蟲の宿

文月(ふづき)詩織

蟲の宿

 幼い頃、叔母は私にこう言った。


「虫を殺したら、その虫と同じ死に方をするよ」


 それは子供にありがちな無意味な殺生せっしょういましめた言葉であったのだろうが、当時の私に与えた衝撃は大きかった。


 幼い私はすでに、少なからぬ数の虫を殺していたのである。


 大学で昆虫の生態を学んだ父母のもと、私と弟は様々な生き物に親しんで育った。


 昆虫採集はライフワークだった。集めた虫は針で胸を突き刺して、はねを板に固定して、綺麗な姿で標本箱に飾った。


 その日見た悪夢とともに、叔母の言葉は今でも鮮烈に、私の記憶に焼き付いている。


               *


 小学五年生の夏。


 私は家族でY県へと旅行に行った。オオムラサキを採集するのが目的だった。


 オオムラサキ。言わずと知れた、日本の国蝶である。鮮やかな紫と黒のコントラストに白と黄の斑紋を散らした美しい翅を持つ。


 自然相手のことだから、うまくいくとは限らない。夕方まで探してオオムラサキの姿を垣間見かいまみたものの、補虫網ほちゅうもうは空を切った。結局、私たちはオオムラサキを捕獲できなかった。


 遠くY県まで足を伸ばしておきながら、なんの成果もなく帰るのはいかにも残念なことに思われた。


 私たちは、予定外に一泊していくことになった。


 スマートフォンの普及する前のことである。いったいどうやって親がその宿を探し出したものか、今となっては知りようもない。また、その宿がどこにあった、なんという宿なのかも解らない。


 親の運転する車に乗り、幾重いくえにもカーブを描く山道を走った。道中、腐ったバナナを詰めたストッキングを木に吊るした。昆虫をおびき寄せるための罠である。父考案のこの罠は残念ながら未だかつて狙い通りに機能したことがないが、それでも父はしつこく同じ罠を仕掛け、家族はそれに付き合った。


 罠を設置するうちに太陽は山陰に身を隠していた。迫る宵闇に追われるようにして、私たちを乗せた車はカーブをなぞる。そして闇の中にぼんやり浮かぶ、古ぼけた宿に辿り着いた。


 日の落ちた山の中、砂利で舗装ほそうされた駐車スペースがぼんやりとしたあかりに照らされていた。光に集まった虫の羽音が、空間の無音をかき乱していた。何かにぶつかった甲虫こうちゅうが砂利の上に落ちて、六本の足をぎこちなく揺らした。


 仄暗ほのぐらい光の中に、二つの大きなおりが並んでいた。暗がりで、何か大きなものがうごめいている。


 手前の檻の中にツキノワグマを見つけて、私は息を呑んだ。隣の檻には数匹のシカが、ピンと耳を立てて、不審そうに私たちを見つめている。


 檻のそばの小屋では、シベリアン・ハスキーがシカと同じ表情をしていた。


 タイル張りの階段と、手押し式の入り口が、薄く輝く世界に浮かび上がっていた。光の届かない場所は闇に溶けてうかがえない。何かただならぬ気配を発している宿だった。


 両親がチェックインの手続きをする間、小さなロビーに並べられた古びたソファに腰掛けて、私は外をながめていた。外に向けて張り出した窓には、乾いた土がこびりついていた。灯りに惹き寄せられた蛾が、ガラスの表面を往来していた。



               *



 小さな和室に荷物を置くと、私たちは補虫網を持って夜の探索に出かけた。


 夜の昆虫採集。灯りを巡って光に惹き寄せられた虫を捕まえ、昼間に仕掛けた罠を見回る。我が家の旅行では恒例行事だった。


 一歩外に出た途端、私は青白く輝くものが浮遊するのを目にした。


 オオミズアオ。透き通るような青い翅をした、大きな蛾である。冷たく澄んだ闇の中で柔らかな光を反射してゆったりと飛ぶ姿は美しく、同時に不気味だった。


 それはまるで人魂のようだった。


 私は突然怖くなった。


 光の届かない山の中で、木々がざわざわとそよいだ。囚われのツキノワグマの息遣いが空気を生臭く湿らせ、不安感を膨れ上がらせる。


 この山のどこかに、これと同じ生き物がんでいる。こずえの奥、枝葉えだはの間、闇の底から、得体の知れない獣がこちらを見つめる気配が立ち昇る。


 結局、ぐずりだした私を母と共に宿に残して、父と弟が夜の昆虫採集に出かけて行った。黒に塗り潰された世界へ踏み込んでゆく二人を見送って、私はえも言われぬ不安を覚えた。


 二度と二人に会えないのではないか。


 私は父と弟を見捨ててしまったのではないか。


 夜の森に溶ける獣の息遣いを間近に感じて振り返ると、ツキノワグマのつぶらな瞳に浮かぶ丸い月の中に、幼い弟の驚いた顔が浮かんでいる――。想像の翼が夜の森に羽ばたくと、いっそうの恐怖に襲われた。

             

 泥と汗を恐怖心とともに洗い流して、さっぱりと眠りたい。眠ってしまえば、起きた時には二人は傍にいるだろう。母に連れられて、私は浴場へと向かった。


 浴場には湯煙が満ちていた。床と壁はタイル張りで、曇り硝子の小さな窓を透かしてヤモリの腹が見えていた。


 ヒノキの風呂にはたっぷりの湯が揺らいでいた。その揺らぎに合わせて、大きなアシダカグモが漂っていた。


 アメンボのように湯の上に立ち、熱に侵されて、すでに命は消えている。食事の途中だったのか、あご隙間すきまからはテントウムシの死骸がのぞいていた。虚ろににごった黄と黒のコントラストが湯気に滲む。


 こんなお風呂に入りたくない。私がぐずると、母は死骸を洗面器ですくって曇りガラスの外側へと放り出した。ヤモリが慌てたように逃げ去って行った。もう大丈夫、と母は言った。その言葉は私の不安を軽くするものではなかった。


 シャワーを浴びる。泥や汗は流れても、そこはかとない不安は落ちない。裸になって目を閉じると、剥き出しで無防備な状況が恐怖を助長した。


 タイルの隙間から虫が這い出してきて、足にびっしりとまといつく様子がまぶたの裏側の闇に浮かび上がる。私は知らず知らずのうちにつま先立ちになっていた。


 泡立つタオルの間を滑る指が、異物感を覚えた。不思議に思って手を見ると、肌を覆う泡の合間にクモの死骸が浮いていた。


 結局私は湯に浸からなかった。


 やがて父と弟は帰って来た。トラップが丸ごと消えていたという。虫がトラップを運び去るはずもない。何かがいたのだ。危険を感じて、二人は帰って来たらしい。


 山を蠢く獣の影が濃くなった。



               *



 窓の外に広がる夜は、蛾の大群に埋め尽くされていた。蛾の壁の向こう、山の闇に、得体の知れない何かが息づいている。息づかいは蛾の群れを超えて窓を透過し、室内に満ちる。


 室内の僅かな陰翳いんえいに、巨大なアシダカグモの姿がちらついた。虚像ばかりではない。幾度いくどかは実体も伴った。本物のアシダカグモが表れるたび、疑心と不安が結ぶ虚像は実物に近付いた。


 肉々しい薄茶の体の毛はうすい。むちむちした長い八本のあしを放射状に広げ、頭を下にして壁に張り付いている。


 どこを見ているのか分からないビーズのような八つの目で何かを見つけると、突如静をかなぐり捨てて、爆発的な動へと移る。その残影ざんえいが私を怯えさせた。


 靴棚の奥、机の裏、ドアの向こう、窓の外。底知れない場所はすぐ身近にあって、得体の知れないものが蠢いている。それはふとした瞬間にこちらに手を伸ばし、私を引きずりこむのだろう。


 どこから入り込んだのか、部屋の中にはたくさんの蛾が飛んでいた。夏の虫たちはちらちらと羽ばたいて、ふとした瞬間に天井に設置された誘蛾灯ゆうがとうへと吸い込まれ、無残に零れ落ちる。


 虫のしかばねが雪のように降る部屋で、私は布団に潜り込んだ。布団の中で待ち構えているアシダカグモの幻想を打ち砕いてしまうと、布団はよろいのように堅固に体を包んだ。



               *



 窓から光が差し込む頃には、蛾の群れは姿を消していた。


 山は朝露あさつゆに濡れていて、日に照らされてキラキラと輝いた。


 昨夜の陰鬱いんうつな静寂は嘘のように飛び去って、鳥が美しくさえずっていた。


 宿の女将は親切でさわやかな人だった。クマは檻の中で微睡んで、シベリアン・ハスキーはフレンドリーに尾を振っている。


 飛び去り損ねた数匹の蛾が、翅を広げて建物にとまっていた。夜に怪しく光って見えた翅は、建物に溶け込むような、地味な色だった。オオミズアオは三角缶の中で弱々しく翅を動かしている。


 冷たく澄んだ山の空気は緑の匂いに満ちていた。恐怖と共に忍び寄って来た昨日の夜が嘘だったように……。


 振り返ると、闇に溶けて異様な雰囲気を放っていた宿は、古びてはいるが洒落しゃれた建物だった。


 私は踵を返して車に乗った。濃密で温かい車の空気に包まれると、妙に安心した心地になった。バタン、と音を立てて車のドアが閉まった。


 結局、オオムラサキを捕獲することはできなかった。


 オオムラサキを追った旅の末、私と弟はクモへの恐怖心を獲得した。



               *



 あれからも私は多くの虫を殺した。


 昆虫標本にするために殺し、自衛のために殺し、ペットに餌として与えた。ただ存在が不快であるという理由で殺したこともある。


 地獄というものがあるなら、私はきっとそこに行くだろう。


 その時救いの糸が落ちて来たとしても私は決してつかまない。


 糸の先には、アレがいる。

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