第60話 伝えたい言葉 シャスティエ

 シャスティエは雪の平野を歩いていた。


 視界は一面の白に染まり、自身がどこにいるのか、周囲の風景も判然としない。故郷のミリアールトを思わせる光景ではあるけれど、彼女の記憶を掘り起こしてもこのような場所を歩いたことはないと思う。何より、シャスティエは先ほどまでイシュテンの王宮で陣痛に苦しんでいたはずなのだけど。いつまでも続く、全身がひしゃげるような痛みに、流れ出る血の熱さ。全てが遠ざかり、同時に彼女の命までもが流れ出していくかのようで――


 ――ああ。


 そこまで思い出したところで得心が行く。彼女は実際死んだのだろう。産みの床で女が死ぬのはそれほど珍しいことではない。あれだけの痛みと苦しみなのだから、生きている方が不思議なくらいだと、フェリツィアを生んだ時には思ったものだ。

 ならばここは、雪のコロレファ女王・シュネガの庭だろう。ミリアールトで死者の魂が安らぐと信じられている場所。美しく平穏な氷の宮殿に迎えられて、飢えや寒さに苦しむことがなく永久に過ごすことができるという。吹雪の中、薄い寝間着だけで歩いているというのに寒さを感じることがないのも、彼女が既に地上の存在ではないことの証拠のように思われた。


 さくさくと軽い感触の雪を踏みしめながら歩くシャスティエの胸中は、穏やかだった。なぜなら腹を撫でてみればまっ平らで、我が子の存在を示す膨らみはなくなっていたから。


『クリャースタ様! 男の子です! 王子殿下でいらっしゃいます!』


 長い陣痛に疲弊しきった中で、侍女の誰かが叫ぶ声を確かに聞いたと思う。あれが幻でないのなら、シャスティエはちゃんと我が子を産み落とすことができたのだ。子供までこの雪の平野に連れて来てしまったということでないのなら、悔やむべきことなど何もない。


 これで良かった、とさえ思う。命を狙われたことも、首筋に冷ややかな白刃を感じたことも何度もあったというのに、彼女は殺されることなく自然の営みの中で生を終えることができたのだ。ふたりの子も無事で、それもそのうちのひとりは男児だった。ミリアールトの血を引く子がイシュテンの王位を得るのだ。これこそが彼女が望んだことのはずだ。自分自身の手で育てることができないのは、名残惜しいといえば惜しいけど――


「ファルカス様とミーナ様なら大丈夫……」


 自身に言い聞かせるように呟けば、自然と微笑むことができた。ミーナは生さぬ仲だからといって虐げるようなことはないだろうし、夫も母を亡くした子供たちを哀れんで大事にしてくれるだろう。むしろ、マリカ王女が寂しい思いをしないかの方が心配かもしれない。父君の強さと母君の優しさを受け継いでいると見える王女のこと、妹や弟と仲良くしてくだされば、と思うのは勝手な願いなのだろうが。彼女の子供たちこそ、父に恥じず、王妃や姉君を困らせることのないよう成長して欲しいと思う。彼女自身の手で子供たちを教育することができないのは、ほんの少しだけ残念かもしれない。


 ひとりの夫にふたりの妻――そんな形が許されるのかどうか。醜い嫉妬に苦しんだり、あるいはあの優しい方を苦しめることにならないかどうか。夫とミーナとなら、と希望を持とうとはしても、ずっと気に懸かっていたのだ。夫婦ふたりの在り方に戻って、子供たちについても憂いがないのなら、これこそが最良の形でさえあるかもしれない。




 そうしてどれほど進んだだろう。吹雪に白く煙った視界に、やがて青白い影が立ちはだかった。目を凝らせば、それは氷を煉瓦のように積み上げた宮殿だと分かる。これこそが雪の女王の居城か、と感嘆の息を吐くうちに、シャスティエの眼前にはやはり氷でできた扉が現れていた。白に青、銀に翠。様々に色合いを変える雪と氷が、扉に蔦や花や鳥などの精緻な彫刻を描き出している。ミリアールトの王宮を思い出すような見事な細工――と言っては女神の居所に対して非礼にあたるだろうか。多分、先祖たちは雪の女王の宮殿をなぞって王宮を作り上げようとしたのだろうが。


 ――この中に皆がいるのかしら?


 人生のほとんどを過ごした王宮への郷愁に胸が詰まるような気がしたのも一瞬のこと。そんな感傷も、すぐに不要になるはずだった。この扉を開ければ、二度と会えないと思った方たちがいるのだろうから。愛しい人も、謝らなければならない人も。


 一刻も早く、と手を伸べて扉に触れても、相変わらず冷たさは感じなかった。自身が生きた存在でないことを改めて実感する――けれど、死の平穏な世界がシャスティエを迎えてくれることもなかった。美しい氷の扉は黙然と閉ざされたまま、まるで壁に描かれた絵でしかないかのように、開くどころか微かにも動く気配もしない。


「どうして……!?」


 シャスティエがしたのはやはり祖国への裏切りにほかならなかったのだろうか。だから女神の怒りに触れて、氷の宮殿から締め出されたのか。埒もない考えかもしれないけれど、死してなお行き場がない恐怖に駆られて、シャスティエは堅固な――堅固過ぎる――扉を拳で叩いた。


「開けてください……っ!」


 硬い氷に拳をぶつけても痛みはなく、喉を限りに声を張り上げても疲れることはなく。でも、何も変わらないということこそが恐ろしかった。そして何度目かに扉を叩こうとした時――振り下ろした拳が、空を切った。


「きゃ……」


 扉が急に消えて、拳に込めた力が行き場をなくして、シャスティエは転がるように地に倒れ伏した。彼女の身体を受け止めたのは、でも、さらさらと降り積もった粉雪ではなかった。

 半身を起こして見渡してみれば、周囲は一面の草原だった。青々と生い茂る草が海原のように波打ち、降り注ぐ太陽が葉の先を金色に輝かせている。これは――イシュテンの民が信じるという、戦馬の神の常緑の草原、なのだろうか。


「こっち、なの?」


 馬を愛する民が夢に見る、枯れることがない草原が広がる地――それもまた、死した人の魂が行き着く場所として語られるものだ。イシュテンの王の妃になったからには、シャスティエはこちらに迎えられるということなのか。馬にもろくに乗れない、女の身だというのに?


 ――でも、こちらの方が良かった、かも……?


 彼女の夫も子供たちも、いずれこの地に来るだろうから。願わくば、何十年か経ってからであってほしいものだけど。ただひたすらに緑の波が続くこの場所で、地上の時の流れがどのように感じられるかは分からないけれど。


 所在なく草原を見渡す――と、一点の黒い影が小さく見えた。何だろうか、と目を凝らすうちにその点はシャスティエの方へ近づいて、女性を乗せた漆黒の馬の姿を現す。その人と馬の姿かたちをはっきりと見て取れる距離に届いた時、シャスティエは思わず驚きの声を上げていた。


「ミーナ様……アルニェク……?」


 手綱も鞍もつけていない馬を御していたのは、豊かな黒髪を下ろしてなびかせたミーナだったのだ。そして黒い馬は、何度か見た夫の愛馬にそっくりなように思える。常緑の草原と思しき場所で見るということは、戦馬の神の眷属か何かと考えるべきなのかもしれないけれど。

 シャスティエの前まで辿り着くと、ミーナは軽やかな動きで下馬して大地に降り立った。シャスティエの顔をしげしげと見て、そして雲間から覗く太陽を思わせる晴れやかさで破顔した。


「シャスティエ様。良かった……!」

「なぜこのようなところに? マリカ様は……ファルカス様は?」


 死者の魂がいるべき場所に、どうしてこの方がいるのだろう。この方に何事か起きたのだとしたら、夫と子供たちはどうなったのだろう。立て続けに問いを紡ぐシャスティエの唇を、でも、ミーナの指先がそっと塞いだ。何も聞くなとでも言うかのように。

 悪戯っぽく柔らかい微笑みは、この方に一番似合う表情だと思う。ここしばらくは憂いによって曇ったところばかりを見ていて、しかもその原因はシャスティエ自身でもあった。だから心苦しく、合わせる顔がないと思う時もあったのに――ミーナのこの表情は、憂うことは何もないかのように晴れやかだった。愛らしく美しく優しげな表情に、ただ見蕩れることができれば良かったけれど。でも、やはりこの状況は何か不思議で不可解だった。


 首を傾げるシャスティエの戸惑いには構わず、ミーナは黒い馬の方へと彼女を導いた。手ぶりで馬に乗れ、と示してくる。シャスティエの馬術の救いようのなさは、この方もよく知っているだろうに。


「良いから乗って。早く帰って差し上げて」

「私には乗れません。それに、あの、ミーナ様は?」

「大丈夫だから」


 ミーナの細腕でいったいどうやったのか、シャスティエは気付けば馬上に押し上げられていた。下手な乗り手を嫌うはずの矜持高い馬も、どういう訳か大人しく彼女を乗せている。振り落とされる恐れがなければ、賢い獣に身体を委ねる感覚はそう悪いものではない――爽快感すら、あったけれど。でもミーナを地上に見下ろす居心地の悪さは拭えなかった。


「ミーナ様!」

「シャスティエ様、その子にしっかりつかまっていて。絶対に落ちないで」

「はい。ミーナ様も、どうか」


 体格の良い王と一緒でも軽々と駆けていたアルニェクだ。姿が似ているというだけで、あるいは別の存在なのかもしれないけれど、でも、ミーナを乗せるのに何の支障もないことには変わりないだろう。だから、片手で鬣を掴みながら、逆の手を懸命に地上に伸ばすのに。ミーナは、笑って首を振った。


「貴女のために来た子なのよ。――ねえ、シャスティエ様。ファルカス様にちゃんとお伝えした……?」

「いえ、それは……まだ、なのですが」


 少女のような悪戯っぽいミーナの笑みに、何を言わんとしているかを瞬時に気付いてシャスティエは赤面した。身体の均衡も危うく失いかけて、慌てて両手を使って馬にしがみつく。


 ――なんで、こんな時に……!


 ミーナが仄めかしたのは、夫が乱の鎮圧で不在の間にふたりで話していたことだ。共に夫の妻であるということ、争うことはなく競い合い、ふたりして夫を支えることができればどんなに良いだろう、と。それから、どういう流れだったか、シャスティエはまだ夫に愛を告げたことがないと口にしてしまって、ミーナを驚かせ呆れさせてしまったのだ。


「やっぱり! そうではないかと思って心配していたの。シャスティエ様、言ってくださらなくてはいけないわ。ファルカス様に――」

「でも、私は死んだ身です!」


 夫を好きだとか愛しているだとか、改めて口にするのはあまりに気恥ずかしいから、シャスティエはミーナに全てを言わせないように遮った。伝えたい、伝えなくてはならないと思っていたし、この方との約束でもあったのだけど。でも、夫がこの常緑の草原を訪れるとしても、きっとずっと後のはずだ。

 だからもう叶わないことだ、と言おうとしたのに。ミーナの微笑みは変わらなかった。


「そうなのかしら?」

「そう……だと思うのですが。子を生む時に、ひどく血を流したので……」


 ――何なのかしら、この状況は……?


 見渡す限りの青空の下と緑の草の海の間で、死ぬだの血だのと口にするのはどうにも場違いだった。彼女自身も、産褥の床であんなに苦しんだ痛みはもはや感じない。だからこそ、肉体を離れた魂だけの姿ということなのか、とも納得しそうになるのだけど――


 ――でも、それならミーナ様は?


 側妃の早産とその顛末を、ミーナが知らないのはおかしいように思えた。違う建物とはいえ、同じ王宮の中に住まっているのだから。夫にも彼女の様子は報告されていたようだし、王妃たちのもとにも同じ報せが届けられるのは当然の仕儀だろうに。そもそもどうしてこの方もこの草原にいるのか、ミーナは説明してくれていない。

 もう一度、問いを紡ごうとシャスティエが唇を動かした時――ミーナが、黒い馬の首筋を軽く叩いた。


「早く行って! 手遅れにならないうちに!」


 それを合図に、馬は高くいななくと草原を駆け始めた。ミーナを置いて、果てしなく続く地平を目指して。


「ミーナ様――」

「絶対に、落ちないで。あの方に、ちゃんとお伝えして……!」


 口に手をあてて叫ぶミーナの姿はみるみるうちに小さくなり、そして緑の合間に消えた。それでも草原は尽きることなく、馬はいよいよ速さを増して疾走する。草の香りの風がシャスティエの頬を打ち、解けた髪が風になびいては背の方へ流れる。

 空の青も草原の緑も一体となって溶ける。風の速さで駆ける馬も、それにしがみつくシャスティエも、また。


 ――こんなことが……前にもあったわ……。


 風と駆ける感覚を記憶から呼び起こして、シャスティエは少しだけ微笑んだ。あの時は、周囲は一面の雪で、しかも人の血でぬかるんでいた。ミリアールトの乱を収めるため、王の馬に共に乗って戦う者たちに呼び掛けた時だ。仇と憎んだ王の妻になることが決まった時でもあった。血腥い戦場の風は共に歩む道の凄惨さを予言するようで、憎い相手とその道を行くことに暗澹としたこともあった。今も、自身のために流れた血の多さを思うと心が凍えるような思いがする。


 ――でも、私はあの方と共に駆けたい……!


 沢山の死の重さも、祖国を滅ぼされた憎しみも、ふたりの妻の内のひとりであること、ミーナやマリカから夫と父を奪うことの後ろめたさも。全て共に負って行こう。苦しみや悲しみ、罪を背負ってでもそうしたい。いつの間にか、それほどにあの男の存在は彼女の中で大きくなっていた。夫として、子供の父として――愛している、のだろう。


「伝え、ない、と……!」


 馬の背に揺られながら、切れ切れに、噛み締めるように呟く。死んでも良い、子供さえ無事なら本望だと思ったのは嘘になってしまった。それだけでも望外の幸運には違いないのだけど。もしもできるなら、それ以上の贅沢を望めるのなら、もう一度夫に会いたい。そして伝えなければ。何度も言おうとして、けれど言うことができなかった言葉を。


 馬がひと際高く、長い距離を跳躍した。光に煌く草葉の上を飛び越えて眩い光の中へ、飛ぶように。白く染まる視界にシャスティエは思わず目を閉じた。




 着地に備えて身構えていたというのに、その衝撃が襲うことはついになかった。


 ――何が、一体……?


 目蓋を開けようとしても妙に重く、四肢も地に縫い付けられたかのよう。否、肌に感じるこの感触は大地でも草葉でもない――絹の寝具だ。そういえば身体の下に馬の筋肉の躍動を感じることもない。シャスティエはどうやら、寝台に仰向けに寝かされているようだった。


「――ぁ」


 声をあげようとしても唇がひび割れ、乾いた喉が傷むばかり。目をこじ開けようとしても、目やにが張り付いたような抵抗があって難しく、かろうじて開いた隙間から注ぐ光があまりにまぶしくて辺りの様子もろくに見えない。焦って起き上がろうとしても、手指は絹の滑らかさに滑って肘をつくことさえできなかった。


「クリャースタ様!」


 風の速さで駆ける爽快感から一転して、身体は重く言うことを聞いてくれない。儘ならなさにもがいていると、耳にぱたぱたと走る足音が届いた。次いで、高揚も露な、女の高い声だ。


「やっとお目覚めに――どうか無理はなさらないで! すぐに、侍医が参ります!」

「イ……ナ……?」


 目蓋を引き剥がすように開けた目は瞬きさえも思うようにならず、視界もやはりぼやけたまま。でも、金茶の巻き毛も若草色の目も、ぼんやりとながら見て取れる。シャスティエの額を拭い、乱れた寝具を整え、半身を起こす手助けをしてくれたのは、イリーナに違いないようだった。


「今日は寝返りを打たれていたのでもしや、と思っていたのですが……よく、戻ってくださいました……!」


 涙ぐむイリーナの声を聴き、持たされたひんやりとしたもの――多分硝子の杯を唇に運びながら、シャスティエの耳に特に戻る、という言葉が刺さった。まるで彼女が遠くへと行っていたかのような言い方に、あの美しい草原を思い出す。ならば、やはり彼女は死者の国に足を踏み入れたところだったのだろうか。


「へいかは……?」


 喉を通ったのはただの水だっただろうが、とにかくも喉を潤してくれた。どれだけの間動かさなかったのか、舌はまだ重く痺れたようだったし、急に頭に血が上ったことで酔ったような気分の悪さもあったけれど。それでも、最初よりは幾らかマシな声を出すことができた。


「きっとすぐにいらっしゃいますわ。陛下もずっと心配されてやつれられて……それに、御子様たちも……!」

「こどもたちも……良かった……」


 強張った頬は、笑うことさえ忘れて微かに引き攣らせることしかできなかった。でも、夫と子供についての報せは嬉しかった。夫が窶れたというのは信じられない気もしたけど、会えばどういうことか分かるだろう。


「お休みくださいませ、クリャースタ様。きっともう大丈夫……お薬も食事も召し上がって、早く元気になってくださいますように……!」


 イリーナだけでなく、他の侍女たちの寝台の周りに集っているようだった。目も頭もよく働かないながらに、すすり泣く気配や涙ぐんだ声が感じられた。彼女たちの手が伸びてはシャスティエの髪を梳き、身体を清めてくれるのも心地良かった。顔も、湯で濡らした布で拭いてもらってさっぱりとする――と同時に眠気が襲ってきて、また目蓋が重くなる。


「クリャースタ様……?」

「眠らせて差し上げましょう」

「一度目覚められたのです。前とは違います」


 侍女たちと、恐らくは侍医が囁く声も眠気を妨げはしない。シャスティエの意識は闇に吸い込まれるように眠りに溶けていく。けれど、侍医が言う通り、血を失って倒れた時の感覚とは違う。これはただ眠るだけだ。傷つき疲れた身体が休養を欲しているというだけのこと、時が経てばつつがなく目覚めるだろうという予感が、自分でもあった。


 ――寝て起きたら……あの方に、会えるかしら。


 そしてその時こそ、夫に言うべきことを言わなくては。眠りに落ちる瞬間の心持ちは、今度は恐怖の欠片もなく穏やかで、目覚める時を待ちわびる期待に満ちたものだった。




 シャスティエが次に眠りから覚めたのは、周囲の慌ただしい気配によってだった。彼女が横たわる寝台が据えられた部屋の、多分さらに外。多くの人が行き交う気配がする。


「あ、クリャースタ様……お心行くまでお休みくださいませ。外は、静かにするようにしていただきますから……」

「へいか、でしょう……? 早く、お会いしたいわ……」


 側妃の寝室の近くまで入れるとしたら、王以外にはいないだろう。シャスティエが目覚めたのを聞いて来てくれたのだとしたら、待たせてはいけないと思う。目蓋はまだ重く、意識もとろとろと蕩けるよう。眠気に身体を任せていたら、夫にも子供たちにもいつまで経っても会えなくなってしまうそうだった。


「きっとひどい顔ね……きれいに、しないと……」

「クリャースタ様……」


 半ば目を閉じたまま呟くと、侍女――今度はグルーシャだと思う――は逡巡の気配を見せた。どれだけの間かは分からないけれど、長く眠っていたのだろうということだけは分かる。だから痩せこけたのはもちろん、髪や肌の手入れもろくにできていないのだろうと見当をつけたのだけど。夫に会わせるのが憚られるほどのひどいあり様なのだろうか。


「あの……本当は、もっとお休みいただいた方が良いと思うのですけど。でも、陛下のご心配のされようも大変なものですから……少しだけなら、何とかならないか――お医者様に相談、してみますね……?」

「そう……」


 ――心配? あの方が、私を……?


 ひどく不思議なことを聞いたような気もするけど、聞き返す気力もなく、身体のだるさに任せてシャスティエはまたしばらく目を閉じた。


 そんな風だから、しばらくして侍医や侍女に囲まれて何やら言われたことも曖昧だった。多分、特別に少しだけ、様子を見ながら夫に会わせてくれるということを説明されたのだろう。支えられて寝台に半身を起こし、髪や顔や身だしなみを整えられる。薄い粥や汁物も出されて、何か口に入れろと促される。それに従えば、温かさと栄養が身体に染み渡り、起き上がった姿勢を保つ力も湧いてくるようだった。


「疲れや異常を感じられましたら、すぐに仰ってください。本来ならば、まだまだ休養が必要なのですから」

「分かったわ」


 だからだろう、侍医との受け答えも幾らかははっきりしたものになった。侍女たちに見せられた鏡の中の自分は、痩せた頬といい目の下の隈といい、確かにぎょっとするほど弱々しい姿ではあった。夫に見せたいものでは、必ずしもないのだけど――でも、伝えたい思いが体裁を気にする見栄に勝った。


「お顔を見せるだけに留めてください。陛下にも、くれぐれも手短にとお伝えしておりますので」

「ええ」


 しつこいほどに念を押されるのにも、軽く頷く。言いたいのはただのひと言だから、ほんの一瞬で済むことなのだ。たったひと言を伝えて、そうして少しでも気持ちが収まったら、身体を癒すのに専念すれば良い。


「お支度が整いました。お入りください」

「ああ」


 ――ファルカス様……!


 扉の外から聞こえた声に、シャスティエの心臓は跳ねる。最後に夫の声を聞いたのが、もう遠い昔のことのようだった。彼女が目覚めたと聞いて、駆けつけて来てくれたのだ。また眠ってしまって待たせていたのだとしたら、ひどいことをしてしまったのかもしれない。まだ立ち上がることもできず、こちらから駆け寄ることができないのがもどかしくてならなかた。


 ほんの数秒。扉から寝台へと、足音が近付くわずかな時間が待ちきれないと思うほどだった。重くしっかりとした夫の足音、けれど焦りを感じさせて少し早足に、それでも病人への気遣いを感じさせて、大きな音を立てまいとしているのも分かる。そんなことを思い巡らせることができるほど、心臓が痛くなって頬が熱くなるのをたっぷり感じることができるほど、その時間はシャスティエにとって長かった。

 シャスティエの寝台に夫の形の影が落ちる。その影の動きと空気の流れで、夫が枕元に跪いたのが分かる。シャスティエは今、夫と同じ高さで顔を合わせる格好になっているのだ。


「クリャースタ――シャスティエ」

「はい」

「よく、目覚めてくれた……!」


 間近に目を合わせてみれば、侍女が言っていたことは本当だった。ブレンクラーレで再会した時も、遠征の間に随分痩せてしまったと心を痛めたものだけど。今の夫の姿は、あの時よりももっとひどい。シャスティエが寝ていた分、この方は寝ていなかったのではないかと思うほどだ。それでも、声に滲む歓喜ははっきりと分かる。いつもは冷徹な印象を与える青灰の目が――イシュテンの王として男として信じられないことに――潤んでいるのも。


「どうにか、戻ってこられました」


 ミーナのお陰で。そのことも話したいし、礼も言わなければならない。そこまで身体が回復するのに、一体どれだけかかるだろうか。


「もう会えないかと思いかけていた」

「では、見捨てられる前に目覚めて良うございました」

「見捨てるなど……!」


 夫が身を乗り出してくると、痩せた頬や荒れた肌が一層目につく。けれど見違えたという点ではシャスティエの方も同じようなものだ。手を見下ろすだけで、骨ばって色を失った肌が目に入る。これで子供たちを抱くことができるのか、今から心配になるほどだ。

 その細さを憚ったのか、彼女の頬に触れようと伸ばされた夫の手が、あと少しのところで止まる。でも、夫の温もりを感じたかったから、シャスティエは自らその掌に頬をあずけた。窶れてなお、夫の身体は逞しく、身を委ねると安心できる。


「ファルカス様……」


 夫とまた会えたということ、触れ合えるということの幸福感が湧き上がり、口元を自然に綻ばせる。溢れるように零れ落ちるように、シャスティエの唇から言葉が漏れた。今こそあの言葉を言うべき時だと、心から思ったのだ。


「お伝えしたいことが、ありますの」

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