結露した手

ラブテスター

結露した手

 それでね、私が慌ててこう、これこれこういう次第でございましてェー……ってそのご主人にお話ししましたところ、そのご主人が、とたんに、こんな、ぼろぼろぼろーッて、それはもう、えらい涙をあふれさしたんですよ。そして、物静かーァに私にこう、言うわけです。

 ――その子は、先日この世を去ったわたしの娘です。

 って。まあまあ……長年の不治の病を、ついにはこじらせて亡くなった娘さんが入院していたのが……まさに、私が、その女性のお客さまをお乗せした病院なんだって、そう言うんです。

 そうしてですよ、そのご主人が、こうしちゃいられないッ、娘の魂をぶじ我が家までおくり届けてくれた運転手さんをこのままお帰しできないッ、なんて、奥さままでとび出してきちゃって、私、家のなかにまねき入れられてしまいまして。その後は、とびきりおいしいお酒と、たらふくの、ごちそう責めですよ。

 ぜひ娘にも会っていってほしい、なんて、りっぱなお仏壇のある部屋にも通されまして、ご霊前にお線香をあげさしていただいたんですが、お写真が、またこう、綺麗ーェな、それでいて、聡明そうな。実にすてきなお嬢さんで、ありましたねェ……

 そんなこんなで、私、お酒をいただいちゃったもんですから。タクシー運転手のくせに、代行なんて呼んじゃって。イヤ恥ずかしい恥ずかしい……そのうえですよ、どうか、どうか! って、夫婦二人がかりで、ぶ厚い封筒を押しつけられちゃって、もう、これ、よわっちゃったな……私ほら、ただでさえぐいぐい押されると、あれェーッてなっちまうたちでございますからア、断りきれませんで。有難くその封筒、いただいてしまいました。

 いくら入ってたかって? あなた、そんな野暮なことをくもんじゃない……それにしても、世のなかには、イヤ、不思議なことって、あるんですねェ……



***



 現実は、つくり話のようにはいかない。


「――どこで調べたんだ?」

 その男性の顔は、みるみる引きつり、青ざめていった。

 恐怖のためではない。これは、激しい怒りだ。人間は心底、ほんとうにいきどおったときは、頭に血がのぼるのではなく、頭から血がひくのだ。

「やっていいことと、絶対に許されないことの区別もつかないのか?」

 玄関口に立つその男性は、私にひと言の言いわけも許さないような、岩石のような怒りと悲しみを全身にたたえていた。

 男性の握りこぶしが、顔とは逆に、赤く、まっ赤になっていて、関節だけは白くなっていて、私は、なぐられる、そう覚悟したけれど、それに身構えることこそ、いまの私には許されていないように思えた。

 私は棒立ちになって男性からの暴力を待っていたが、しかし、そこで、家の奥から男性の妻らしき女性が、いぶかしげに顔をのぞかせた。

「お客さまなの……?」

 そう問う女性のほうを見やって、男性は、毒気をぬかれたように、目を伏せてハッとため息をついた。そして、女性のそばまであゆみ寄ると、おさえた声で、私が話したことを切りつめて、しかし割あいそのままに、女性に伝えた。

 つまり――タクシー運転手が、夜道で若い女性客をひろい、その案内でこの家の前まで乗りつけて。支払いのためにふり返ったところ、座席にはだれの姿もなく――濡れたシートだけがそこにはあったと。

「詐欺だよ」

 男性は、最後に短くそうつけ加えた。それを聞いた女性は、あっと顔を強ばらせてから、すぐに悲しそうに表情を曇らせた。

 その一瞬に、女性が私へとはしらせた視線をつかまえて、私は意を決してまたきり出した。

「……クリーニング代は、結構です。運賃だけでも、お支払いいただけませんか」

 気もちをふるい立たせて、私は、言わねばならないことだけを言った。頭を低くし、出力した感熱紙のレシートを、両手の指さきでおそるおそるさし出しながら。

 印字された額は、一万円を超えている。

「半ぶんだけでも――」

「帰ってください」

 数拍の沈黙も耐えがたくて、私がすぐに述べた譲歩は、しかし、それさえ、かぶせられた女性の声になかばでたち切られた。

「帰ってください。お願いします。帰ってください」

 くじけた私の声に比べ、女性の声は、ふるえながらも芯があって毅然としており、またそのつよさと同じくらい、悲痛さがあった。

「娘を、亡くしたばかりなんです。そっとしておいてください。お願いします」

 私は、レシートを下ろして言葉を探したけれど、見つからなくて、ただ深ぶかと、また頭を下げた。

 感情的になった、私がそうさせた人間に背を見せることに不安をおぼえたけれど、今この場で悪いのは私だけなのだと、私さえひき下がるなら、だれも何もするはずがないのだと、そう自分に言いきかせ、私はのろのろときびすを返した。


 停めていた自分の車両に戻り、後部座席を開ける。

 シートはまだ、人の座るかたちに、暗い色でじくじくと濡れたままだった。

 車を替えなければ、今夜の仕事はできない。



***



「後藤ちゃんさあ、それ絶対呪われてんだよ。ケツで庚申塚でもつき倒したんじゃないの?」

 早朝のファミレスに、阿部さんの遠慮のない言葉が、遠慮のない声量でひびく。

 となりの大輔だいすけさんが、顔を上げ、火をつける前の煙草の尻でテーブルをトンとついて、目でたしなめた。

 阿部さんのいつものギョロ目が、そうされて、更にぎょろぎょろっと動く。


 ――タクシー運転手は、そのだいたいが、未明に仕事をあがる。

 そして、みな、夜道を運転しつづけてこわばった精神をほぐすため、二四時間営業のファミレスやらにつれ立ち、駄弁だべるのがお定まりだ。


 阿部さんは、煙草をふかしながらりずにまくし立てている。

「だってさあ、今どきシート濡らす幽霊なんて聞いたことないよ。てっかさあ、昔だって、そんなのにったことある奴なんていないって。テレビかお客さんだけだって、そんな話するの」

 言葉とともにもうっとくゆる煙を、つい目で追いつつ、私は口をはさむ。

「そうだよ、だからさ。私は実際、みんな、社長もさ……信じてくれるだけでも有難いんだよ」

 そう言って、あついコーヒーを何度かに分け、大きくすすり込む。喉が灼け、血がひいて冷えきっていた明け方の腹に火が入る。

「これで嘘つきにまでされたら、ほんと、かなわねえ……」

 そう。嘘だとは言われなかった。

 ただ今月、九月もまだ上旬だというのに。

 これで、この不気味で迷惑な無賃乗車は、すでに三回をかぞえていた。

 梅雨なかから始まったぶんを数えると――もう、二〇回にはとどくだろうか。

 思いかえすと、つい、肘をついて目を覆ってしまう。

 そのたびにその日の仕事が中断して、代車を出しに帰社し、元の車はクリーニングと消毒のためにしばらく使えなくなる。

 ――社長もいい加減、にがい表情を隠さない。

「後藤ちゃん元気だしてよ。煙草あげるよ」

 阿部さんがさし出す煙草を受け取り、火をつけてもらう。

 煙草は――やめたつもりはないが、もう随分、自分では買っていなかった。

 いまは、金を節約しているのだ。

 離婚した妻がひき取っていった、娘の養育費を安定してふり込むために。

 ひさしぶりに、かつ、睡眠を欲している脳へニコチンを入れたために、視界がぐわっと回る。それがむしろここち良く、身をゆだねる。

「乗ってきたやつ幽霊だって分かったりしないの? ちゃんと足みてる? 無いんじゃないの?」

 もはや冗談のつもりもないのだろう、阿部さんは、自分で言っておきながら面白そうな素ぶりもなく、目ばかりギョロついた真顔で、ハハ! と声だけで笑う。

 まあ、でも。

「足、ね……注意は、してるよ。ただでさえミラーの死角になるから。気にはなるわな」

 しかし。

 確認できたかぎり、皆、足はあった。

 足が、ふつうにあるだけではない。消えるまえの乗客には、ほかにも気にとまるようなところは、何もなかった。

 しかし、思いかえせば、全員、はじめから明らかにおかしいところが沢山あった。

「なにそれ。ムジュンじゃん」

 阿部さんの言うとおりだ。

 何も気づかない。でも、思うと、消えた客には、尋常でないところがあちこち思いあたる。

 様子。言動。空気。

 しかし、それに、

 さらには、そんな相手と会話をかわすうち、相手のかもす雰囲気に呑まれるのか、私までおかしな言動をしていたような、そんな覚えさえある。

 ただ、その異常さに、その場にいる私は思いいたることができない。その客が消え、車内に私ひとり、暗澹たる思いでじっとりと濡れたシートを目の前にして、初めて、我に返ったような気もちになっている。

 だから、対処など、何もできない。対処すべきそのときが今であると、私が気づけないのだ。

「もうそれさあ、きょう寝て起きたらさあ、おはらいいってきなよ。会社から経費でるんじゃねえの?」

 阿部さんの提案に、私は笑って煙草をひと吸いし、諦観をこめて、長くけむりを吐いた。

「もう社長に、出せねえぞって釘さされてるよ。それに――」


 今日は。

 

 娘に会う日なのだ。



***



 娘の――真矢子の学校がおわるのを待って、待ち合わせた店で合流した。

 好きなものを頼みなさい、そう言いながら私は、まー子がメニューをひろげて料理を選ぶと、もっと高いのを頼みなさい、と変えさせてしまった。

「ねーパパさー、あたしロイホも好きだけど、どうせこのくらい出してくれるなら、今度はもっと別なとこいこうよ」

 娘は、私のことを『パパ』と呼ぶ。

 いっぽう、元妻のことは『お母さん』と呼んでいる。だから、いつだったか、まー子はまだお父さんには甘えてるよなと冗談めかして言ってみたことがあった。が、

 結果として、娘に説教をされた。

 いわく、母親とは小さいころから連れだって外出していたから、それが母親の知人と会うのであれ、街中であれ、よその人の手前で『ママ』と呼ぶことに格好のつかなさを覚えて、物心ついて早々に控えるようになったのだと。

 それに比べ、そのころの私は、娘と外出したことがほとんどなかった。それは、未明に仕事があがるという一般との生活ののためばかりでは、ない。

 

 家にいても、私が――昼間から、よく酒を飲んでいたからだ。

 

 ついには、離婚の事由のひとつとさえなった、悪癖だった。

 それを蒸しかえされ、だから、『パパ』はいつまでも『パパ』呼びのままなのだ、これは家族としての時間が止まっている証拠だと、滔々とうとうと、レストランのメニューで腕をつつかれながらなじられた。私は、いやな汗をナプキンでおさえながら、ただ顔をふせて謝るばかりだった。

「もう昼間っから飲んでないんだよね?」

 声をとがらせてただしてくる娘に、私は、アアもちろん、もちろんだ、と答える。縮こまりながら、人目が気になってちらちらと周囲に目を走らせる。

 しかし、何組かいるほかのテーブルの客は、ちまたの下世話に目ざとそうな主婦グループさえ、私たちの存在を気にとめる様子すらなかった。

 それは、そうだろうと思う。

 ふつうなら、こんな明るいうちから、私のようなしがない中年男が制服の女子高生にいくらか豪勢なメニューなど食べさせていたら、どういう関係かといぶかられるだろう。

 だが、私たちに限って、その心配はなかった。


 娘が、顔も、体つきも、私にうり二つだからだ。

 ――誰がどう見ても、親子だ。


 正直なところ、こんなに私に似ていることを、かわいそうに思ったこともある。私の、男子高校生の弁当箱を開けたような、芋くさく大ざっぱな顔面は、どうしたって見目がよい、華があるとはいえない。

 しかし、そんな私と同じ顔をしたこの子は、この私の娘は、つねから誰の前でも、「ほらあたしカワイイから」と、そうあっけらかんと言い放ち、その度に、はじけるように朗らかに笑った。

 そういうときのまー子は、親のひいき目を抜いても、きっと実際に可愛らしく、魅力のひかるような少女であった。

 事実、そんな娘は学校で、すでに何人かの男子との交際をかさねているとも聞いていた。――父親としては、穏やかになれぬ話ではある。


「学校は、どうなんだ。最近」

 私は、ウーロン茶を飲みながら、料理をつつく娘に話しかける。

「どうもこうも、高三の夏休みあとだからね。みんな就職とか受験の話ばっかりだよ」

「おまえ、けっきょく進路どうしたんだ」

 そんな大事なことを、よく知らないでいる自分を、情けなく思う。それをとり繕うわけではないが、私はつづけて言う。

「大学な、好きなところいっていいんだぞ。お父さん、毎月入れてるお金のほかにも、まー子用の貯金してるから」

 だが、私のその言葉を、まー子はからからと笑いとばした。

「えーすごいじゃん。でも大丈夫だよ。そんな迷惑かけないと思う」

 いやでも、と私は食いさがるも、まー子は言う。

「あたしね、国立大受けるんだ。そんで、奨学金も受けられそうだから、ずいぶん楽になると思う。場所もいまの家から近いんだよ」

 意外だった答えに、私はぽかんと口を開けて、呆けてしまった。

「そんなの――受かるのか」

 疑うようなことを言って、すぐさま後悔する。しかし、まー子は気にした風もなく、うん、もう結構いい判定とれてるから、たぶん大丈夫、と事も無げに言う。

「そんでね、パパさ、もしそんなお金あるんだったら、将来あたしがやりたいことするときに、ちょっとお願いするかも知れない。そのときまで、取っといてよ。ありがとうね」

 頭が追いつかなくて、ひとり間のぬけた顔をしている私に、まー子はそう続けて、歯を見せて微笑んでみせた。

 私は、自分の娘が、知らぬうちに思うより成長していて、先の先のことまで考えていることに――何か、ここのところえきっていた心にあたたかい息を吹きこまれたような、そんな気もちになっていた。


 だが――

 私の奥ぶかいところで、冷ややかに思う別の私がいる。

 私には、本当は、こんな時間を過ごす資格などないのかもしれない。

 今ここで、こうして、娘と会話をかわす、それだけの資格さえ。

 私には、ずっと、つねに、目を背けたままでいる過去がある。

 ほんとうなら、それについて娘と話し、娘に謝らねばならない、過去の出来事が。


 娘が、まだ小さいころの日曜日――妻が外出し、家に不在の日があった。

 出ぎわの妻に、酒を飲むなとつよく言われていた。だが、私は飲んでいた。

 そのころ、とくに鬱屈がつよい時期であった。自分の人生が、中年に至り、空虚に過ぎてゆくことへの煩悶。それに、まだ手元にわずか残ったささやかな自分の取り分さえ、日々だれかにかすめ取られ、或いは無為に取りこぼしているのではないか、そんな焦燥に、とり憑かれていた。


 その日、私はかなりの酒量を過ごし、酔いつぶれていた。

 そして、心配して話しかけてきたまー子に激昂――いや、泥酔して被害妄想におぼれていた私は――その心づかいに、恐慌した。

 そして、家の中を、娘を追いたてて走り、ついには娘を――足蹴にした。

 気がつくと、家具に頭を打ちつけた娘が、火のついたように泣きわめいていた。

 本当なら、すぐにでも救急車を呼ぶべきだった。しかし、私はそうしなかった。

 自分のしたことが、それが人に知られることが、怖かった。


 ――今も、そのことを、妻は知らない。

 私が、妻にすら言わなかったからだ。

 まー子も、黙っているからだ。

 今に至るまで、ふたりで、その話をしたことはない。


 ただ、それでも――

 口に出さないだけで、娘は、忘れていないはずだ。

 忘れられるはずもないことだ。



***



 赤信号で停まると、おもてが騒がしいことに気づいた。

 道路の左右にビルがならぶ通り。歩道をゆく人間の、その多くに、足早に一方へいそぐ流れがある。駅のある方向へ、ではない。

 車が動きはじめ、群れる人の頭のむこうに、赤い回転灯をみた気がした。

「前見て、運転してください」

 後部席より声をかけられ、アーッ、こりゃすみません、とあわてて前を向き、ハンドルを握りなおす。

 メーターが動いていないことに気づき、急いで押す。

 目だけでおそるおそるルームミラーを覗くと、学生くらいの青年が座っていた。

「気になりますか? いまの」

 青年の声を背中にうけ、私は、イヤーとんでもない、と高い声を上げ、運転に集中しようとする。ゆき先は。どこへ向かうのだったか。惑いつつナビを見ると、私にしては珍しく入力がしてあり、画面に案内が出ていた。

「何か、あったみたいですよ。ツイッターに、もう話題が出てる」

 へえ、とまぬけな声が出る。パソコンには詳しくない。ナビの使い方、見方をおぼえるのさえ、やっとだった。

「動画を上げてるやつがいる。見ますか? 人が倒れてる。血が流れている。ひどいな。こんな状態の人間を撮るんだ」

 青年はそう言いつつ、どこか可笑しそうだった。スマートフォンを見ながらか、何か説明してくれているが、強い風の音がして青年の声が聞こえづらい。窓を開けたのだろうか。構わないが、声が聞こえない。

 風が、ドアガラスの隙間から巻き込まれていて、その音はごうごうとは響かず、ぼぼぼぼ、と耳障りに鳴っている。そのの合い間に、青年の、見ているものを読みあげる声が、垣間見する。切れ切れになるその意味を、私は取ることができない。

 屋上に――り越えて、た――――おごえでわ――警察。ど――

 ぼぼ、ぼぼぼぼ、ぼぼぼ。

 ――きっ――が、雨みた――て、大さ――

 ぼぼぼ、ぼぼぼ、ぼぼ、

 まるく――――ひめいが――あああぼおお、ぼ――

 その男が、ぼぼ――わああーって――指さしぼぼぼ

 とび降りて

 ぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。

 ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ――


 顔の横に、手があった。

「動画、これ、見てください」

 青年の声が近い。肩に腕をまわされそうに近い。

「死んでるんです。これ、テレビじゃあ、やりませんよ」

 視界の端に、見える手のひら。

 アクリル板はどうしたのだろう、と私は思う。

 乗客からの暴力や、強迫から運転手をまもるための、防護板。私の会社では、前部背面の、全面を覆うアクリル板を張っている。後部座席から乗りだして、運転席へ手を伸ばすことはできない。

 だとしたら、この手はなんだろう。

「イヤしかし、運転中ですので――」

 そう言いつつ、自分が、自分の両手が、ハンドルではなくハンカチをにぎり込み、おのれの口に押しあて、乱れる呼吸を抑えていることに気づいた。

 私は、運転していなかった。

 車は、停まっていた。

 不思議な、浮遊感だけがあった。

「大丈夫、いま、とても渋滞しているから」

 青年の、手がちかい。向こうから、触れてきそうなくらいに。

「いまなら。大丈夫」

 ちかい。みるか。しかし。

 その手には、スマートフォンなど、握られていなかった。

 ぽたり。

 なにも握っていない、その手は、ひどく濡れそぼっていた。

 手を洗ったような、水の膜の張るぬれ方ではない。

 真夏の、氷で満たした水のグラスのように。水滴のつぶが、表面にすき間なく貼りついていた。

 私の視界いっぱいにさし出されたその手のひらは――


 一面が、びっしりと結露していた。




 ぼおおおー……、と、とおく響く音を聞いた。

 ハンドルに伏せっていた上体を起こし、きしむ眼球で上を見やると、ドアガラスの上部が細く開いており、遠くからの、原付か何かの駆動音が聞こえていた。

 私の車は――住宅街の路肩に駐車していた。

 力なくうなだれると、ひざの上に、自分のハンカチを見つけた。そこへ、長く、みっともなく、よだれが糸をひいていた。

 後ろ手に、シートに、手をかける。体をひき起こし、シートに膝をつく。ひどくおっくうで、難儀した。

 頭の位置が動くと、ひどく痛む。私は息を乱し、肩を回して、体ごとおそるおそるふり向いて、後部席をたしかめる。


 シートが、人が座るかたちにびっしょりと濡れていた。

 私は、肺の底をさらうような深いため息をつき、シートにしがみ付くように身をあずける。

 何もかもがおそろしくて、面倒で、死にたいような気もちになっていた。

 時計を見る。まだ、午後四時にもなっていない。四囲の窓からは、まだぜんぜん明るい、昼間の光がさしている。


 完全に油断していた。警戒していたら、何か変わったわけではなかろうが。しかし。


 今度の幽霊は、日の高いうちから出た。



***



「それじゃあ、日勤にしてもらっても、意味ねえじゃねえか」

 助手席の大輔だいすけさんが頓狂な声を出す。


 夕方、夜の仕事に入るまえの仮眠の時間を、私は大輔だいすけさんと過ごすことが多い。

 というより、大輔さんのほうが、私の車の助手席にもぐり込んでくる。

 なんでも、昔、女あそびが過ぎたころがあり、そのなかに取りわけ情のふかい女がいて、いつの間にかつくられた合鍵で深夜しのび込まれて。寝ていた腹を三徳包丁で思いきり、切りつけられたということだ。

 それ以来、一人ではどうにも寝つけぬのだというが、いまの、思慮ぶかく寡黙な大輔さんからは、想像もつかない話ではある。


「それで? けっきょく停まってたところは、その仏さんちの前だったのかよ」

 ともあれ、その大輔さんに、私は数日前にまた起きた幽霊話をした。

 大輔さんは、ふだんは無口だが、こうして二人でいるとなかなかに喋る。いつもは、ほかに喋る者がいると、とくに阿部さんがいると、わざわざ自分まで喋らんでいいかと思うのだそうだ。

「それは、わからんかったよ。チャイムは押してみたんだけど留守でさ。でも、玄関の鍵はかかってなかった。引っぱったら開いちまってさ。もちろん、入りゃあしないよ」

 私も、大輔さんも、シートのリクライニングを限界までたおして横になっている。

「次の日の新聞には、たしかに、その辺りで、ビルからの飛び降りがあったって、書いてたけどさ」

「死んだやつの名前は。表札見てこなかったのかい」

「そこまで、憶えちゃいねえよ……」

 窓からの、ほぼ落ちた夕ぐれの日ざしが、それでもまぶしい気がして、私は両手で目を覆う。大輔さんは、アイマスクをつけている。


 ただ――

 大輔さんにも言っていたことであるが、私は、来月から、隔日勤からいわゆる日勤に勤務形態を変更してもらう予定だった。

 週三で朝から深夜まで働き、翌日はやすむのが隔日勤。日勤は、一般的な仕事と同じ、週五で朝夕の時間帯を働く形態だ。

 夜をはずせば、幽霊とは出遭うまいという、今にして思えばあさはかな目論見だった。

 日勤になれば、もらえる金はがた落ちするが、しばらくの辛抱だと思っていた。夜に走らないように過ごして、そのうち寒いくらいの季節になれば、もう幽霊もあるまい――などと、甘いことを考えていた。


「……お祓いって、あれからいったのかい」

 眠ったのかと思っていた、大輔さんがまた声をかけてきた。

「ああ……いってねえよ。どうせ効かねえもの。大輔さんもそう言ってたろ」

 私がそう返事すると、まあなあ――と、大輔さんは寝返りをうつ。

 私は、先日、大輔さんが語ってくれたことを思いだす。

 つまり、お祓いなんてものは、かつての人類が治らぬけがや病気に対してやっていたことなのだと。細菌や、ウイルスの存在を知らぬから、目に見えぬそれらが原因で苦しむ患者を、呪われたんだとかいって、祈ってなおしていたんだろうと。


 ――いま後藤さんが見舞われてる災難も同じだよ。幽霊だあ、怪談だあいうからお祓いが効くように思うこともあるかもしれないが、どんなに掴みどころがなくても、現実に起こっている以上、それこそ病気みたいに、それが起こる人体のしくみ、世界のしくみがあるんだろう。

 死んだはずの人間が、生きてるときの姿でタクシーに乗るんだったら、そこには、人間のまだわからない死んだあとに残る、何かが、いつか理屈のとおる何かがあるはずなんだ。

 それを、やっぱり何がなんだか分かってない側の人間がお祓いなんぞやったって、効果があるはずがないだろうよ。


 大輔さんは、先日の仮眠のおりに、酒も入ってないのにそんな長いひとり語りをした。

 ――それが魂だなんて大層な話は、俺はしないよ。だって、そんなの、焼いたあとに残るおこつみてえなもんかも知れねえじゃねえか。

 そんな締めくくりも、私のこころには響いた。だが。

「けどなあ――娘さんとかには、話してんのかい。なんて言ってる」

 いまの大輔さんの口調は、なにか煮え切らない。それが、私はなんだか気にくわない。

「言ってねえよ。お父さんまたバカにされちゃうもん」

 そう言って、私は笑ってみせる。

「でもまあ、話したら、お祓いいけって言われんだろうなあ……気休めでいいからってよ」

「そう。そうよ。気休めでいいんだよ」

 大輔さんが、アイマスクをずらして私を見る。

「気休めも、だいじよ。病は気からって言うだろう。俺はああは言ったが、何でも、できることはしといて損はねえよ」

 そういうもんかね、とだけ私は答え、そうしてつらつらと考えごとをしているうちに、いつしか――とおく自分のいびきを聞きながら、眠ってしまっていた。




 つぎの日、未明にあがった仕事あとにほとんど睡眠をとらないまま、私は近所のいくらか大きい神社に出向いていた。

 平日の午前中の、人の気配のうすい参道を歩く。社務所はもう開いており、お守りやお札はならんでいたが、人がいない。

 お祓いを、もしするとしても、料金はどれほど取られるものなのか。それを聞きたくて来てみたものの、目的を果たせず、手もち無沙汰な時間がすぎてゆく。

 なんの気もなく、無感動に賽銭をなげて手をあわせ、ふと、思いついて、おみくじを引く。

 ――〈凶〉。

 それは、知っている。そうとしか感想の出ない結果に、笑いだか、ため息だかわからぬ息が漏れた。

 おみくじで引いた運勢が意に添わないときは、神社の木に結んでゆけばいいのだったか。しかし、いまの私は、それで悪いめぐり合わせを引きとってもらえる気もしなくて、雑にたたんだ薄紙を単にポケットにつっこみ、また鳥居をくぐって神社をあとにしてしまった。

 お前は今さらもうどうしようもない、そう言われた気がしてしまったのだ。

 それは、知っている。


 帰りみち、私はさっきのおみくじを、あらためて取りだし、よく見なおした。


 〈凶〉

 

 【願 望】のぞまず、心たいらかに

 【商 売】買いびかえ、報せをまて

 【縁 談】悪縁あり、会うべからず

 【病 気】永びく。心して養生せよ

 【待ち人】来ず。ゆめ追うべからず

 【失せ物】遠くにあり、見つからず


 そういう運勢なのだから仕方ないが、みごとに景気のよくないことばかり書いてある。しかし、その中にひとつ、毛色のちがう一文を私は見つけた。


 【悩み事】霧散す。肩の荷がおりる


 なんだ。悪くないじゃないか。

 これでいいんだ。じゅうぶんだよ。

 おみくじを、結んでこなくてよかった。そう思った。もともと多くを望んではいないのだ。

 私は満足して、そのおみくじを今度はていねいに折って財布にしまい込んだ。


 そうして、なんだか気が晴れたようになって、私は、コンビニに寄ってチューハイを二本買うと、道すがらすっかり飲みほしてしまった。家につき、あとは、いい気ぶんで寝なおすだけで、その日は何もせず終わってしまった。



***



 まー子から、携帯にメールが来ていた。

 駅で、財布を落としてしまって帰れずにいると。

 仕事中であったが、営業エリア内であったため、私は向かうことにした。


「だからさぁ、ライン受けられるようにしといてよね! てかスマホにしろー! もうメール打つのって、パパにだけなんだから」

 とくに待ち合わせ場所など決めていなかったが、中野駅前あたりというだけで、人いきれの中から私はすっとまー子を見つけ、まー子も、私の車両をすぐに見分けてかけ寄ってきた。

 開けてやったドアから、後部席にまー子がすべり込んでくる。手には鞄と、流行りのあれ、プラのカップに太いストローをさした、タピオカの飲み物をもっている。

「おいそれ、こぼすなよ」

「大丈夫。飲んじゃう飲んじゃう」

 お金あとでちゃんと払うから、と殊勝なことを言う娘に、私は、バカ、いらんよ、とつっけんどんに返す。

「それより何だ、ちょっと時間早くないか。まだ――学校終わってるころじゃないだろう」

 なぜだか慎重にたずねてしまう私に、まー子は明るく笑って答えた。

「あー、ね。いやあほら、早引け? 息抜き息抜き。友だちと遊んでたの。どーせ今、もうみんな学校こないか、来ても自分の勉強しかしてないかだし。先生もまともに授業やってないし」

 この子がそう言うなら、そうなのだろう。自分の子どもを、もう大人であると認めたわけでもないのに、妙に信頼している自分に気づいた。

「馬場の駅まででいいよな」

 なにも訊かず走りだしていたので、いちおう確かめる。よろしくー、と返事がかえってくる。

「それで、財布、見つかってないのか。駅でくしたのか」

 ハンドルを切ってガード下に入ると、先の交差点で車が詰まっていて、そこで停車させられる。私はハンドルを指で叩きながら、ルームミラーのなかの娘を見る。

「そう、駅員さんがね、みんなで探してくれたんだけど。見つかんないの。どっか飛んでっちゃったのかなあ」

 娘は、ストローをくわえて飲み物を飲んでいる。ストローのなかを、黒いタピオカが動いているのが見える。

「大学受かって気が抜けてたなあ。気をつけないと」

 そうか、と相づちをうって、ふと私のハンドルをたたく指が止まる。――大学。大学って、もう決まってたんだったか? もうそんな時期か?

「受験終わって、ひと安心してたからね」

 すべり止めとか、そういう話かと思いかけたのも、ちがった。

「あの――すまん。第一志望って、どうなった。俺は聞いていたっけか」

 なにかに突かれるように、私は口をはさんでいた。

 ごおんごおんごおん――

 ちょうど、高架の上を、列車が走った。私は自分の声がかき消されたかと思ったが、娘は答えた。

「え、ひどいなあ。そこに受かったんだよ。今年は私、お正月もなしで勉強してたんだから。クリスマスもやんなかったな」

 正月。クリスマス。

 ごおんごおんごおんごおん。

 何の話だ? いつの正月だ?

 列車の走る振動がつづく。日ざしが遮られており、車内は暗い。暗くて、ルームミラーの娘の表情が見えない。

「あとはほんとはさ、来月の入学式待つだけなんだけど。でもその前に、ちょっとやりたいことあるかな」

 来月。十月だ。そんな頃にやる入学式があるのか。

 列車の走る振動がつづく。その轟音に、娘の声が聞こえなくなるかと思ったが、なんの加減か、声が頭のなかに響くようで、よく聞こえている。しかし、その内容を、私は理解できない。

「じつはね、言ってなかったけど、家出て、ひとり暮ししたくて。べつに通える距離だから、お母さんには反対されてるんだけど。勉強優先してたから説得もできてないんだけど」

 ごおんごおんごおんごおん――

「あのさ、だからさ、パパ。どうしてもってときは、部屋借りる保証人とかお願いしてもいい? いやそれ無理か……」

 え、ああ、と私はあいまいにうなずく。

 理解より先に走ってゆく状況と、列車の振動に、頭がかき乱される。ごおんごおん、と流れてゆく音に意識を任せて、思考をもっていかれそうになる。

「まあそれはそれとしてね、部屋借りると言えば、あたし将来考えてることがあって。これは言ったっけ? パパさ、もしあたしが、大学も卒業して、働くようになってさ、もしだよ、家買ったらさ――いつかまた、いっしょに住まない?」

 娘の語ることば、投げかけられる問いかけを、私は聞いている。列車の振動は、もはや私の拍動とひとつになって、振りまわされる思考をうばい去ってゆく。

「ふたりだけじゃないよ。お母さんもだよ。べつに再婚なんてしなくていいし、なんなら仲なおりもしなくていいから。それに、どうしてもってんなら、あたし頑張っておっきい家買うからさ、生活なんかべつに合わせないでいいし、ご飯だってばらばらでもいいから。三人で、お互い誰よりもいちばんちかいところで、寝起きするの」

 娘の声はいつも明るい。その声が、私のなかにいま満ちる振動、轟音にも負けず、私の心にひびいている。その声が、もしかしたら手がとどきそうに思える、あたたかい日のさすような未来を語っている。

「あたしとね、お母さんと、パパで、ひとつの家で暮らすの。あたし、いつか、それができたらいいなって」

 ああ。しかし――

「でね、これ友だちに話したらね、それ家庭内別居じゃん! て言われて。えっマジだ、あたしバカじゃねって笑っちゃった。でもさ、でも、いーよね。いつかさ、三人でさ、家庭内別居しようよ。いいよね」

 娘は、鈴をころがすような笑い声をあげて、楽しそうにしゃべる。

 しかし、私はなぜか、気づいていた。

 これは、ほんとうは来なかった未来だ。私の手から、もう、こぼれ落ちてしまった未来だ。

 こんなにそばで。すぐうしろに。手がとどきそうなところにいるのに。

 ――私の胸のおくで、列車はまだ、走りつづけていた。




 気がつくと、顔の横に、手が伸ばされていた。

「ねえパパ、タピオカ飲む?」

 娘の声が近い。

「飲んだことないよね。甘いの、嫌いだっけね」

 そっちを見てはいけないと思った。

 わかっている。もう手おくれだ。だが。

 ぽたり。

 したたったものがあり、私はびくりとしたが、それは、私のこぼす涙だった。

 にじんで揺れる、視界の端に見える手。

 私をうながすように、その手のひらはひらひらとゆれた。

 それでむしろ、私は、その手になにも握られていないことを知ってしまう。

 この呼びかけに、応えてはいけないのだと知ってしまう。

 しかし――

「やっぱ、お酒のがいい?」

 そう言われて、つい私は、はっと顔を起こした。

 顔を上げた目の前に、伸ばされた手。柔らかい、まだ子供の手のひら。

 だが私は、この手がもっと小さかったころを知っている。私と、妻とだけを頼って、その手をつついた指をしっかりと握りかえしてきたころを知っている。

 あのちいさな手が、今はこんなに大きくなった。

 その手で、いろいろなものをつかみ取り、またこれからも掴んでゆくはずだった。

 その手が、いまは。私の目の前で。


 ――びっしりと、結露していた。



***



 コン、とガラスを叩かれて目がさめる。

 

 ラジオの音が大きい。ノイズ混じりの音楽と、声が耳に流れこんでくる。

 また、コン、とガラスが叩かれて私は顔を上げる。ずきりと頭が痛む。


 妻がいた。

 いや、元妻が。車のすぐ外に立っていた。


「あんたにも、連絡いったの?」

 ドアガラスを下げると、冷たい、ぶっきらぼうな声で話しかけられた。

 私はその意味がわからず、えっ、とか、あっ、とか声を漏らして目を泳がせる。妻が、舌打ちをしたような気がした。

「ちがうの? なら、なんでここにいるわけ?」

 それは――と言いかけ、その先を言えずに黙る。

 代わりに、何かあったのか、としぼり出すように言う。

 妻は私をじっと見ていたが、

「真矢子のところに行くの」

 短く、そう言った。私が何も言わずにいると、妻は言葉をつづけた。

「真矢子、駅で、線路に落ちたって。それで――」

 妻の口が、うまく言葉を出せないかのように、ぱくぱくと動いた。いちど唾を飲み、妻は、あらためて言った。

「電車に轢かれたって」

 私は何も言えなかった。妻も何も言わない。場に、ラジオの耳障りな音だけが、ただ満ちていた。

「ラジオうるさい。止められないの?」

 そう言われ、私はあたふたとパネルをいじったが、頭が混乱して、やたらボタンを押すばかりで、ラジオを止めることができない。妻のため息が聞こえる。

「これからさ」

 妻の声に手を止める。

「警察署に呼ばれてるから、行くんだけど。ほんとうに真矢子かどうか確認してほしいって。でも、真矢子の体は見せられないって」

 私はパネルに向けて顔を伏せたまま、ふり返ることができない。

「鞄もなにもふっ飛ばされて、まだ財布も見つかってなくて、学生証もないって。なに見せられんだか」

 また沈黙がおりる。私は、妻がもう歩き去ると思っていたが、妻は、そうはしなかった。背中への視線を、まだつよく感じる。

「ねえ」

 妻の呼びかけに、私は答えるべきだと思ったが、まだ体が動かない。ラジオは鳴りつづけているが、その音は間をもたせてくれない。

「あの子、なんで線路なんかに落ちたんだと思う?」

 妻が問いかけている。私は動けない。

「落ちたんじゃない。落とされたのよ。中年の男に。ホームで、からまれたんだって。でも、男のほうから絡んできたわけじゃなくて、真矢子から声かけたんだって。――なんでだと思う?」

 ラジオがうるさい。

「そいつ、ホームで、昼間っから酔っ払ってすわり込んでたんだって。それを、真矢子が、あの子、そんなことしなくていいのに、心配して声かけたんだって。そしたら、そのクズが」

 うるさい。

「まー子を」

 聞きたくない。

「追いかけまわして、ホームから、蹴り落としたんだって」

 やめてくれ。




 そのあとの間を、私は、とても長く感じた。

「じゃああたし、もう行くから」

 妻の気配が動いてはじめて、私は追うようにふり返る。

 ドアガラスを開けきり、顔を出すと、妻はまたこちらをふり返っていた。

「ああ、そうだ。養育費も、もういらないから。来月から入れなくていいから。だからもう今後一切、連絡しないで」

 その顔には、離婚に至るまぎわですら見たことのない、こちらを心底軽蔑する表情が浮かんでいた。

「よかったじゃない。生活、楽になるでしょ」

 吐き捨てるようにそう言い、妻はまたきびすを返して、歩き去っていった。

 

 ひとり取り残された私の、空っぽになった頭の中に、ラジオの軽薄な音声だけが、わんわんと響きわたっていた。


 ――いやァそいつは助かる助かる、って、私ァ……ほっと胸をなで下ろしましたよ。


 ――これで、やっと、肩の荷がおりたってもんで……

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結露した手 ラブテスター @lovetester

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