええ、とても。身体が良くなったら、夏になったらお願いしようと、ずっと楽しみにしておりましたの」

「そうか……」


 シャスティエの眩いばかりの微笑みが作ったものなのか、それとも真実のものなのか。腕の中の妻を見下ろしてみても、ファルカスにはいまだに見分けがつかない。ただ、真実であれば良いと思う。不甲斐ない彼を慮って無理に笑うのではなくて、夏の日差しや草の香りを楽しんでいてくれているならば。妻もまた、ミーナの死の悲しみを癒し切れていないのを彼は知っている。子らの成長に目を細めながら、ふと笑みが凍りつく瞬間を見てしまうことがあるのだ。自身と違って子供を見守ることができない母のことを、考えずにはいられないのだろう。


「――少し速さを出すぞ。気分が悪くなったなら言え」


 だから、というか何というか。ファルカスは何も気づかない振りを決め込むことにした。彼自身のことはともかく、妻にも気分転換と多少の運動が必要なのは事実だろうから。だから、シャスティエの本心がどうであれ、このひと時を楽しませてやりたいと思ったのだ。

 ミーナを死なせた彼は罪深い。けれどシャスティエはその罪とは無縁なのだから。ミリアールトの者たちに託された名の通り、幸せに、してやりたかった。




 王都の城壁を出て馬を駆けさせることしばし。ファルカスは見渡す限りの草原の中にいた。農村も畑も街道も離れた方角に広がるこの一帯は、ミーナとも何度も訪れたことがある。彼の背に幾人かの供を従えているほかは遮るもののない、一面の空の青と草の蒼。久しぶりに天地の広がりを目の当たりにしてみれば、確かに塞いでいた心が晴れるのも分かる。


「まあ……!」


 彼にしがみつくようにしていたシャスティエも、感嘆の声を漏らしている。作った気配はない、心からのものに聞こえる歓声に、ファルカスは安堵に胸が緩むのを感じた。彼にしてみればありきたりの光景だが、異国から来た妻にとってはまだ新鮮味があるのだろうか。


「こんなもので良かったのか。さほど珍しいものでもないが」

「いえ、これが見たかったのですわ。イシュテンの戦馬の神が駆ける常緑の草原を、また見てみたい、と……」

?」


 彼が聞き咎めるのを分かっていたかのように、尖った声を宥めるかのように、シャスティエはちらりと微笑みを浮かべた。


「ええ……もちろん、ここ、そのものではないのですけど。ミハーイを生んだ後の長い眠りの中で、こんな草原を見たのです。どこまでも美しく和やかで――神の世界に招かれたように思いましたの」

「…………」


 永遠に夏が続く常緑の草原は、確かにイシュテンの戦馬の神が駆ける世界だ。だが、それは単なる神の世界ではない。死者の魂が、赴くとされる場所だ。その光景を垣間見たということは、つまり――


 ――死ぬところだったということではないか……!


 助かったのは奇跡のようなもの、あのまま目覚めない可能性も十分過ぎるほどあった。……だが、今になって妻の口から、ほとんど死の国に足を踏み入れるところだったと聞かされるとは。それもこんな、さらりとした口調で。


「イシュテンの民は常緑の草原を夢見てこの地に国を構えたとか。神に近づきたいという思いが分かったような気がして、だからこの光景をまた見たいと思ったのです」


 ファルカスが絶句しているのに気付いているのかいないのか、シャスティエは柔らかな声で続けている。妻をふたりとも失う恐怖を思い出して、彼が血も凍る思いをしているというのに!


「なぜまた、などと思うのだ。いかに美しくとも死者の国だ。お前が行くにはまだ早すぎる」


 シャスティエが微笑んでいる理由が、ファルカスには理解しがたかった。彼はともかく、子供たちを置いて地上を去りたいなどと望むはずはないだろうに、どうしてこうも呑気なことを言っていられるのだろう。まるで彼も、シャスティエ自身も蔑ろにするかのように聞こえてしまって、ファルカスの機嫌は急速に傾く。先ほどまで馬上の風と青空とで浮かれていたのが嘘のように。


「でも、帰って来ましたでしょう」

「だが……」


 シャスティエはあくまでも何でもないことのように笑うから、太陽の日差しの下、顔を顰めているのが何か間違ったことのように思えてしまう。否、折角の外出なのだ。声を荒げたり機嫌を損ねたりなどということは、事実すべきではないことなのだろうが。


「この子が連れて帰ってくれましたの。この子のような馬、ということなのでしょうが」


 シャスティエの白い手がアルニェクのたてがみを撫でる。何度か無理矢理乗せた時は、この馬は暴れるを嫌って不機嫌になっていたものだったが。今はシャスティエも大人しく乗り手に身を委ねているから、アルニェクも許容しているようだった。


「馬の背で感じる風が心地良くて、ファルカス様と駆けたことを思い出して――お傍に帰らなくては、と思ったのです。その時はひとりでもしがみついていられたし、何だか楽しかったと思うのですが。やはり、この世のことではなかったから、なのでしょうね……」


 出発してすぐの時にシャスティエが言った、思うように行かないものだ、との言葉の意味がやっと分かった気がした。夢の――あるいは生死の狭間の世界では馬に乗って駆けることができたから、もしかしたらうつつでもできるようになったのかもしれない、とでも考えたのだろう。


 ――寝ていてばかりだったのにそんなことがあるものか……。


 馬を知らない妻の期待らしきものはどこか呑気でずれていて、ファルカスは密かに溜息を吐いた。とはいえそこに宿るのは呆れだけでなく、照れ臭さや喜びも、確かにある。


 シャスティエは死の世界に赴き、そこを美しいと思ってなお、帰ることを望んでくれたのだ。無論、子供たちを案じる思いが第一にあったのだろうし、夫の機嫌を取るような意味合いもあるのだろうが。とにかくも、妻は眠りながらも彼を想ってくれたのだ。


「……乗馬ならこれから幾らでも教えてやる。ひとりでどうにかしようなどとは考えぬことだ」

「そのようですね。子供たちも馬を好むことになるのでしょうし……私も一緒に教えていただきましょう」


 妻を支える腕に力を込め、細い身体を抱き寄せて耳元に囁くと、笑いを含んだ吐息が彼の手をくすぐった。生者の身体の温かさに、妻のひとりは確かに腕の中にいる幸運と幸福を噛み締める。ふたりの妻の、少なくともひとりだけは。ミーナを失った傷は今も、シャスティエを抱いていてさえも彼の胸を苛むのだが。


「……では、少し駆けてみるか。疲れたならばすぐに言うのだぞ」

「はい。お願いいたします」


 感傷によってどのような表情をしているか自分では分からなかったから、ファルカスは真っ直ぐに前を向いて手綱を取った。シャスティエに見られることがないように、身体近くに抱き寄せて。


 そして馬の腹を軽く蹴ると、緑の波輝く草原へと、ファルカスは馬を走らせた。




 * * *




 以前は恐ろしく思えた駆ける馬の背も、今のシャスティエは楽しむことができていた。激しく上下に揺れる視界も、頬に触れ髪を乱す風も、青い草の香りも。夫が支えてくれると、信じることができるようになったからだろう。


 ――やっと、言えた……!


 一年というもの、心の奥底にしまっておいたことを伝えることができた高揚も、きっと手伝っているのだろう。ミハーイと名付けたふたり目の子、イシュテンにとっては最初の王子を生んだ産褥の床で生死を彷徨った数日間、彼女の精神がどこにあったのか、これまで誰にも、侍女たちにさえ打ち明けてはいなかったのだ。


 だって、目が覚めてまず最初に、彼女はミーナの死を知らされたのだから。




『俺の落ち度だ。お前にも顔向けできぬこと、聞かせるのも酷とは思ったが、後から知らせるのも不実だろう、と……』


 ――ああ、そうだったの……。


 ひと言ずつ、噛み締めた歯の間から絞り出すように告げた夫を見て、覚醒したばかりのやや朦朧とした頭で、シャスティエはああ、と納得したのだ。夫の目が潤んでいたのは、彼女の目覚めを喜ぶがためだけではなかったこと。悲しんでいたのも彼女の危機だけではなく、妻のふたりともを失うことを恐れていたからだったということを。


 でも、それは決して夫の心を独占できないことへの不満などではなかった。それどころか、彼女の胸に湧いたのは罪悪感だった。どうして自分ひとりであの草原から帰って来てしまったのか、という。

 ミーナが戦馬の神の草原にいたことを、不思議に思いはしたはずだったのに。ミーナやマリカに何事か起きたのかと、案じたはずだったのに。夫に会いたい一心がその疑問を覆い隠してしまったのだ。たったひとり、夫に愛を告げたいなどと浮かれて、再会を心待ちにしていた自分自身が許しがたくて恥じ入ったのだ。


『いいえ。ファルカス様に咎などあるはずはありません。誰よりも悲しんでいらっしゃるのは、ファルカス様とマリカ様なのですから』


 だからシャスティエは、愛している、という言葉を呑み込んだ。ミーナが与えてくれた機会ではあるけれど、その方の死を知らされた上でも飛びつくほど恥知らずにはなれなかった。


『……お前の話を遮ってしまったな……』

『いえ……当たり前のことですから。王子を差し上げることができて嬉しく思っております。イシュテンと――ミリアールトを治めるに相応しい相応しい王になるよう、大切に育てたいと存じます。……そう、お伝えしたかったのですわ』


 それは、その状況のシャスティエが口にしてもそれほどおかしくないはずのことだった。男児の誕生は待ち望まれていたことだったのだから。ミリアールトの血を引くイシュテンの王は、シャスティエの悲願でもあったのだから。

 だから夫も疑問には思わなかったようで――愛しているという言葉も、常緑の草原でミーナと言葉を交わしたことも、今日にいたるまでシャスティエの胸に秘められている。




 ――だって、本当にミーナ様のお言葉か分からないもの……!


 あの時願ったように夫と共に駆け、鳥や雲を指して時に語らいながら、シャスティエは心の中で言い訳をしている。ミーナが微笑んでいたことを伝えれば、夫の慰めにはなるのかもしれないけど――でも、シャスティエの浅ましい心が見せた幻だったのでは、という疑いが拭えないのだ。


 目覚めて初めてミーナの死を知らされた、という認識が正しいとは限らない。シャスティエが眠りに落ちている間にも、侍女たちが枕元でその報せについて囁き合うこともあったはずだ。それを彼女の脳が拾って、さらに自身に都合の良い場面を仕立て上げたのではないと、一体誰が断言できるだろう。だって、あの時のあの場所での会話を思い返してみれば、ミーナはシャスティエに夫を譲ってくれるかのようだった。あの方を失って悲嘆に暮れる夫につけ込むような真似、あの方の死を利用するような真似を、どうしてできるだろう。昏睡した側妃に侍医たちもかかり切りで、当初は王妃を診る者が見つからない状況だったとも聞かされたのに。ミーナを死なせた罪の一端は、シャスティエにもあるのだ。だから、夫の元に帰りたかったと言うだけのことにも一年かかってしまった。


「本当に疲れてはいないか? そろそろ帰るか?」

「いえ、もう少し大丈夫です。もう少し……こうしていたいです」


 それに、わざわざ愛を告げずとも、夫は彼女を思い遣り大切にしてくれている。時に過剰に思えるほどに。かつての傲慢さからは信じがたいような変化も、きっとミーナのことがあったからだ。そして彼女の方も、前よりも夫に優しくなった、かもしれない。強く猛きイシュテンの王ではなく、妻を亡くした可哀想な人として。愛はもちろんあるけれど、労りや哀れみもあってのことだ。


 夫とふたりでいると、ミーナの存在を感じることがよくある。もちろん、あの方は丁重に葬られて永の眠りについているのだけど。直接あの方のことを語っている時でなくても、夫が過去の思い出に耽っているのだろうな、と分かるのだ。あるいは、自分を責めている気配や、後悔に心を痛めているのが感じられる。それを癒そうと言葉を探し、手を延べようとしても、夫の心の奥には届かないのも、分かってしまう。だから、シャスティエだけが夫に秘密を抱いている訳ではないのだろう。悲しいだの辛いだの、夫が口に出して言うことはないのだから。


「こうして……一緒に」


 夫の間に、いつもミーナがいるような気がするのだ。否、あの方はもういないのだから、あの方の形をした空洞を間に挟んで抱き合っているような、という方が近いだろうか。その空洞を感じることは悲しく寂しく、けれどほんの少しだけ嬉しくもあった。ミーナを死なせた後悔も罪悪感も、きっと夫とでなければ分かち合ないのだろうから。

 共に歩んでいくということは、同じ形の傷を抱えていくことでもあるのだろう。夫にとってもシャスティエにとっても大きい存在だった方のこと、それはきっと当然のことだ。

 そしてもっと時が流れて、傷がもう少しでも塞がったなら、その時こそ夫に愛を語ることもできるかもしれない。それこそ、ふたりして常緑の草原が見えるような歳になったら。ミーナもきっと待っていると、その時になら言えるかもしれない。


 遥かに思える人生の道程に想いを馳せながら、シャスティエは駆ける馬の律動に身体を委ねた。

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雪の女王は戦馬と駆ける 悠井すみれ @Veilchen

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