一夜のキリトリセン

PURIN

一夜のキリトリセン

 最初に見たのは、高1の時だった。


 父は、いや、私の父を名乗る人物は、何故か某大学に過剰な憧憬を抱いていた。

 それだけならそいつの自由だ。だが問題は、私にその大学に入るようにと強要してきたことだった。


 高校に入学した直後あたりから、奴は「勉強を教えてやる」と毎日毎日私の部屋にやって来た。

 学校がある日は帰宅直後から、一旦夕食をはさみ、22時頃まで。休みの日は早朝から深夜まで。

 赤本か何かからコピーしたらしい、到底私の学力では分かるはずもない問題を出題しては、間違える私を怒鳴った。まるで私の存在そのものを否定するかのような、ものすごい声だった。近隣から苦情は来なかったのだろうか。


 学校の成績も良い方ではない私に一体何の夢を見ていたのだろうか。そんなにその大学に憧れているのならば、自分が入れば良かっただろうに。あ、そうか。頭が悪くて入れなかったのか。


 今なら多少冷静にそう考えられるが、当時は頭が悪い自分に問題があるのだと考え、自己肯定感を低め続ける日々だった。




 夏休みのある夜、日本史の、いや、古文だったか。どちらだか忘れたが、とにかく私は何かの問題でとんでもない間違え方をした。

 奴はそれがよほど許せなかったらしい。まるで親でも殺されたかのように激怒された。奴の両親は当時健在だったのに。


 怖くて怖くて、俯いたまま涙が止まらなかった。奴はそれに気付いていたのかいなかったのか、怒りを鎮めることはなかった。

 涙で滲む視界に、ふと何かが見えた。

 私の右隣に座り、私を見下ろしている奴。その右頬に、小さな黒い長方形が並んでいた。

 頬に斜めについた傷のように、一直線に。適宜間隔を開けて並んだ長方形たち。

 そうか、これはキリトリセンだ。


 何かを考えるよりも先に、手が動いていた。

 利き手の人差し指を真っ直ぐに伸ばし、奴の頬のキリトリセンをつっ、となぞった。

 奴は一瞬、ものすごく驚いた顔をして…… けれど、すぐに目を閉じた。

 そうして、二度と動くことはなかった。




 多少疑われはしたけれど、奴の死は事件性がないものとして片付けられた。奴の頰のキリトリセンも、なぞった直後に消えていたし。

 稼ぎ手が一人消えたことで苦労はあったけれど、色々な人に助けてもらいながらまあなんとか無事に生き、自分の行きたい大学に入学することもできた。

 友人や恋人にも恵まれ、幸せなキャンパスライフを送っていた。

 

 泣いていたし、混乱もしていたから見間違いだったのかもしれない。

 けれどもしかしたらあれは、あの一夜だけ現れた、なぞることで人間の命を切り取れるキリトリセンだったのかもしれない。

 荒唐無稽だ。けれど、人間の死因など無数にある。だから、ああいうのがあってもおかしくないのかもしれない。そう思った。

 



 2回目は、つい先程だった。いや、もしかしたら随分前だったのかもしれない。まあ、いずれにしろ……




「別れてほしい」

 こんな夜中にホテルで散々ヤッた後にこういうことを言うのは薄情だと自覚していた。けれど、どうしてもそのタイミングで告げなければ、ズルズルと続いてしまうと分かっていた。


 まだ下着すら身に着けていない、真っ裸の恋人は、ベッドに正座したまま目を白黒させた。無言だったけれど、その双眸は「どうして? どうして?」とひたすらに理由を求めていた。

 私自身、きちんと言葉にできる理由がなかった。けれど何と言うか、「この人とは合わない」と思うことが多くなっていたのは事実だった。

 決して悪い人ではなく、むしろありえないくらい優しい。体の相性も悪くなく、むしろありえないくらい気持ちいい。

 けれど、会話している時、食事をしている時、買い物をしている時、行為の時も。

 何かが違う。何かがずれている。

 具体的には説明できない。けれど、その「違い」と「ずれ」に私が一方的に耐えられなくなってしまった。


 こんな身勝手な言い訳を、恋人はうなずきながら訊いてくれた。最後には深いため息とともに「分かったよ。じゃあ、さよなら。今までありがとう」という言葉を吐き出した。

 心底申し訳なく思う一方で、覚悟していたよりも容易に済んだのにホッとしている自分に呆れつつ、何度目になるか分からない謝罪と感謝を口にし、部屋の扉を開いて出ていこうとした、その時だった。


「待って!」

 反射的に振り向いた。いつの間にかすぐ真後ろにいた恋人の、いや、元恋人のぴんと伸ばされた人差し指が、私の顔のすぐ前に突き出されていた。

 正確には、私の右頬のすぐ前に。




 ああ、見えているのか。なぞったことがあるのか。


 ちらと元恋人の右頬を確認し…… 私も、元恋人の「それ」を指差した。


 察したのか、元恋人は息を呑み…… けれどすぐに私を睨めつける表情に戻った。




 あれからどれほど経ったのだろう。

 お互い無言で、相手の頬の「それ」を指し示したまま、微動だにせず立ち尽くしている。

 どちらかが動けば、もう一方も動くだろう。そうして、どちらか、あるいは2人共が、命を落とすことになるのだろう。

 けれど、どちらも動かない。ただじっと、銅像か何かのようにただじっと…… 互いを睨みながら……


 私は夜にしかキリトリセンを見たことがない。これが存在できるのは、夜の間だけなのだろうか。夜明けとともに消えるのだろうか。そうしたら、何事もなかったかのように元恋人と挨拶を交わし、何事もなかったかのように部屋を出ていけるのだろうか。


 けれど、消えない。小さな黒い長方形たちは、確かに相手の頬に存在している。きっと私の頬にも。

 体感ではかなりの時間が経過したはずなのに、夜明けはまだなのだろうか。それとも……

 恐ろしいことは考えず、身動ぎしないよう、自分に言い聞かせ続ける。


 きっと、夜は明ける。

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一夜のキリトリセン PURIN @PURIN1125

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