気がつけば目の前に神輿があった。いや、輦輿だったか。ぼんやりとした意識の中、ここまで辰巳に先導されて歩かされた記憶が蘇る。紫乃の服は見事な白無垢に着替えさせられていた。視界が狭いのは面を被っているからだろう。

 目の前の男たちから無言の圧を感じる。辰巳の姿は既にない。紫乃は状況を理解し、緩やかに肩を落とした。ここで面を外すのは簡単だが、偽物だとバレた場合、どんな仕打ちを受けるか分からない。


 諦めて輦輿に乗り込む。ふかふかのクッションが敷き詰められた場は意外と快適だった。もぞもぞと座り心地を探っている途中で輦輿が動く。

 そして、あの不協和音が歌われていく。至近距離で聞くと不快さが際立った。背筋を伸ばしながらも顔は歪めたままで、紫乃はこっそりと辺りを観察した。

 道の端々にある灯篭が道標になっている。鬱蒼とした山道だが、遠くにはぼんやりと光の塊が見えた。あれが神社なのだろう。


 びょうと強い風が吹き、紫乃は肩を震わせる。


『純潔は本当に天狗に散らされるらしいんだけれどね』


 梢の言葉が頭に響いた。呻きそうになるのをこらえる。冗談ではない。辰巳はやはり一発殴るべきだろう。


 ただ、そんな言葉をあっさりと言ってのけた梢のことを思うと、複雑な気分だった。


 紫乃は心の中で頭を振る。今は感傷に浸っている場合ではない。隙をついて、逃げなければ。


 ざっと音がして輦輿が止まった。しかし、降りた瞬間に駆け出すのは無理だった。ぞっとするほど表情のない男たちに周りを取り囲みながら歩かされる。逃げる場所などない。

 為す術もなく境内へと連れられ、堂の中へ一人取り残される。ここまで無言でいた女性たちのうち、一番前にいた女性が口を開いた。


「最後の晩でございます。本日までは数時間だけ過ごしていただきましたが、今日ばかりは一晩こちらで過ごしていただきます」


 それを聞いたときの紫乃の衝撃といったらなかった。辰巳への不満が殺意へと変わりそうだ。

 しかし、面をつけたままなんとか頷く。自分の肝の強さを褒めたい。


 女性たちが出ていくと、本格的な闇が襲ってきた。申し訳程度に長いろうそくが部屋の隅にあるものの、全体的に部屋は広い。あまり意味はないだろう。


「……一発殴る……」


 地を這うような声で呟きつつ、そろりと動く。

 逃げるなら今だ。見張りがいるかもしれないがこの暗闇だ。相手も上手く見えないのは同じだろう。

 いつでも立ち上がれる体勢でしばらく待ち、暗闇に目を慣らす。心臓の鼓動は落ち着いていた。紫乃が恐れるのは武器を持った人間だ。暗闇は二の次である。


 こんな状況、本物の殺人鬼に追いかけられたときに比べれば温い。


 もちろんその原因も辰巳である。やはり殴ろう。帰ったらどこでもいいから殴る。

 据わった目で物騒なことを考えつつ、月明かりを頼りに障子へたどり着く。向こうに誰かがいる気配はなかった。今更ながら心臓が音を立ててきた。


 よし、と小さく呟く。大丈夫、大丈夫だと心臓をなだめる。何度か深呼吸し、手探りで見つけた窪みに手をかけ、一気に──


 ぎしり。


「……っ!?」


 紫乃はぱっとそこから退いた。畳と足袋は相性が良い。大して音もしなかった。


 ぎしり、ぎしり。


 音が近づいてくる。冷や汗がつうっと流れた。

 やはり見張りがいたのだろうか? にしては、急いでいるふうでもない。ゆっくりゆっくり、しかし確実に近づいている。


「……先輩?」


 誰にも届かない声が落ちて、自嘲気味に笑う。ここで現れてくれるような男なら、紫乃はこんな目に合っていない。大体、何が目的か知らないが、紫乃をここに寄こしたのはあの男なのだ。

 ならば……あとは天狗か?


「……」


 紫乃は無言で部屋の中央に座る。そして、目を閉じた。

 ぎしり、と部屋の前で足が止まった。

 なんの躊躇もなく開いた扉から湿気が流れこんだ。


「どなたですか?」


 目を閉じたまま尋ねる。答えはない。


「……天狗様?」

「……ああ」


 低い男の声だった。ひんやりと冷気が足を覆う。それは男のほうから漂っているようだった。

 気配が紫乃の傍に跪き、腕を掴む。目を開いてそちらを向くと、驚くほど近くに天狗の顔があった。

 ぎょっと目を見開いた瞬間、ふわりと甘やかな花の香りが漂う。そこではっと気づいた。


 いや、違う、これは……


 しかし男のほうが一瞬早かった。瞬く間に引き倒され、畳に強かに頭を打ち付ける。目の前に火花が舞った。


「ああ、梢……」


 ぞっとするほど恍惚とした声が流れ込む。紫乃は唇を噛むと、渾身の力で男の急所を蹴りつけた。


「ぐっ……!?」


 今だ。

 男の下から這い出し、扉へ走ろうとする。しかし白無垢の端を踏まれてつんのめった。

 あっと声をあげてなんとか手をついたものの、ぐっと腕を掴まれて仰向きにされ、荒い息をつく男の顔が迫っていた。


「大人しくしろと言われていないのか、梢?」


 ぎりりと歯を噛み締める。落胆と怒りがまぜこぜになって、感情が口から飛び出した。


「あなた、ただの人間でしょう!!」


 男が怯んだように手を緩めた瞬間、びちり、と何かが跳ねる音がした。

 二人は同時に動きを止め、隣を見る。畳の上に一匹の鯖が跳ねていた。


「……え?」


 ぼたぼたぼたぼたぼたっ……

 間抜けな声が出たのと、上から何匹もの鯖が落ちてきたのは同時だった。四方八方に張り巡らされた鯖の池に男はひっと息を呑み、その隙をついて紫乃ははね起きるようにして抜け出す。


「なんだ、やはり天狗はいないのか……」


 憎たらしい声が聞こえた。頭上からだ。ちょうど、鯖の群れが降ってきた辺り。

 天井の一点を睨みつけた途端、案の定そこががらりと開く。ひょいっと顔を覗かせて紫乃を見つけると、そのまましなやかに辰巳は降りてきた。


「な……!」


 狼狽する男に辰巳がくつくつと笑う。


「なんだお前、そんな面など被って女を襲うのが趣味か?」


 大仰に手を広げた辰巳に、男は大きく目を見張った。


「な、お前、よそ者か!」

「何を言う。こいつもよそ者だ。気づかないとは、村の結束というのも案外弱いんだな」

「どの口が言ってるんですか」


 面を外した紫乃にさらに男がぎょっとする。似ているのは背格好くらいなのだから当然だ。

 紫乃はようやく暗闇にも慣れてきた瞳で男を見つめた。見たことも会ったこともない、全くの初対面の人間だが、誰なのか目星くらいは付いていた。


「あなたは村長の息子さんですか? 梢さんと結婚するという」


 男は絶句した。肯定なのは明らかだ。あまりにも分かりやすすぎて、呆れてため息をつく。


「天狗が天狗の面つけてるわけないじゃないですか。馬鹿ですか?」

「な……」

「加えて鯖も嫌いではないようだし……いや、よく見れば少し怖がっているか?」

「上から急に鯖が降ってきたら誰だって怖いですよ」


 天狗は鯖を嫌うというのは一説として存在するが、こんなやり方をされても実験にもならない。

 とはいえ。


「それは置いておくとしても……変だとは思っていました。天狗が純潔を奪った相手をむざむざ人間の花嫁にさせるとは思えないですし」

「大方、美しい娘を嫁がせるために作られた風習だろうな。つまらん」

「そのつまらないことに私を巻き込んどいてよく言えたもんですね」


 微笑みつつ怒りを散らす紫乃をあっさりと無視し、辰巳は男のほうへ一歩歩んだ。


「で? お前は今、俺の後輩に何をしようとした?」


 その前にお前は自分の後輩に何をしたんだという話だが、黙った。紫乃は空気の読める人間である。


「……」


 男はじりっと後ずさった。


「お前の家が代々人を殺して女を陵辱しようと構わないが、俺の後輩を襲い、あまつさえ天狗の名を騙るなら、それ相応の覚悟はあるんだろうな」


 うっそりとした笑みに、男が喉を鳴らした。紫乃は少し目を見張る。


「……人を殺す?」

「お前もあの男を見ただろう、紫乃。天狗の身代わりなんぞにされたあれだ」


 祭壇が瞼の裏に映って、紫乃は顔を強ばらせた。生きているかのような死臭漂う体。


「あなた……まさか」

「ち、違う! 俺じゃない!」

「嘘をつかなくてもいい。だが後頭部を打たなかったのは悪手だったな。額に傷など残してしまっては、いくらエンバーミングしても痕が隠せない」


 紫乃はぴくりと眉を動かした。


「エンバーミング、ですか?」

「言っただろう、紫乃」


 男から視線は外さずに言う。


「腐敗防止以外にもエンバーミングと呼ぶ行為はある。死に際に出来た人体の傷を塞いだり、隠したりすること……まあ、死化粧の延長だな」


 くつりと笑って、辰巳は自分の頭の生え際近くをとんとついた。


「エンバーミングは万能じゃない。いくらやっても、あれだけ大きな傷は隠しきれない。お前はあの梢とかいう女を嫁にしたかったんだろう。だが何故かは知らないができなかった。だから人を殺した」

「天狗の儀式のために……?」


 そして、天狗の儀式の後、梢を自分の嫁にするために。

 その瞬間全てが繋がって、紫乃は唇を噛み締める。目眩のする気分だった。ならばこれまで行われてきた儀式は、全部。


「最っ低……」

「そうだね、本当に」


 凛とした声が重なった。瞬間、ごっ! という鈍い音がして男が膝をつく。奇妙なうめき声と共に後ろを振り向き、上ずった声をこぼす。


「こ、こず……」

「気安く名前を呼ばないでほしいな。あの人を殺した分際で」


 一本芯の通った声だった。同時に、もう一度男の頭上目掛けて何かが振り上げられる。


「紫乃!」


 呼ばれる前に紫乃は動いていた。

 最小限の足運びで梢の側へと駆け寄り、暗闇に慣れた目で細い手首を掴む。そのまま捻じるようにして手を下へ引き倒したところで、梢の腕に力がこもった。

 びたりと腕を止める。力がおかしな均衡を保っていた。このままだと折れてしまう。


「梢さん、それを離してください」

「それはこちらの台詞だよ、紫乃さん。どうして止めるんだい?」


 あまりに温度のない声だった。梢が手に持ったトンファーが揺れる。どうしてそんなものがあるんだ、物騒な!


「そんなの……!」


 ぐっと唇を噛む。


「そんなの、人殺しなんてさせたくないからに決まっているじゃないですか!」


 梢が目を見張ったように見えた。暗がりでふっと自嘲気味に笑った声が響く。男の呻き声が合間に聞こえた。


「そいつはね、紫乃さん。あの人を殺したんだ」


 愛しさが垣間見えるほの暗い声。


「うっかり、私とあの人が好きあっていることを知られてしまってね。そいつは、あの人のことをなんでか目の敵にしてたから。ああ、それと、私がそいつの求婚を断ったことも理由かもしれないけど」


 ついでのように言われた理由が一番の原因な気がしたが、紫乃は黙って聞いていた。


「おかしいと思ったんだ。あの人が天狗の依り代になったって聞いて……大体この村は異常なんだよ。あの人が死んだっていうのに、純潔だの依り代だの……聞いているとこちらが狂ってしまいそうなことばかり言うからね」


 その目がはっきりと見え、紫乃は力を抜きそうになる。綺麗な頬に、緩やかな涙が伝っていた。


「私も最近までは毒されていたんだよ。こいつの家のそばで、こいつが誇らしげに家族に語っているところを聞くまではね」


 村全体が敵だったんだ、と、消え入りそうな声が聞こえる。


「私は気づいていない振りをしていただけだったのかもしれない。じゃなきゃもっと早くにこの村を出ていたよ。巫女に選ばれてから気づくなんて自分がどれだけ異常だったか今なら分かる。本当に、私は、馬鹿だ。昔、親戚の姉さんがこいつの家に嫁ぐ前、部屋の中で一人で泣いているところを、見ていたのに……!」


 怒りのこもる声と同時にみしりと腕が軋んだ。


「梢さん! 手を離して!」

「紫乃さんは分かるかい? 昨日笑顔で話していた相手が綺麗な顔で死んでいるんだ……美しかっただろう? あの人は。生きているみたいだっただろう?」


 息を呑む。誇らしげな声が泣いていた。


「誰も私をあの人のところへ近づけてくれないから、私は儀式の日にここを抜け出して、こっそり見に行くくらいしかできなかったんだ……どうして、好きな人の死に顔を見るのに、こんなに苦労しなくちゃいけないんだろうね? まあ、白無垢姿だったから、毎回結納を上げているみたいで、少し嬉しかったけれど……」


 どんどん言葉が溢れていく。綺麗な顔が憤怒と復讐に歪んでいく。


 そして不意に、そこから何もかもが抜け落ちた。


「でもあの人はもういないんだ」

「梢さん……」

「なあ、お願いだ、復讐くらいさせてくれ。のうのうと私を犯しにやってくるこいつの何もかもを潰してやる予定だったのに、どうしてこんなことをしたんだ、紫乃さん。あなたまで私の邪魔をするのか。そんなふうにされてまで」


 暴れたせいでとても見られたものではなくなっている白無垢に、痛ましげに顔が歪む。これは紫乃にとっても不可抗力なのだが、そんなことを言える隙もない。


「怖かっただろう。私だって今も怖いのに、覚悟を決めてもこんなに怖いのに、あなたまでそんなことをする必要はなかったんだ。お願いだから私に復讐をさせてくれ。あの人の仇を取らせてくれ。お願いだから」


 紫乃は悟った。自分では無理だ。恋人を殺されたことすらない自分では、この人の怒りも嘆きも受け止められない。

 ただひとつ分かるのは、梢にとってこの行為は、自傷行為にも似た何かなのだろうということだけだった。


 不意に、ぱちりと場違いな音が聞こえた。


「……先輩?」


 ぱちぱちと拍手が続き、辰巳がゆっくり歩み寄ってくる。未だに呻いている男の足を踏みつけ、梢の横に立った。


「復讐か、大いに結構。素晴らしい。俺は自分の望みに忠実な人間が大好きだ」


 紫乃は信じられない気分で目を見張った。


「先輩! 何言ってるんですか!」

「だが、梢さん」


 不意に辰巳の声が温度を失い、静かに手がトンファーへと伸びる。あまりに自然な運びだった。誰も反応できず、トンファーは持ち主を鞍替えしたかのように辰巳の手に収まる。


「復讐は好きだが自殺は好きじゃないな」

「あ……」

「恋人を自殺の理由に持ち出すな。そんなものは愛ではない。あの男に捧げる愛でもなければ自己愛ですらない。それはただの自棄だ。五年も経てば風化するような思いは復讐心とは呼ばないんだよ、梢さん」


 梢は呆然と空になった手を見た。何が起こったのかをじわじわ理解し、その場にへたりこむ。


「だって、じゃあ、どうすれば良かったんだ。あの人はもういないのに、のうのうと生きているそいつを、私はどうすれば良かったんだ!」

「放っておけばいい。儀式など捨て置けば良かったんだ。あなたはまだこの村に囚われているつもりなのか?」


 辰巳の呆れた声が響く。


「唯唯諾諾と儀式なんぞやっている暇があったら雑誌社にでも駆け込めば良い。こんな小さな村は一瞬で死ぬだろう。自分の手を汚さない仕返しの方法などいくらでもある。何より、梢さんが死ぬより生きてこいつを手酷く振ったほうがダメージは大きいんじゃないか? こういう男は、手に入れられるはずのものが逃げるのを酷く屈辱に感じるからな」


 相変わらずえぐいことを考える男だ、と紫乃は思った。だが的を射ている。


「あの、梢さん」


 焦点の合わない瞳が紫乃を捉える。


「あなたがあなたを削って武器にすることはないと思うんですよ。復讐は、別にいいんです。復讐って、生きている人が自分のためにすることだから。でもそのために自分を削る必要はないんです。自分の傷を武器にする必要はないんですよ。あなたはあなたのままで、この男を眼中から外してしまえば良いだけなんじゃないんですか? あなたの瞳にはあなたの恋人だけ映しておけば、それで良いんじゃないんですか?」


 上手く言えない。けれど、これは違うなと思ったのだ。


「あなたが復讐することは、それ自体は、誰にも止める権利がありません。でも、あなたがあなたを傷つけることは、多分、悲しいことですよ。少なくとも私は悲しいです。こんな男のためにあなたがあなたの心をずたずたにするのは……それは、悲しいです。それに、私はあなたの腕を折りたくない」

「紫乃さん……あなたは、か弱いと思っていたんだけれど」

「はは……鍛えられまして」


 不本意なことだが、それは辰巳に会う前からだ。紫乃は強くなりたかったわけではないが、強くならざるを得なかった。

 だから分かる。強くならざるを得なかったことが……強く見せなければならないことが、どれだけ大変か。


「我儘になっていいんですよ。多分……あなたのご両親だって、こんな男にあなたを嫁がせることを喜んでいるわけではないはずです」


 自分の娘が結婚するというのに、あの家はまるで通夜のような静けさだった。娘が家を出てしまう悲しみにしては過剰だ。


「こんな男は肥溜めにでも沈めましょう。そうして、やりたかったことをやればいいんです。略奪婚でもなんでも」


 ぱちりと彼女は瞬く。紫乃は微笑んだ。


「知っていますか? 人って、二十歳を超えたら結構色々なことが出来てしまうんですよ」


 梢はぽかんと口を開いて、静かに視線を落とした。


「……ああ、そうだね」


 緩やかに上げた顔には、凛としながらも麗らかな、椿のような微笑みが宿っていた。


「さて、ならそろそろ帰るぞ、紫乃」

「は?」

「天狗なんぞはいなかったんだろう。じゃあもうここに用は……」

「梢」


 全員が、ぴたりと動きを止めた。急に響いた男の声は、この部屋の中から聞こえたものではない。

 最初に氷解したのは辰巳だった。足元に芋虫のように転がっている男をげしげしと蹴る。


「おい、今のはお前か?」


 しかし返事もない。どうやら気絶しているらしい。

 ならどこから、と身構えた紫乃の前で、梢がふらりと立ち上がる。


「……幹人……?」

「梢さん? 何を……」

「梢」


 またあの声だ。同時にばさり、と大きな音。まるで翼を震わせたような音に反応したのは辰巳だった。


「まさか……!」


 喜色の浮かんだ声を無視して、梢が入口目掛けて走り出す。まさか、と紫乃も呟いた。月明かりに照らされた障子の向こうに、誰かの影が見えた。


「幹人!」


 がらりと障子を開けた梢を受け止める人がいる。考えるより先に紫乃は反射で駆け出した。きっと辰巳も同様だろう。

 しかし、同時に膨大な光が視界を覆った。まるで目の前に雷が落ちたかのような衝撃に、二人は咄嗟に蹲った。


「ごめんね」


 優しい声が落ちた。


「待っ──!」


 光が収束していく。光が、消えていく。辰巳より随分早く回復した紫乃は外へと走り出たが、そこにはもう誰もいなかった。あの正体不明の影はもちろん、梢の姿もない。

 しばらく呆然と外を見回していると、隣に辰巳が立った。しゃがみこんで何かを手に取る。


「なんだ。やはり天狗などいないのか」


 つまらなさそうな声だった。彼が手に持っていたのは閃光弾の残骸だ。この前ニュースでやっていた、殺傷力の低い新型のもの。確かにそれは、神通力があるという天狗には必要ない。

 ……だけれど。


「でも、先輩。何も音はしませんでしたよ」


 閃光弾はその光と音で人の五感を奪うのだ。小規模な爆発でそれを成り立たせている以上、音は否応なく発されるはずで。

 辰巳はふっと笑った。


「だとしても、こんな中途半端な天狗などいてたまるか」


 ぽいっとそれを放り投げ、辰巳は大きく欠伸をする。


「帰るぞ、紫乃」

「え、あの……あの人、どうするんですか?」


 神社の中に倒れたままの男を見る。周りに転がる鯖のせいで生臭い。辰巳は鬱陶しそうに振り返る。


「朝になれば誰かが見つけるだろう。大して血も流れていなかったし、そいつを下まで運んでやる義理はない」


 まぁ、それもそうだが。

 それに、と辰巳が続ける。


「お前は変なものを惹きつけすぎる。今回はそろそろ飽きた」

「……何度も何度も私を引きずり回しといてよく言えますね。無人島に連れていかれた挙句殺人鬼と戦わされたこと、まだ許してませんからね」

「死んでないんだからいいだろう」

「今回なんて襲われるところでした!」

「お前も大概優先順位がおかしいな。まあ、未遂に終わったんだからいいだろう……あと」


 何か言いたげに紫乃の体を見つめ、辰巳はひらりと手を振った。


「お前を襲いたいなどと思うやつの気が知れないな」


 紫乃は無言で額に青筋を浮かべ、彼の腹筋に拳を叩き込んだ。

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因果応報の天狗祭 七星 @sichisei

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