第五章 オズワルドの掌の中

Ⅰ. 再び地上へ

 花は何のために咲くのだろう?……そう、一体。そして蜜蜂は、何のために存在しているの。父さんが私に託してくれた、このブルー・エトランゼの花のペンダント。その中に隠された、数粒の花の種。でも、これをどうしたらよいのか一向に分からずに、ルカはずっとそれを手にしていた。でも、アガルタでそれを自分の手元から紛失くしてしまってから、さらにそれが自分の父さんの形見のようなものなのだと、改めてルカは思い知るのだった。


 勿論、父さんは死んでしまった訳じゃない。今はまだどこにいるのかすら、何一つ解らないけれど、決してそうは思いたくない! ねぇルルド……シャル姫。父さんは生きている。そうでしょう? 現に父さんは、私にこの花の種を残してくれた。いつかこの花が花開くときのように、それは父さんにも、近いうちに逢える証拠なんじゃないかとさえ思う。


「君はまだ何一つ知らない。だから、一つ一つ教えてあげなければならないな……」


 オズワルドはそう言って、ニヤリとほくそ笑んだ。でも、この人はそう言って、好き勝手に私やティオを地底界のアガルタへと放り込んだ。人さらい……そうでなくて一体なんなのだ。ルカは些か抗議以上のものを、このオズワルドに感じながら、その実何も言えないでいた。――そう恐怖。私はこの人が怖い。何も知らない私を上から見下ろしているような、その視線が怖い。そうでなければ、どうしてこの人から逃げようとしないのか、ルカは自分自身が解らなかった。


 瀕死の状態だったシャル姫は、皮肉にもオズワルドの指示のもと、自社のケペレル・インダストリーにおいて適切な処置を受け、何とか一命を取り留めた。やはりケペレル社とアガルタとは、何か特別な関係にあるらしい。そのことを暗にほのめかすように、オズワルドは言った。


「アガルタの不老不死の女王蜂の姫も、この地上に出たらまともに生きられない……。だが、この聖なるラズリの花の蜜さえあれば」


 応接室の壁に掛けられた額縁の中の一枚の花の写真に、ルカは釘付けになる。あれは……っ。そう、それはルカの父さんの幻の青い花、ブルー・エトランゼだった。


「15年前、彼女は地底を抜け出した。そう、君のお父さんに手引きされてね」

 ……父さんが!? オズワルド、彼は父さんの何を知っているっていうんだろう。


「養蜂家は花を盗んだ雄蜂を決して許しはしない。それがアガルタの掟だ」

 訳知り顔で言う、オズワルドの眼鏡の奥の瞳がキラッと光る。蒸気船、そしてヴィンダリア号。やっぱり何もかも知ってるんだ。じゃあ、この人は――?


          * * *


 船長に助け出されたマリーは、地上に戻ってから、ずっと上の空だった。あのとき、ウルティマ・トゥーレのヴィマナから落下したあと、不思議な力によって、マリーは船長の腕の中へと無事に抱きとめられた。彼女は覚えていた。しっかりと抱擁感のある、その力強い腕の逞しさを。それ以来、マリーはフランドやフィロに何か言われても上の空で、ずっとぽけーっとしているばかり。もしかして時差ボケ?アガルタにもそういうのがあるんだろうか。フランドとフィロの二人は、頬杖を付いたまま黙りこくっているマリーを見て訝しんだ。


「一体どうしたってんだマリー姐さんはよ?」

「フランドお前何かしたのか?」

「するわけねーだろっ!つーか、あの一件以来ってことだよ!」


 そもそも、その船長自体、謀反の罪を着せられ、アガルタの養蜂家の手の内ではなく、今現在ケペレル社の独房に入れられてしまっているのだった。つまり、どう考えても、アガルタの養蜂家とケペレル・インダストリーは裏でつながっているという事実ことが見て取れた。幸いマリーやティオ達は、船長のような扱いは受けず、ただ彼らの監視の下、軟禁されているだけだったので、それなりの自由は許されていた。


 それでも、あのヴィンダリア号に乗っていた数多くの乗客たちは皆、どうしたのだろう。地上に戻ってから蒸気船を降りた形跡もなく、皆、姿かたちもなく忽然と消えてしまっていた。蒸気船そしてヴィンダリア号。今、シャル姫はケペレル社内のケミカルセンターの集中治療室にて、絶対安静の面会謝絶状態にあったし、ルカはルカで、あのオズワルドにどこかに連れられて行ってしまった。


 無論ティオはルカの身を案じて、一緒についていこうとしたのだが、あろうことかルカ自身に止められてしまった。どうして?


「ティオ、私は大丈夫だから。お願い、心配しないで」

 そう言ってルカはティオを止めたのだが、いかんせん女の子一人、得体の知れない怪しい男の言いなりになるなんて、ティオは本当に心配でたまらなかった。


 第一このケペレル社自体、心底信用できない。ケペレル・インダストリーといえば、かなり名の知れたメジャーな大英帝国の大企業だったのだが、それがあのアガルタとつながり、あろうことかその蒸気船が、あんな想像もつかない変身メタモルフォーゼをするなんて。こんなこと、世の中にバレでもしたら大騒ぎになる。というか、きっとそんな話、誰も信じてなんかくれない。……ティオは改めて一人黙りこくった。


 一人だけ拘束されている船長も、今後どうなるか分からない。


「ねぇフランド、フィロ。あの方は、一体どうしたの?」

「へっ?」

「あの人だよ!あの人……!!」

 唐突にマリーにそう尋ねられ、やっとそれが船長のことだと気づく二人。


「さあ……一体全体どうしちゃったんでしょうね?」

「あたしはまだ、お礼も一言も言ってないんだよ!?」

 フランドに食ってかかるマリー。かと思えば、次の瞬間には意気消沈して、


「……もし、あの方に何かあったら……もうどうしたらいいんだい?」

 マリーは柄にもなく一人項垂れるのだった。


 一週間ほどして、どうやら峠は超えたのか、シャル姫の病室の面会謝絶の札は下げられた。ルカやティオが姫を見舞いに行くと、姫はまだ静かにベッドに横たわったまま目を閉じていた。そっとそのベッドの傍らに寄り添うルカ。そしてそれを見守るティオ。


 あの働き蜂のダリアンは、ヴィンダリアが地上へあがる直前、自機ヴィマナに収容され、すんでのところで、そのままアガルタに留まることができた。が、その時、《シャルロッテ……!! 》その声が、胸の奥深くまで痛いほど響いたのをルカは覚えていた。やはりあのダリアンは姫を。それでも、その働き蜂と女王蜂の姫が互いに想いを通わすという、そのこと自体が、あのアガルタ世界において、どのような意味を持つのかなど、ルカはまだ知る由もなかった。


「ごめんなさいね。……随分と、心配をかけてしまって」


 そう申し訳なさそうに囁く姫に、首を横に振るルカ。本当によかった。姫が無事で。ルカはただそれだけで一安心だった。だって姫は――私の父さんの大切な人なのかもしれないんだから。ルカはシャル姫と少しだけ話をした。父さんのこと、母さんのこと、そして、このブルー・エトランゼの花のこと。


 ふっとため息をつきながら彼女は言った。


「……そうですか、ルカ。あなたには、お父様やお母様、大切な家族がいるのですね。でも私は、私には。あなたのような家族はいません。けれど深く信頼している人なら、います――」


 ダリアン? ルカは思った。けれど姫は急に表情を曇らせて、

「……けれど、それは決して許されないこと」それだけ呟いて、そっと瞳を閉じた。


 やはり女王蜂と働き蜂とでは、身分違いということなのだろうか。勿論それもあったが、ことアガルタ界においては、話はそれほど単純ではなかった。いかにアガルタにおいて女王蜂の存在が稀有なものなのか、そしてそれを守護する働き蜂の7人が、どれほど重い責務を背負って、それを担っているのか。彼らは見た目はルカたちと何ら変わらぬ人の姿をしてはいたが、その存在が有する力そのものの意味においては、彼らは人間以上の何かを持っている存在と考えて差し支えなかった。


 つまり彼ら働き蜂や女王蜂の存在自体が、あのアガルタ界の存亡そのものをも、そっくり担っているといっても、決して過言ではないのだ。今、目の前で、青白く薄い皮膚の下に通わせた血潮でやっと浅い呼吸をしながら、ここにそっと存在している、この小さな姫に、アガルタ地底界全体をも左右するほどの、それほどの重い重圧がのしかかっているなんて。


 それは想像を絶するほどの世界そのものの重圧。その小さな姫の心が、やっと細々と頼りにできた、働き蜂のダリアンとの信頼。それはただ護り護られるといった、簡単な何かではなかったのかもしれない。責任感が強く常に冷静沈着なダリアン。表向き、常に自身の心を押し殺しているようにも感じられる彼は、ただ女王蜂の姫を護るという、その己自身に課せられた責務を全うすることでしか、姫自身に、もしかしたら人知れず秘匿かくされた想いを伝える術が、他になかったのかもしれない。


「……誰が誰を好きになろうと、かまわない。私は、そう思う」

 ルカがそっと呟いた言葉に、ハッとする姫。


 どこまでも理不尽な世界。けれど、その世界そのものが、そんな二人の邪魔をしようなんてどうしてするの? 誰もが幸せになる権利がある。そう、誰もが。その言葉を、少しだけ開いた扉の向こうで、オズワルドがそっと聞いていたのも、ルカは全く気づかなかった。

           * * *


「恋……恋かぁ」

 またしても、マリー姐さんが半ば哀しげに上の空で呟く。ルカはもう以前ほど、このマリー姉さんを警戒視することはなくなっていた。まあ、それはティオも。あまり油断しすぎるのもどうかと思ったが。というか、今マリーはもうブルー・エトランゼどころではなくなっていたのだ。要するに恋煩い。マリーはあろうことか、あの船長に恋をしてしまっていた。


「ねぇ、お嬢ちゃん」

「ルカです」

「ああ、ごめん、ルカ。……あんたは、その、初恋とかってまだなのかい?」

 唐突にマリーにそんなことを問われ、ルカは赤面してしまう。ずっと互いに警戒し合い、どこか重苦しい空気の漂っていた少し前までは半ば考えられなかった、ふと二人きり交わしたルカとマリーの会話。


「ところで、あんた、何が目的であの蒸気船に乗ったんだい?」

 確かにあれは不慮の事故……というか、そもそもがオズワルドがすべて仕組んだことだったのだが。それでもルカが蒸気船に乗って父さんを探しに旅に出たいと思っていたのは事実だった。


「お父さんを……行方知れずの父を探したくて」

「ふぅん。大変なんだね、アンタも」


 じゃあ、初恋どころじゃないか……!そう言われて、もしかしたら、そうでもないかも? などと内心思ってしまっている自分がルカはちょっぴり恥ずかしくなってしまっていた。そう、私は父さんを。まだ見ぬ父さんと出会えるまでは、ルカはきっと恋どころではなかったのかもしれない。


 そうしているうち船長の拘束は、なぜか解かれた。そんな会話を二人がしていられたのも、それがあったからなのだが、特に心配の肩の荷が降りたマリーは、どうやったら、“あの方”に、あの時のお礼が言えるだろうかと、ずっと思案していたのだ。


 それはともかく船長につながれていた鎖がほどけたのは、一つの大きな理由があった。つまりそれは、またアガルタ界にて、ヴィンダリアを動かす命が再び彼に下ったということなのだ。船長自身は、もう養蜂家の命令など聞くつもりも毛頭なかったのだが、しかし、それは今回は少し勝手が違っていた。その命令を船長に下したのは、あろうことかオズワルドだったのだった。


 つまり、それが何を意味するかといえば、実はオズワルド自身が、アガルタの養蜂家と決して一枚岩ではないということだった。一時的に、謀反を犯し、ヴィンダリアごと奪取して逃走した罪で船長を拘束してはいたのだが……。


「気が変わった」と、オズワルドは笑った。

 というより、決めたのだ。再び、ルカたちを連れて、自分自身の故郷ふるさとアガルタへ戻ることを。


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ブルー・エトランゼ Blue Etranger みなもと瑠華@ミナモトルカ @lucam

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