第59話 霊廟にて マリカ
石の壁が太陽の光も熱も遮って、その場所はひんやりとして涼しく、そして静かだった。マリカがいる場所――つまり、母の棺を安置した霊廟は。葬儀の日までは、まだ母は地上にいられる。土の下に埋められてしまうのではなく、棺を隔ててとはいえ間近にいられる。その限られた時間を惜しむかのように、マリカは一日の多くの時間をここで過ごすようになっていた。
「マリカ様、上着を――」
「いらないわ」
冷気に軽く震えたのを見られたのだろう、ラヨシュが差し出そうとする上着を、でも、マリカは首を振って退けた。棺の蓋を開ける勇気もないのに、母の傍にいたいだなんて誤魔化しだ。彼女の本当の思いとしては、太陽の下を出歩くのに自分は相応しくない、というのが近いかもしれない。だから死の世界の方が今の彼女には似合いのような気がしてしまうのかも。かといって、地上から逃げたとしても、彼女が殺してしまった母が喜んで迎えてくれるとは限らないのだろうけど。
「いけません。風邪をひかれるようなことがあったら、陛下に申し訳が立ちません」
「……うん」
深い眠りから覚めてから、ラヨシュのマリカへの接し方は少し変わった。何でも彼女の言うことを聞いてくれるのではなくて、時に逆らうことも言ったりやったりするようになった。ラヨシュの方が正しいと分かっているから従わざるを得ない。逆らう気力も、今の彼女にはないし。
上着の重みに潰されるような思いをしながら、ラヨシュが口にした父のことに思いを馳せる。ラヨシュが彼女についていてくれるのは父の計らいのお陰で、だから彼も父を気遣うことを口にしているのだ。
彼女の罪にもかかわらず、父がまだ娘として扱ってくれることが、マリカには信じがたい。いつも強く堂々としていた父が、ひどく
――お父様も……お母様のことが大好きだったのね。
母が父を愛していたのは、幼いマリカの目にも明らかだった。父を語る時の母の、輝く目や柔らかな微笑みから、父と共にいる時の頬の赤みから、とてもよく伝わってきた。一方で父はそこまでの熱を持って母に接することはなかったから――だから、マリカは父の想いがこんなに強いとは思っていなかったのだろう。だから生まれたばかりの妹や、その母である金の髪の人に関心が移ってしまったのだと思ったし、祖父の乱によって、マリカたちもまるごと嫌われたのではないかとさえ思っていた。
嫌われた、とは言い過ぎかもしれないけれど。とにかく、母やマリカほどに父が心を乱すことがあるとは思ってもみなかったのだ。今の父の姿は、父の想いの深さの表れだ。母もマリカも、ちゃんと父に愛されていた。
でも、今になって分かったところで何の意味があるだろう。そんなこと――では、決してないけど。マリカの幼く未熟な不満や不信よりも、母が生きていてくれることの方がずっとずっと大事だったのに。
涙がにじんで視界がぼやけたので、服の袖で拭う。と、ラヨシュが慌てて手を伸ばす気配がした。王女に触れることは許されないとでも思っているのか、あと少しのところで留まったようだけど。侍女も兵士も霊廟の外に控えるだけ、マリカが中に伴うことを許したのはラヨシュだけだった。
「マリカ様――」
「何でもないの」
本当に、何でもないのだ。マリカには何も起きていない。母やエルジェーベトのようにひどい苦しみを味わった訳でもないし、ラヨシュや金の髪の人のように何日も目覚めないような深い傷を負った訳でもない。彼女には傷ひとつなく、むしろ父の心に手ひどい痛手を与えた張本人だというのに。
「ですが」
「ごめんね……」
ラヨシュに対しても、謝らなければならないことは尽きない。本当なら、冷たく暗い、石に囲まれた場所ではなくて、太陽の光の下で療養しなければならないのだろうに。襟を立てて包帯を巻いて隠してはいても、ラヨシュの首に見える赤黒い傷を見るたびに、もう少しで彼までも失うところだったのだと突きつけられて、身が凍る思いがするのに。傷を癒す時間を与えず身近から離そうとしないのも、結局はマリカの我が儘なのだ。
「マリカ様がお気に病まれることは何もありません」
「…………」
それも、お前は悪くないと言ってもらいたいがためだけに。ラヨシュなら決して王女を責めたりしないと分かっているからこそ、マリカは彼の前で弱気を見せて――装っているのかもしれない。そんな狡い自分が嫌で、マリカの胸は一層苦しくなってしまう。でも――
「マリカ様は何も悪くありません。罪というなら私こそ――」
「ラヨシュも悪くないわ。あの……エルジーの、ことは……関係ないもの……」
ラヨシュの方も、同じことを言う相手が必要なのかもしれないと、勝手な考えかもしれないけれど、マリカは思うのだ。
――ラヨシュも……お母様を、死なせてしまったのね……。
ラヨシュはふたりきりの時にこっそりと打ち明けてくれた。エルジェーベトを剣で貫いたのは自分だと。父やアンドラーシが何と言おうと、経験の少ない未熟な子供だとしても、命を奪う傷を負わせたのは自分だと思えてならない、と。
ラヨシュは別に、マリカの母の仇を取ってやったとか、そういう思いで言ったのではなさそうだった。そう言った時の彼の顔は真っ白で、マリカは母が倒れた時を思い出して恐ろしくなったくらいなのだ。彼の言おうとしたのは、多分、彼もマリカと同じ罪を犯したのだ、ということだと思う。同じ――母を殺したという、罪を。同じ罪を負う者の言葉なら、父や他の大人たちのそれよりも、縋っても後ろめたさはまだしも少ないのかもしれない。
悪くない、とお互いに言い合うことで、彼女たちふたりは辛うじて正気を保っているかのようだった。罪ある者同士で、まるで傷を舐め合うかのように。もちろん、それで母が戻る訳ではないし、マリカの罪が消えることもないのだけど。でも、それなら、ラヨシュを傍に置き続けることは、マリカの勝手というだけではないはずだった。
「……王妃様は、とても優しい方でした……」
「うん。そうだったの……」
母の思い出を語ることができる者同士でもある。罪の重さだけではない、美しく楽かった日々、もう戻らない時間の尊さを語ることができる相手も数が少ない。こうやって同じ傷と罪を抱えながら、ラヨシュとはずっと一緒にいることになるのだろうとマリカは思っていた。
霊廟の扉が開いて一瞬だけ外の光が射し、そしてすぐに薄闇が戻った。足音と共に響くのは、マリカにとっては愛しいけれど聞くのが怖い声だった。
「やはりここにいたか」
「お父様……!」
ラヨシュが携えているのと、父が掲げているのと。乏しい光源の中で、父の顔に落ちる影は一層濃く見えた。背高く、体格も良いはずの父がひと回り小さくなってしまったようで、今では父の姿を見るだけでも怖いくらいだった。窶れているのが見るに堪えないというだけでなくて、いつ睨まれるのではないか、母を殺した罪を詰られるのではないかと思ってしまうから。
「陽に当たらぬのも身体を冷やすのも良くないのだろうが……止めろ、とは言えぬな。……俺も、しばらくここにいて良いか……?」
「ええ……ごめんなさい……」
ふた言目には謝罪の言葉を口にするのが、マリカの倣いになってしまっている。母のことについて、父に気遣いをさせてしまうことについて。食べる時も眠る時も、彼女はいつも謝りながらだ。楽しむこと心地良いことなど、自分には許されないと思うから。でも、寝たり食べたりしないならしないで、父を悲しませてしまうから、だから、謝りながらそうするのだ。彼女が何かしら口にすれば、父も付き合ってくれるし。父をこれ以上痩せさせてはいけないと、そう自分に言い訳しながら、マリカは味のしない食事を呑み込むのだ。
「お父様……離宮には、いらっしゃらないの……? 赤ちゃんたちは……?」
「ああ……」
母の棺の前にマリカと並んだ父は、彼女の頭を撫でると抱き寄せてくれた。父の腕と身体の逞しさ温かさは、以前と変わらず安心できる頼もしいものだ。でも、寄りかかって良いのか分からなくて、マリカは身を捩る。母親の違う妹と弟たちに言及したのも、父はあの赤ちゃんたちをもっと見てあげるべきではないだろうかと思ったからだった。
「お前が寝ている間にあちらも訪ねているぞ。まだ物心もついていないからな、寂しがるということもあるまい」
「そう……」
責める風などなく、父はごくさらりと答えた。抱え込まれるような格好になったから見えないけれど、マリカと同じ色の目は、きっと母の棺を見つめているのだろう。父とふたりで母を想うことができるのは、嬉しくもあり――でも、やはりマリカの胸を後ろめたさの棘が刺す。
――また、私のせい……。
マリカを抱いた方の手で、父はとんとんと軽く背を撫でてくれる。彼女が泣きながら寝入る時にしてくれたように。そうして父にしがみつきながら寝て、そして起きた時に父がいないことがあって、彼女はひどく取り乱して泣き叫んでしまったのだ。父はやはり許してくれなかったのだと思い込んだから。
そのことがあったからこそ、父はマリカが目覚める時には傍にいられるように計らってくれているのだろう。マリカと同じく母がいない妹と弟を、放ってまで。
「妹と弟に会いたいか? もしそれでお前の心が晴れるなら――」
「ううん。あ、会いたくないんじゃなくて……! 私ばっかり、だから……」
父を気遣ったつもりが、逆に気遣わしげに覗き込まれることになって、マリカは慌てて首を振った。妹と弟に対してマリカが抱く思いはとても複雑で、直に会ったりなどしたらますます訳が分からなくなってしまいそうだった。
もちろん、母を亡くした者同士、なんて思うのは勝手なこと、それも、間違ったことだとは分かる。あの子たちはマリカと違って何ひとつ悪いことなどしていないし、何より、ふたりの母君はまだちゃんと生きている。……それを思うと、胸に灼けた鉄を押し付けられるような痛みがマリカを襲うのだけど。それは多分、羨ましくて仕方がないという思いだ。
でも、あの金の髪の人は血を沢山流して眠ったきりだと聞いている。もしもあの人が目覚めることがなかったら、妹たちは母というものを全く知らずに育つことになる。それはとても可哀想で、あってはならないことだ。母を死なせたマリカのために、弟妹とその母君から父を奪ってはいけない。マリカが父を独占していて良いはずがないのだ。
「あの……お姫様は……?」
だからマリカは、今度は妹たちの母君のことに触れてみた。マリカなんかのことよりも気に懸けるべき人がいると、父に思い出して欲しかったのだ。
あの人のことを聞いたからだろう、マリカを抱く父の腕が強張った。そのわずかな動きで伝わってくる気がする。あの人の具合が良くないことと、父のあの人への想いの深さが。
「……声をかけてはいるのだが。俺に呼ばれても起きるつもりはないようだ」
「きっと聞こえているわ。きっと、起きてくれる……」
父の悲しみも伝わってきたから、マリカは小さな声で呟いた。父はもっとあの人に会いに行って良いのだ。倒れた母を見るのがとても辛かったように、目を閉ざしたままの姿を見るのも心が引き裂かれるのかもしれないけれど。でも、父にはあの人が必要なはずだ。
「マリカ……?」
「……ごめんなさい」
不思議そうな父の声が降ってきて、マリカは慌ててまた謝った。金の髪の人が本当に目覚めるのかどうか、父の声が届いているのかどうか、彼女には分からないのだ。そうであって欲しいという希望を述べたつもりでも、父には勝手な気休めに聞こえたかもしれない。
でも、あの人に目覚めて欲しいのは本当だ。
父に
マリカには父の助けとなることはできない。父にとって娘は守るべきものなのだろうし、マリカの罪の意識も邪魔をする。母を殺しておきながら父を慰めようなどと、そんなことはできるものではない。一緒に食事をして欲しいとか、隣で寝て欲しいと強請れば父の身体を幾らか休めさせることはできることはできるかもしれないけど、マリカでは父の悲しみは救えない。
だから、父が凭れるとしたら、もうあの人しかいないのではないだろうか、と思うのだ。
――お姫様も……お母様のことを好きだと思っていてくれたのに……。
あの人が目覚めたら、母の死をどのように受け止めるだろう。マリカのことをどう思うのだろう。あの碧い目にどんな思いが宿ってマリカを見るのか、それを想像するのも怖いのだけど。でも、父のために、あの人に目覚めて欲しいと切に願うのだ。あの人なら父に寄り添ってくれるだろう、と――それもまた、彼女の罪の償いを他人に押し付ける、勝手な考えなのだろうけど。
「お姫様が……早く良くなると良いと思ったの」
「そうだな――」
マリカを一層抱え込むようにしながら、父は何かを言おうとしたのだろう。でも、その前に霊廟の扉が再び開いた。外の光と共になだれ込む人の足音は慌ただしく、マリカの身体を竦ませた。人が焦り行き交う気配は、
「陛下――」
「何事か。霊廟を騒がせるほどのことか!?」
父の鋭い声も、怖い。急な報せが一体何なのかと警戒し、緊張と、怯えさえ帯びたような声だ。やって来た者たちの要件が何なのか、父もマリカと同じことを思い浮かべたのだろう。
――お姫様が……!?
今、王宮の中で急を要することといったら、あの人のことに違いないから。良い報せなのか、それとも……逆なのか。鼓動が早まるのを感じながら、マリカは父の服を強く掴んだ。
「すぐに離宮にお出ましください!」
身体を強張らせるマリカの耳に響いた声は、でも、明るい響きをしていた。死者が休む仄暗い霊廟にも、光が射しこむかのような。それは、扉が開け放たれたままだからという訳ではなく、父とマリカとラヨシュと、心を覆う悲しみの雲も払うかのような。
「クリャースタ様が、お目覚めになりました……!」
そのひと声を聞いて、ラヨシュは息を呑み、父もマリカを抱く腕を震えさせた。
――本当に……!?
そしてマリカの胸には喜びと不安と悲しみが同時に湧いた。弟妹たちは、これで父と母に見守られて成長できる。マリカだけが母を亡くして、もしかしたら父にも忘れられて、ラヨシュだけと母の思い出を語って生きて行かなければならないのかもしれない。それは、不安で怖くて悲しかった。でも、ほんの少しかもしれないけど、喜びが、確実に勝る。誰かが死んでしまうよりも、生きている方が絶対に良い。マリカ自身の不安よりも、父や弟妹の幸せの方が大事なはずだ。
「お父様……早く! 行って差し上げて……!」
だからマリカは父の腕の中からそっと抜け出すと、背伸びをして、できるだけ父の耳元近くで訴えた。
「マリカ。だが――」
マリカを見下ろした父の目が、揺れる。彼女を置いて離宮に駆けつけても良いものか、迷ったのだろう。あの人とマリカを天秤にかけて、一瞬でも迷ってくれたことが嬉しかった。
「良いから! 早く!」
「あ、ああ」
喜びがそのまま力になったのだろう、今度はもっと強い声が出せた。足を踏み鳴らすような勢いに、父は硬い表情ではあったけど頷いてくれた。そして父はマリカを抱え上げると、霊廟の扉へ――外の光へ向けて、足を踏み出した。
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