【解説】バッドエンドとしての情熱乃風R。

 京都アニメーション放火事件は、2019年(令和元年)7月18日に京都府京都市伏見区で発生しました。

 京都アニメーション第1スタジオに男が侵入してガソリンを撒いて放火したことにより、京都アニメーションの関係者に多数の死傷者が発生した。

 7月27日21時時点で死者は35人に上り、警察庁によれば「放火事件としては平成期以降最多の死者数」となりました。


 ウィキペディアに以下のようにまとめられていたので、引用させていただきました(少し文章はいじりました)。

 今回の事件を受けて多くの方が、コメントをしています。その中で、評論家で思想家の東浩紀が次のようなことをツイッターで呟いていました。


 ――ぼくにとって、京アニは、らきすたでもハルヒでもなく、まずはAIRとCLANNADのスタジオなんだよね。美少女ゲームが作り出した、あの独特の幸せな日常感を映像化するのがとてもうまいスタジオだった。そこが焼かれるとは。たいへん悲しい。


 今回、僕は倉木さとしの「情熱乃風」について書きたいと思っています。

 しかし、まずは京都アニメーションから入りたいと考えました。正確には、京都アニメーションは「美少女ゲームが作り出した、あの独特の幸せな日常感」から始めたいと考えています。


 倉木さとしは僕がエッセイやプロフィールでも度々名前を出している友人です。

 そして今回、彼の作品をカクヨムの場で発表するに当たって、僕は倉木さとし論のようなものを書きたいと思いました。

 倉木さとし本人にお伺いを立てたところ、許可をもらったので今回キーボードを叩かせていただいています。

 お付き合い頂ければ幸いです。


 東浩紀が京都アニメーションを思い返す時、まず美少女ゲームである「AIR」や「CLANNAD」が浮かぶと書くように、僕も倉木さとしの作品を思い返す時、浮かぶのは「とある美少女ゲーム」でした。


 その美少女ゲームのタイトルはひとまず控えますが、東浩紀は美少女ゲームに関して「あの独特の幸せな日常感」と表現しました。

 一つの面としてそれは確かに存在するのですが、その裏で美少女ゲームは「独特の不幸な日常感」を描くコンテンツでもありました。


 無慈悲に人を突き放すような過剰で残酷な日々や終わりを美少女ゲームは幸せな日常感の裏で描きます。


 それはゲームという媒体であるが故に仕方がないものでもあります。

 いわゆる、バッドエンド、ゲームオーバーは美少女ゲームには欠かせない要素の一つでした(ないゲームも最近はありますが)。


 情熱乃風を読んだ方は分かると思うのですが、倉木さとしはどこかトゥルーエンドよりも、バッドエンドやゲームオーバーの物語に興味を傾けています。

 そこには「イリヤの空、UFOの夏」で秋山瑞人が書いた「いったい誰が幸せなら“ハッピー”エンドなのか……」という問いに近いものがあるように僕は感じます。


 誰が幸せなら“ハッピー”エンドなのか。

 あるいは、物語はどこまで行けば「エンド」なのか。


 今回は美少女ゲーム(選択肢を選んで幸福なエンドを目指す)のルールに沿って、「情熱乃風」について考えてみたいと思います。

 主人公は、川島疾風。

 二十七歳。

 以前は情熱乃風なる走り屋で名の知られた人物です。

 そんな彼は恋人である中谷優子と結婚を考え、現在のガソリンスタンドの仕事を辞め、新しい仕事を探す為に就職活動の真っ最中です。


 疾風は優子を恩人と呼びます。

 理由は次のようなものでした。


『いつ事故ってもおかしくなかった僕に、優子はブレーキを踏むことを教えてくれた恩人だからな。』


「情熱乃風」の川島疾風はブレーキを踏むことを知りました。

 それは以前のブレーキを踏まず、いつ事故ってもおかしくなかった頃の疾風とは異なります。

 彼の変化は、一つの結果を導きます。

 それが冒頭の一文です。


『ヤクザの息子を車ではねた。』


 もちろん、ブレーキを踏むことを知らなかった頃でも、川島疾風は同様の事故を起こしたかも知れません。

 この時点では、「ブレーキを踏むと知ったことがヤクザの息子を車ではねた理由」とは言い切れない部分があります。

 しかし、以前とは確実に異なっている部分もあります。


 ヤクザの息子が警察を呼ぶのに、否定的な発言を繰り返す中、疾風は関係なく警察を呼ぼうとします。

 そんな彼が躊躇した理由は恋人の弟、中谷勇次から連絡があり、その場に来るとなったからでした。


 勇次がヤクザの息子を前にすれば確実に喧嘩を売って勝ち、その上で現れた警察さえも蹴散らすかも知れない。

 その想像が、川島疾風の判断を鈍らせ、ヤクザの仲間と勇次の登場を許してしまいます。

 本文に次のような一文もあります。


『どっちつかずの半端な優しさが、疾風から選択権を奪う。』


 これを美少女ゲームに当てはめてみましょう。

 選択をするからこそ誰かが幸せになる“ハッピー”エンドへと進むことができる、それが美少女ゲームのたった一つのルールです。


 それを川島疾風は『半端な優しさ』から失ってしまいました。

 結果は、本編を読む人には明らかです。


 川島疾風は敗れ「情熱乃風」という物語はバッドエンドとなります。

 注意深く読めば分かりますが、川島疾風は常に何かを選択したように考えながら、その次には以前の考えを否定する行動を起こします。


 こと「情熱乃風」に終始すれば疾風の思考は不安定で、自らの姿勢をしっかりと定めれていないように読めます。

 何故、二十七歳の青年が此処までの混乱の最中に放り出されたのか。

 原因の幾つは本編で示されています。


 まず、疾風は恋人である優子と知り合い、ブレーキを踏むことを知りました。

 過去の自分と今の自分に明確な区切りを疾風は一度つけているのです。


 その上で、恋人との新しい未来の為に就職活動をはじめます。

「情熱乃風」の疾風は人生の移行期間に差し掛かっています。

 自由奔放に「誰よりも速く車を走らせたい」という夢を諦め、どこか無防備に恋人との将来の為に疾風は行動しています。

 言い方を変えれば、疾風は過去の自分を拒否する立場にいます。

 おそらく、それが彼の中の最も深い混乱の根源でしょう。


 夢を諦めたくない。


 疾風はその気持ちをどうにか丸め込んで、優子との未来を考えたい。

 しかし、それ故に疾風は何も選べない立場まで追い込まれ、最後には自らが何に敗北したのかさえ理解できません。

 そんな疾風が最後に一つの真実を知ります。


『UMAは存在している』


 それは夢を諦めようとした疾風ではなく、常に自分を貫き続ける少年、中谷勇次にとって希望の言葉となります。


 ――勇次、お前は夢を叶えるにあたって、恵まれた環境にいるみたいだ。だから、さっさとUMAを捕まえろ。

 どんな夢を追うにしろ、なかなか叶わないと、ろくなことにならないからな。

 人生の途中で夢を諦めるのはつらい。その夢を叶えるにあたって、代償にしてきた時間や友や女や家族がいるのならば、なおさらだ。

 だが、多くの人の一生というものは夢を諦めてからはじまるものだ。


 死の淵で、疾風は中谷勇次にエールを送ります。

 この独白に対し、適切な一文が村上春樹の短編小説にあったので、そちらを引用したいと思います。


 ――夢が死ぬというのは、ある意味では実際の生命が死を迎えるよりも、もっと悲しいことなのかも知れない。


  村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ」より。


 実際の生命が死を迎えるよりも、悲しいことが中谷勇次には起こりませんように、まるでそう願うように情熱乃風は終わります。


 誰が幸せなら“ハッピー”エンドなのか。

 あるいは誰が不幸なら“バッド”エンドなのか。


 僕は安易にこの物語をバッドエンドだと書きましたが、

『夢という呪いにかかったままだったとしても、幸せな人生だったと思う。』

 と疾風は優子との出会いを肯定しています。


 川島疾風は不幸でないのなら、この物語はバッドエンドではないのかも知れません。

 しかし、川島疾風が抜けた穴は新たな不幸が流れ込んできます。

 それこそが「情熱乃風R」が全ての始まりの物語である所以です。


「情熱乃風R」は大きな物語の途上にあります。

 それが誰の為の物語なのかは分かりませんが、川島疾風の席は空き、彼が残したバトンは散り散りとなって世界にばら撒かれました。

 誰がそれを持ち、意味や価値を見出すのか。


 僕もまた、それを探している最中です。


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情熱乃風R 郷倉四季 @satokura05

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