第6話

「子供の頃から、ずっと華原さんが好きだったんだ……」


 京也は、中華料理店で大盛りチャーハンをき込みながらなげいていた。

 失恋の翌日、放課後に自棄食やけぐいで傷心をまぎらわせようとしているのだ。


 晴彦はそれに同伴し、隣席で麻婆茄子マーボーナスを食べつつ、話を聞いてはげましている。同じ少女に好意を寄せ、先に告白し、恋に破れた級友に対して、今はただなぐさめてやろうという気持ちしかない。

 もっとも一方で、最近読みはじめた『氷壁』では、友人の事故死と接した主人公をどんなふう

に描写していただろうか、などと愚にも付かないことを密かに考えていた。


「川之辺高校で再会して、やっと告白したってのによォ」


 将市の見立て通り、京也は小学生時代に北区に住んでいた時期があった。

 その時分に真雪と初めて知り合って、以来密かに片想いしていたという。

 しかし当時は告白を躊躇ちゅうちょしているうち、親の都合で西区へ引っ越してしまった。


 そうした背景があったせいで、真雪が失恋したという噂を聞き付けた際、京也の胸中でかつての恋慕れんぼが再燃したらしい。


 とはいえ、その他の成り行きは、晴彦がそばで見ていた展開そのままである。

 将市の推理は的外れで、晴彦と協力したことに裏の意図は何もなかったし、真雪と恋仲だった事実も存在しない。真雪と昔から面識があったことを隠していたのは、皆に今更打ち明けるのが気恥ずかしかったからだとか。


 だがとにかく、京也は覚悟を決めて告白した。

 すると真雪は、いつもの淡泊な調子で、それを断わった。


 ――私は今後も、誰ともお付き合いするつもりはないから。


 傷心につけ込もうとしていることを、真雪は見抜いている様子だったらしい。


 ただし「今後も」という表現で判明した事実がある。

 真雪に交際経験自体はなさそうだ、ということだ。




     〇  〇  〇




 七月下旬、夏期休暇を目前にひかえた放課後。


 晴彦は、古木野駅前の書店で、また真雪と遭遇そうぐうした。

 文学書籍が陳列された棚の前で、相変わらず文庫本を立ち読みしていた。

 表紙をちらりと覗くと、有島ありしま武郎たけおる女』という作者名と題名が読み取れる。

 ――たしか、心のおもむくままに生きた女性の数奇すうきな運命を描いた作品だったはずだ。

 と、晴彦はあらすじを思い出しながら、級友の隣で好みの小説を物色しはじめた。


 例によって、真雪が本のページに視線を落としたまま、話し掛けてくる。


「このあいだの本は、読み終えたの?」


「いいや。でももうすぐ夏休みだし、今日はその前にあと一冊買っておこうと思って来た」


「藤川くんも随分と読書家ね」


「華原さんほどじゃないと思うけど、本を読むのは習慣になっているからね」


「それは昔からなの?」


「身近に他にも本好きな人が居たせいか、いつ頃からか読書していないと落ち着かないんだ」


「……そう。身近な人の影響は、大きいかもしれないわね」


 益体やくたいのない会話を交わしたあと、この日は真雪が先に書棚の前を離れた。

 立ち読みしていた本を購入することに決めたようだ。

 背中をおおう長い黒髪をひるがえし、レジへ向かう。


 晴彦は「さようなら」と別れを告げたものの、ただ真雪を見送ることしかできなかった。


 だから結局、何もかもわからず仕舞じまいのままだ。

 噂が広まった前日、真雪は本当に失恋していたのかも……

 彼女ほど魅力的な少女を振った相手が実在したのかも。



 恋のは、夏の日が作る影の中に隠れたままだった。




     〇  〇  〇




 学校が夏期休暇に入ると、華原真雪の失恋について噂する人間は少なくなった。

 いまだに晴彦は心にわだかまりを抱えていたけれど、元々不確かな話に拘泥こうでいし続ける方が珍しいだろう。


 やがて八月初旬になり、晴彦には祖父の居宅を訪れる機会があった。

 母親から届け物の用事を言い付けられ、引き受けざるを得なかったせいだ。


「丁度お隣さんから頂いた西瓜すいかがあるんだ。晴彦も食べていきなさい」


 祖父は、孫を家に上げると、もらい物の西瓜を切るために台所へ立つ。


 用件を済ませ、晴彦は居間で座布団に腰を下ろす。

 所在なく屋内を見回しながら、西瓜が運ばれてくるのを待った。


 祖父の居宅には、どの部屋も書棚が置かれている。

 思い返せば、晴彦もここを幼少期から何度となく訪れ、本に触れる機会を得たものだ。

 ぼんやり見ているうち、白樺しらかば派を中心とする国内文学やロシア文学の書籍が目に留まった。

 晴彦は「トルストイを好んだ作家と言えば、誰だったかな」などと、ふと考えた。


 祖父は昔、中学校の国語教師だったらしい。

 そして定年退職後は、地域の図書館ボランティアに従事していた。

 資料展示活動などに参加し、いつも読書の魅力を多くの人に伝えたいと言っている。

 活字文化の将来を見据え、取り分け若年世代と触れ合う機会は大切にしているようだ。



 ――僕も駄目もとで、華原さんに告白すべきだろうか。


 本を眺めていたからか、片想いの少女のことが自然と想起された。

 おそらく好意を伝えたところで、京也と同じ結果になるのだろう。

 だが、いっそ自分自身も失恋してしまえば、少なくとも懊悩おうのうから解放されるのではないかと思った。


 晴彦は、いまや何もかもを過去きのうの思い出に変え、胸の中の鬱屈うっくつを消し去りたくなっている――……



 数分して、祖父が台所から戻ってきた。

 晴彦は、西瓜の乗った皿を受け取って、礼を言う。


「ありがとうジッチャン」


「なあ晴彦。ときどき注意しているが、その呼び方は止めてくれんか」


 祖父は、ちゃぶ台の前で胡坐を掻きながら、苦笑いした。

「ジッチャン」と呼ばれるのが、実は気に入らないらしい。晴彦は昔から習慣化しているのだが、「お祖父じいちゃん」という言葉を崩した呼ばれ方に抵抗があるそうだ。


「別にいいじゃない。僕はジッチャンっていうの、気に入っているんだけどな」


「おまえがそんなふうに呼ぶせいで、たまに近所の知り合いにまで妙な呼ばれ方をすることがあるんだ」


 今一度本人に許諾きょだくを求めたものの、拒否されてしまう。


 しかし呼び方を変更するとなると、晴彦の側にかえって羞恥心しゅうちしんが生じた。

 慣れ親しんだ行為を急に改めることには、居心地悪さがともなう。


 だから、晴彦はわざと少しはすにかまえて呼び直した。




「わかったよ、ショウ太郎たろうじいちゃん」






     <夏の日と恋の在り処・了>

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夏の日と恋の在り処 坂神京平 @sakagami

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