翌日の朝、開口一番に辰巳が宣言した。


「よし、天狗の身代わりに死んだとかいう男でも見に行くか」

「馬鹿ですか?」


 間髪入れずに発した罵倒は、恐ろしいほど圧の強い笑顔に黙殺された。辰巳と数拍睨み合い、紫乃は諦めて嘆息する。こうなってしまえば、死んででも引きずられるのは確定だ。

 儀式はどうやら今日が最後の七日目らしい。せっかくだから、という梢の鶴の一声で今日も泊まれるというのに、随分と自由な男である。


「……人がいないな」


 ざり、と砂利を踏む音が響く。辰巳の言う通り、村の中は日中なのに全く人の気配がない。息を潜めたような静寂の中、悠々と歩く辰巳を追いかける。

 到着した家を見て紫乃は唖然とした。普通、人が亡くなっているのだから、黒い幕やら白提灯やら、「忌中」と書かれた札がかかっているものではないかと思うのだが、そこに下がっていたのは紅白の垂れ幕だった。扉の上部にはしめ縄が飾られている。


 これは、喪中というより。


「……正月、みたいですね」

「祝い事なんだろうな」


 あっさりと言って、辰巳は躊躇いもなくその家の扉に手をかけた。抵抗なく開いた扉に戦慄する。鍵すらつけていないのだ。

 ごめんくださいだの誰かいらっしゃいませんかだのという白々しい挨拶を呼びかけた辰巳の前に、訝しげな態度で女性が出てきた。


「……どちら様です?」


 警戒心満載の顔をした女性はしかし、辰巳の姓を聞くところりと態度を変えた。紫乃は思わず、辰巳の影に隠れて顔をしかめた。

 嫌悪を感じてしまうのは仕方がない。こんな場所で猫を何匹も被っていられる辰巳にも、辰巳の姓を聞いただけで手のひらを返す村人にも。


 呻きそうになるのを堪えていると、唐突に手首を掴まれてハッと顔を上げた。


「行くぞ、紫乃」


 そこには、いつも通り、至極どうでも良さげな顔をした辰巳がいる。それだけは変わりはしない。辰巳は、紫乃への態度だけは変えない。


「……はい」


 頷いて静かに靴を脱いだ。

 男性は家で一番日当たりの悪い部屋に寝かされていた。死人の匂いが立ち込める部屋に入り、紫乃はぎょっとする。白装束の男性が横たえられているのは、棺の中ではなく祭壇の上だった。


 まるで供物だ。


「……先輩」

「とても神々しいですね」


 あっさりと紫乃の呼びかけを無視し、辰巳は女性へと振り返る。彼女も誇らしげに笑った。


「それはそうですよ、天狗様の依り代になれたんですからね。綺麗でしょう。エンバーミングもそれほどせずに済みましたし」

「それはそれは」


 こうなると、もう辰巳は紫乃を気にかけることはない。嘆息して、辰巳が歓談しているうちに男性へと近づく。遺体の前に跪き、手を合わせて祈りを捧げた。


 改めて見た男性は、とても美しかった。

 顔立ちが整っているとかそういうことではない。清らかなのだ。儀式は今日で七日目なのだから、少なくとも七日はここに安置されているというのに、肌には張りがあり、まつ毛は長く、薄い唇はほんのり赤い。

 まるで生きているようだ、と思う。その皮膚をめくったら、未だに血管が蠢いているのではないか。


 そんな思いに駆られて紫乃は手を伸ばす。しかし、頬に触れる瞬間、


「触っちゃならん!!」


 怒号。びくりと体を震わせた紫乃の腕を誰かが掴んだ。絶妙な力加減で素早く紫乃を自分の後ろへ移動させたのは辰巳だ。高い背の向こうに、血走った目の女性が見える。


「天狗様の依り代に触っちゃならんのや! そんなことも分からなんだか!」


 混ざりあった方言が不気味に響く。ぞっとした紫乃の前で、辰巳が頭を下げた。


「申し訳ありません。なにぶん不肖の後輩でして」


 穏やかな声、緩やかな動作。それは目の前の女性だけでなく、紫乃の鼓動をも宥めていく。


「どうか、御容赦を」


 しばらく肩で息をしていた女性は、徐々に落ち着きを取り戻していった。最終的に能面のような無表情になると、「鞍馬の姓を持ったことに感謝するんだね」と吐き捨てて部屋を出ていく。すぐに追い出されなかったのは、やはり天狗に縁ある名だからなのか。


「……先輩」


 背中に冷や汗が流れた。不用意なことをした自覚はある。今のは完全に辰巳の悪運に助けられたようなものだった。辰巳の邪魔をしたら、何が起こるか分からないというのに。

 だが、慌てて謝ろうとした紫乃へ、辰巳は勢いよく振り向いた。目にはぎらぎらとした高揚が宿っている。声をかける間もなく男性へと歩み寄り、跪き、辰巳はその頬に触れんばかりにぐうっと顔を近づけた。息をひそめるほどの静寂が一瞬落ちる。


「……紫乃、お前を連れてきたのは正解だった」


 肌が粟立つほど恍惚とした声と酔ったような目が紫乃を貫く。くつくつという笑い声が聞こえた。


「まあ、お前を連れてきて正解じゃなかったことなんてないがな」


 紫乃は呻いた。今のは、本心から発されているからこそたちが悪い。


 辰巳は満足げに立ち上がる。


「よくもまあそんなに『惹き付ける』ものだ。羨ましい限りだな」


 何がどう羨ましいのか教えてもらいたい限りだが、そんなことを言っても仕方がない。

 紫乃は呼吸を整えて尋ねた。


「何か分かったんですか?」


 色気が抜けきらない瞳を真っ向から見据えると、彼の口がにやりと歪んだ。


「エンバーミングだ」

「エンバーミング……が、どうかしたんですか?」


 そういえば、先程の女性もそんなことを言っていたなと思い出す。


 エンバーミングというのは簡単にいえば遺体の防腐処理のことだ。遺体は死後二十四時間は火葬してはいけないことになっているから、エンバーミングを施して一旦納棺し、家族と共に過ごす時間を作るのが一般的だ。


「エンバーミングは、どの遺体も一般的にするものだ。そこに過不足はない。『それほどしなくてすむ』防腐処理なんてものは存在しない」


 辰巳が何を言わんとしているのか、紫乃は回らない頭で考えた。人間、怒鳴られると思考が鈍る。


「言い間違えたのでは、ないんですよね」


 ぼうっと呟く紫乃をのぞき込み、辰巳が言う。


「エンバーミングは防腐処理以外のことも指す」

「え?」

「人間を直すことだ」

「人間を……」


 直す?


 それがどういうことなのか分からず、紫乃は首をかしげた。本格的に頭が回らない。遺体から漂う死臭に酔いそうだ。

 辰巳もそれ以上何も言わず、紫乃の腕を掴んだ。


「帰るぞ」


 笑みを含んだ表情のまま、遠慮のない力で引っ張られる。紫乃はたたらを踏みつつそれについていった。

 扉をくぐる瞬間、振り返って死人の匂いが立ち込める部屋を見る。

 やはり、人身御供にしか見えなかった。



  ***



 梢の家に帰ってきた途端に、辰巳は「少し外に出てくる」と告げて部屋を出ていった。おそらく煙草を吸うのだろう。あの傍若無人な性格でいて、何故か辰巳はきちんと離れた場所で煙草を吸う。


 紫乃は足を投げ出してぼうっと頭を整理する。記憶にこびりついたあの男性の顔を思い返していたら、すらりと扉が開いた。

 一服するだけにしても随分早いな、と扉に目をやり、紫乃はきょとんとする。


「やあ、紫乃さん」

「梢さん」


 そこに立っていたのは辰巳ではなく、私服姿の梢だった。思わぬ訪問者に慌てて居住まいを正す。


「ああ、いいんだよ、楽にしていて」

「でも……」

「いいからいいから」


 さっぱりと笑いながら、梢も畳の上に腰を下ろした。


「今日、あの人の家に行ったんだって?」

「え?」

「さっきそこで鞍馬さんに聞いたよ。あの人を見てきたんだろう?」


 あの人? と思ったが、紫乃たちが今日訪問した家は一つだけだ。まるで今にも目を覚ましそうだった男性の姿を思い出す。


「梢さんも知っている方なんですか?」

「それはまあ、そうだね。小さな村だから」


 どこか読めない微笑みで梢が言う。かと思えばふっと視線が落ちた。ぽつんと言葉が放たれる。


「あの人は、綺麗だった?」

「え?」

「傷も痣も元々なかったように思うけれど、人間の体は死んでも尚脆いだろう? 天狗の身代わりになって死んだのだから、せめて綺麗な姿のままでいてほしいとは思っていてね」

「……大丈夫ですよ、すごく綺麗でした。まるで生きているみたいで」


 梢は少しだけ瞳を大きくして、そうか、とほっとしたように笑った。その美しさにどきりとする。


「……私は、今日を過ぎたらもうこの家を出るからね。その前に天狗の依り代になった人の遺体も拝んでおきたかったんだけれど。そういうわけにもいかないようだ」


 寂しそうに笑う彼女の言ったことが分からず、紫乃は首を傾げる。


「いなく……なるんですか?」

「ああ。村長の息子に嫁ぐからね」


 あっさり告げられて、え、という声が漏れる。


「天狗の花嫁になるんじゃ……?」


 思わず零れ出た言葉に梢が目を見張る。


「まさか。本当に天狗に嫁ぐわけじゃないよ。天狗の嫁……もとい天狗に選ばれた巫女は、代々村長の息子に嫁ぐことになっているんだ。純潔は本当に天狗に散らされるらしいんだけどね」


 紫乃はぽかんと口を開けた。あっけらかんと告げた彼女の瞳には、相変わらず悲壮感の片鱗すら見えない。


「……嫌じゃ、ないんですか」


 天狗に純潔を散らされ、村長の息子に嫁がされる。そこには多分、梢の意思は介入していない。

 梢は微笑んだまま何も言わない。その瞳に映るのは諦念ではなかった。どこかひっそりと固まった意思が、凪いだ湖のように目の中を満たしている。


「いいんだ、私は」


 ふるりと首を振る動作ですら色香が香る。なんとも言えないその雰囲気に紫乃が口を噤んだ瞬間、すらりと戸が開いた。


「ん?」


 辰巳だった。同時にぱっと梢が立ち上がる。


「邪魔をしたね、紫乃さん。じゃあ、夕飯が終わったら儀式だから、そのときはまた見ておいてくれると嬉しいよ」

「あ、はい!」


 咄嗟に力強く頷くと、梢はふわりと笑って部屋から出ていった。閉じた扉の中で、辰巳が意味深に笑う。何か聞かれる前にさっと目をそらした。

 辰巳はしばらく紫乃を見つめていたが、興味を失くしたのか本を読み始めた。ほっと息をつき、紫乃も頭を巡らせることに集中する。


 それからしばらくして、夕食もご馳走になった後のことだった。


「……あの、先輩」


 顔をしかめて問いかける。


「気のせいですかね。なんだか、異様に静かな気がするんですけど……」

「そうか?」


 紫乃は空とぼけた表情の辰巳を観察する。全く自慢できないが、紫乃とて伊達にこの傍若無人な朴念仁野郎と過ごしてきていない。その観察眼が警報を発していた。

 呻きながら尋ねた。


「夕食前の梢さんは私服でした。白無垢に着替えるのなら、もっと物音がしてもいいはずです」


 昨日と同じスケジュールだとすれば、神輿はあと一時間もすれば来るはずだ。白無垢なんて着替えにくいものの筆頭だろうに、誰が動いている気配もない。


「さあ、寝ているのかもしれないな」


 にい、と笑んだ表情に、紫乃は呆れかけて──ぎょっと目を見開いた。


「まさか……!」


 言うなり返事も待たずに部屋を飛び出す。階段を飛び下りるようにして駆け下り、居間と思わしき部屋を躊躇い無く開けた。


「梢さ……!」


 瞬間、悲鳴を飲み込んだ自分を褒めたい。

 紫乃の足元に梢が倒れていた。その向こうには梢の両親も同様に倒れている。


 なんだ、これは。


 ぐったりとした様子の彼らに目眩がして、紫乃はさっと屈むと梢の手を取った。手首に指を当て、念の為心臓の鼓動や呼吸の有無も確かめる。


「寝てる、だけ……」


 結局全員がそうだった。そして、夕食が食べ終えられていないということは、つまり。


「盛りましたね、先輩」

「ああ」


 とてつもなく良い笑顔の辰巳が後ろに立っていた。


「安心しろ、後遺症は残らない」

「そんなもん残ったら私があんたを殴ってますよ」


 思わず口が悪くなった。辰巳はくつくつと笑っているが、目だけは氷のように冷たい。眉をひそめた紫乃にゆっくり歩み寄る。


「さて、巫女がいなくなってしまったな」

「は? ……あの、ちょっと、まさか」

「幸いなことに巫女は面を被る。声も出さなくて良いようだし……」

「待ってください先輩! それって」

「お前が花嫁になれ、紫乃」


 とてつもなく良い笑顔だった。紫乃はその場で辰巳を殴りたい衝動に駆られた。


「な……に、言ってるんですか! 馬鹿ですか!? 絶対やりませんよ私! できるわけないじゃないですか!」

「背格好は似ているだろう」

「それだけでしょうが!」

「話は変わるが紫乃、お前、見かけに寄らずなますが好きだったよな」


 唐突な方向転換についていけず、返事に窮する。今そんなことは関係ない、と言いかけて、紫乃ははたと動きを止めた。確か、夕食のつけあわせに……


 ぐらり、と視界が傾ぐ。


 やられた、と思った。この辰巳という男は、後輩に薬を盛ることを躊躇わない。何度もやられている手だというのに、他人の家だからと油断したらしい。


「犯罪ですよ、先輩……!」

「今更だな」


 渾身の力で睨みつけた言葉をさらりとかわされ、紫乃はその場に崩れ落ちた。

 憎らしいことに、こんなときだけひどく優しく受け止めてくれるその手が、紫乃は嫌いになれないのだった。

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