ひとときのマリッジブルー
湯煙
ひとときのマリッジブルー
「え? 今、なんて言った?」
「だから……貴方と会った時はまだ離婚していなかったの。ずっと言わなきゃって思っていたんだけど、あの時頼れるのは貴方しかいなかったし……」
テーブルを挟んで、申し訳なさそうに話す彼女を俺はぼんやりと見た。目の前の彼女が何を言っているのか一瞬判らなかったし、そんな彼女は俺の知らない彼女のように思えた。
「だけど、あの日からここに一緒に住んで……」
大学生時代、同じクラスだった彼女と街で偶然出会った。大学は別の県にあり、かなり離れていたから卒業以来十年ぶりに再会したんでかなりビックリしたのを覚えてる。
大学のとき付き合っていた女性と彼女は友人で、何度か一緒に食事した。その程度の関係だった。
俺はその後付き合っていた女性と結婚し、五年後に離婚した。そのことを彼女は知っていた。そして夕食代わりに行った居酒屋で昔話のついでに近況報告をした。
彼女は離婚したばかりでホテル暮らししているという。そして新しい部屋を探してる最中とのことだった。
実家は遠いし、親しい友人もこちらには居ない。
前の旦那の転勤についてきたばかりで土地勘はない。
仕事をやっと見つけたばかりで、給料も少し先にならないと……と困ってる事情を話してくれた。
軽い冗談のつもりで「じゃあ、部屋が空いてるから来るかい?」と言ったら、「貯金も心許ないからお願いできる?」と言ったんだ。
正直、断ってくると思っていたからビックリしたけれど、それだけ困っているんだと思い、部屋を使って貰うことにした。
離婚直後って、異性への不信感を抱えたり、自己嫌悪に陥ったり、人によるだろうけれど、それまでの自分が見ていたものとは別の何かを異性にも同性にも見る。少なくとも俺はそうだった。
結婚ももういいやと思っていたし、付き合うのもしばらくはゴメンだと思っていた。
だから一つ屋根の下で暮らすことになったけれど、離婚したばかりの彼女はすぐ引っ越すだろうと予想していた。早ければ数日で、長くても一月か二月で元の一人暮らしに戻ると考えていたんだ。
彼女は家賃代わりにと、仕事との兼ね合いで時間があるときだけだけど、朝食と夕食を作ってくれた。最初は家賃も電気水道代も払うと言ったんだけど、それは俺が断ったんだ。離婚したばかりなのに、いくら昔の知人とはいえ、男の家にしばらく住もうというんだ。経済的にかなり困ってるはずだと思ったからね。
……それは後に正しかったって判るんだが。
離婚して三年以上過ぎていたせいか、彼女との生活が嫌とは感じなかった。
朝食はほぼ毎日、夕食は平日は時々、土日もお互いの時間が合ったときだけだったけれど、一緒に食事する相手が居るのはいいなと、久しぶりに感じた。
彼女の料理は温かく美味しいと感じたしね。
二月一緒に過ごして、俺と彼女はいわゆるパートナーの関係になったんだ。
その時はお互い結婚は考えていなかったな。
だいたい、俺の離婚理由も彼女の離婚理由もお互いに触れずに生活していた。
最初は、一緒に暮らしているうちに情が湧いたから一つのベッドで寝るようになったって感じだったな。
それから一年半過ぎて、これからもずっと一緒に支え合おうかと、そんな気持ちになってプロポーズした。彼女も同じ気持ちでいたようで、その場でOKしてくれた。
お互いに一度結婚に失敗していたのが、俺達の場合は良い経験になっていたんだ。
家事の分担はもちろんだけど、お互いの自由な時間も尊重しなくてはと思えたし、何より、何でも話し合うけれど、自分の意見や気持ちをお互いに押しつけないようになっていた。それが心地良かった。
俺は俺なりに、今度の結婚は失敗させないと強く誓っていたんだ。
「一応、離婚調停は終わっていて……離婚は決まっていたんだけどね」
「でも離婚届は出していなかったと」
離婚調停で話がまとまると、十日以内……だったかな? ……で離婚届を出さなきゃならない。
自分の経験でそれは知ってる。
「そう……ごめんね」
「でもなんで今になって……」
結局は期間内に離婚届を出したんだし、何も問題はないじゃないかと考える自分と、何故正直に最初から話してくれなかったんだと彼女に疑問を感じる自分がいて、俺は気持ちの整理がつかずにいた。
「だって明日婚姻届出す予定でしょ」
「そうだね」
「夫婦になる前に隠し事はなくしておきたくて」
「そっか。うん、正直に話してくれてありがとう」
気持ちはまだ揺れていた。だけど、これは彼女なりの誠意なんだと思えたから、微笑んで返事することができた。
・・・・・
・・・
・
その夜、静かに寝息をたてる彼女の横で俺はどうも落ち着かず眠れずにいた。
彼女と一緒に暮らし始めた当時、俺と彼女の関係は家主と下宿人のようなものだった。
指一本触れていないし、そんな気持ちはなかった。たぶん彼女も俺と同じ気持ちだっただろう。
だけど、三十代の男女が一つ屋根の下で暮らしていると聞けば、世間はそれなりの見方をする。
男女の関係がある二人と考える。
もし、彼女の前の旦那に知れていたらと思うと、やはり落ち着かない。
結果何もなかったんだからいいじゃないか。
俺も彼女も相手の金銭面の問題で離婚した。
俺の場合は借金の額より、ずっと隠していたことと、借金が明らかになったあとの態度に怒りを抑えきれなくて別れた。
彼女の方は、額も大きかったけれど、隠していたことと、その使途が他の女性のためだったのが許せなくて別れた。
お互いに大事なことを隠されていたことが離婚に繋がった理由の一つだと、今は知っている。
だから彼女は婚姻届を出す前に、今まで話せずにいたことを話してくれた。
それは判っている。
どうする?
このまま婚姻届を出していいのか?
もし、もしも、まだ隠していることがあって、それが俺にとって大事なことだったらどうする?
彼女を疑いたくない。
この一年半の間に、彼女が何を大切にしたいと考えているのか、何を嫌っているのか、俺とどう暮らしていきたいのか、いろんなことをたくさん話した。
俺も伝えてきた。
セックスだってそうだ。
相手をいたわりつつ身体を重ねてきた。今では相手のその日の気持ちに合わせて愛し合える。
彼女にまったく不満はないとは言わない。
きっと彼女の方も俺に対して何かあるだろう。
でも、受け入れられる程度だから結婚したいと思った。
最初の時と違って、お互いに慎重に相手を見てきたはずだ。
それは確かなんだ。
だけど……どうしてこう苛つくんだろう。
横で眠る彼女は何も変わっていないはずなのに……。
結婚式はあげない。これはお互いの両親の同意も得ている。籍を入れて写真だけ撮る。それだけだから面倒な準備は要らない。
仕事が楽しくなってきたという彼女の意思を尊重し共働きする。当分は二人で家計を支えていこうと話し合った。
家事の分担も、一人でやってきたことを思えば楽になるから気にならない。同棲中と同じようにやればいい。
子どもができたら、昼は彼女が、夜は帰宅した俺がと決めている。土日のどちらかは彼女を残して子連れで俺の実家へ行こうとも話し合って決めている。
できるだけ片方の負担が重くならないようにと決めたんだ。
俺は納得しているし、彼女も喜んでくれた。
これまでちょっとした言い争いは幾度かあったけれど、翌日にはどちらかが謝って仲直りできた。これからも言いたいことはできるだけ言い、不満を溜めないようにしようと約束してる。
明日婚姻届を提出する。
そのことに不満も不安もないはずだったんだ。
俺はベッドから起きて台所へ向かった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを引いた。
グイッと一口飲み、フウッと息を吐く。
ダイニングテーブルに腰をあて寄りかかるようにしてビールを再び口に運んだ。
「眠れないの?」
背後から彼女の声が聞こえた。
「あ、ごめん、起こしちゃったかな?」
「内緒にしていたから……気にしてる?」
彼女は横にきて、俺と同じようにテーブルに寄りかかった。
「ちょっとね。でも、大丈夫さ」
「本当?」
本心を探るように俺を見つめる。
「ああ、軽いマリッジブルーって奴じゃないかな」
もう一口ビールを喉に流し込む。
「ごめんね」
「もう謝らなくていいよ。きつい状況だったのは知ってるし……気持ちを考えると言いづらかったのも判るから」
「大事な隠し事はもうないから」
「あはは、俺が虐めてるみたいだね」
彼女の言葉から申し訳なさが伝わってくる。
彼女の隠し事は今となってはたいしたことじゃない。
婚姻届提出前に話してくれたのは彼女なりの誠実さからだ。
そんなことは判ってるのに、何故、俺は揺れているんだろう。
彼女に怒りは感じていない。
失望したわけでもない。
横に居る彼女の香りに愛しさも感じる。
何故だ。何故揺れてるんだ。
「結婚してから話して、裏切られたと思われたくなかったの」
「裏切る?」
「そう、騙されたって思われたくなくて……言わない方が良かったかしら」
どうなんだろう?
知らないままの方が良かっただろうか?
……それはないな。
俺はビールを飲みほし、空いた缶をテーブルに置いて彼女の肩を抱いた。
「いや、話してくれて良かったよ」
「本当?」
「嘘じゃないさ。今も結婚したいって思ってる。不安も不満もないよ。ただ……」
「ただ?」
「俺にとっては予想外の話で、きっとビックリしているだけなんだ」
あ、俺は今嘘をついた。
少しだけど確かに動揺しているのに、寛容な自分を見せたくて嘘をついた。
俺は俺自身も彼女も傷つけたくない。
だから嘘をついたんだ。
ははは、彼女もきっと同じだったんじゃないか?
最初は困っていたから黙っていた。
でも、その後は事実を知った俺が傷つくと思ったから言えずにいたんじゃないか?
ああ、きっとそうだ。
彼女ならそう考えるだろうな。
……なんだ、俺も彼女も……お互い様じゃないか。
嫌われたくない。
傷つけたくない。
どっちも本当のことだ。
だから彼女は言えずにいたし、俺は嘘をついている。
彼女を抱いている手に力を入れた。
「さぁ、そろそろ本当に寝よう。眠そうな顔で婚姻届提出したくないだろ?」
「そうね」
二人並んで寝室へ向かう時、俺の中から揺れが消えていた。
ひとときのマリッジブルー 湯煙 @jackassbark
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