終章
黄昏がビル街を覆っているが、喧噪は高まりつつあった。平日ということもあり、夕方のラッシュが始まるのだ。
もっとも、ビル街から外れたこの一角は、日没とともに静寂を迎えていた。すでに闇に落ちている歩道は、街灯の明かりのみが頼りである。
公園の出入り口に六人の制服姿があった。男子高校生だ。全員が談笑しながら煙草を吸っている。この暗さでは、煙草の火はおのずと目立ってしまう。
「制服で堂々と吹かしてんじゃねーぞ」
面倒とは思ったが、看過するわけにもいかなかった。否、大人の自分が苦労して禁煙しているのに、という腹いせのほうが大きい。
「なんだよ、おっさん」
「うざい……つうかばか?」
「おっさん、ホームレスじゃね? おれらを誰だと思ってんの?」
少年たちは次々に暴言を吐いた。彼らの足元に、火のついた人数ぶんの煙草が落ちる。
「誰だと思っているってか? ノータリンなお子ちゃまたち、だろう?」
立ち止まって首を傾げると、あっという間に全員に囲まれてしまった。
「んだとこらあ! 無事に通れると思ってんのか!」
ピアスをした少年が粋がった。
「無事に通してもらわないと、困るんだよなあ」
本当に面倒だった。できれば、問答無用で全員を殴り倒したい。
「おっさん、ふざけんじゃねーよ」
別の少年が、左手で胸ぐらをつかんできた。
「この手……何?」
少年の手を払うこともせず、穏やかに問う。
「ぶっ飛ばす、つってんの」
言うなり、少年は右手で殴りかかってきた。
右に上半身を傾けてそれを躱し、少年の右腕を、左手でひねり上げた。
「いてててて」
悶える少年を突き放すと、ほかの少年たちが身構えた。
「おっさんは今、公務でこの先に行かなきゃならないの。な、わかる? 兄ちゃんたちは公務執行妨害をしているわけ」
と告げた小野田は、トレンチコートの下――スーツの内ポケットから取り出した警察手帳を提示した。
「サツかよ」
一番端に立っていた小太りの少年が、ぼそりとつぶやいた。
「そう、サツだよ。じゃあ、公務執行妨害で、全員、逮捕する」
小野田が無表情で伝えると、少年たちがざわめき始めた。
「てなことはしないよ。その代わりと言っちゃあなんだが、吸い殻を全部拾って、さっさとおうちに帰ってくれないかなあ」
そんなおどけた調子の小野田を横目で見ながらおとなしく吸い殻を拾った少年たちは、黙然として公園を離れていった。
「まったく、少年課は何をやっているんだか」
警察手帳をスーツの内ポケットに戻して進んでいくと、街灯に照らされたベンチに、小野田のものと似たようなコートを羽織った堀口が、一人で座っていた。
「待たせたな」と小野田が声をかけるなり、堀口は立ち上がった。
「小野田さん、すいませんね。お忙しいのに足を運んでもらって。しかも、不良少年たちに囲まれてしまったみたいだし」
「やっぱり見ていたよな。参ったね」
これではただの見世物だろう。
「さすがですね、格好よかったですよ。ぼくだったら、小野田さんみたいにはいかないかな。まあ、尻尾を巻いて逃げ出していましたね」
「お世辞はいいよ。警察手帳に頼っただけだ。それにしても、こんな物騒なところを待ち合わせ場所に選ぶものだ。堀口さんは、意外に度胸があるな」
かなり暗くなった公園内を見渡しながら、小野田は言った。
「度胸なんて微塵もないですけど、ぼくも忙しいんで……すぐに職場に戻らなくちゃいけないんです。ここ、職場に近くてわかりやすいし。そういえば……佐々木さんに連絡しようとしたんですがね、体調を崩して入院中とかで」
堀口は言うと、ビジネスバッグからスマートフォンを取り出した。
「ああ……佐々木さんね。あの人、内臓が弱かったしな。それはいいとして、情報ってなんだい? 堀口さんも仕事があるし、さっさと済ませたほうがいいだろう?」
話題を逸らす意味もあり、小野田は促した。
「そうなんです。あと十五分で戻らないと、上司に怒鳴られるんです。警察も大変でしょうけど、会社員も楽ではありませんよ」
街灯の下で、堀口はスマートフォンを操作しながら愚痴をこぼした。
「別に、会社員を楽な仕事だと言うつもりはないけど」
「本当ですかね? あ……ほら、これですよ」
堀口に渡されたスマートフォンを、小野田は覗き込む。
「お、おい、これって――」
インターネットオークションの画像だった。商品名は「銅製の手鏡・イグの嫡子なるものの鏡」となっているが、事件の発端となった照魔鏡と似通っている。
「よく見てください」
言われるままに小野田は目を凝らした。蛇の群れのような彫刻を認める。
「照魔鏡じゃねーかよ」
愕然とした小野田は、その画像から目を離せなかった。
「それだけじゃないんです」
スマートフォンを受け取った堀口は、画面を操作し、それを小野田に向けた。出品者のコメントが表示されている。
「なんだって?」小野田はそれを読み始めた。「あー、中国製の銅鏡ですが、鏡面は曇りがなく、手鏡としても十分に使用できます。……まだ落札されていないみたいだけど、現時点では四万五千円……というか、安すぎじゃねーか」
「安すぎ?」
懐疑の視線が小野田を射抜いた。
「あ、いや……堀口さんたちが子供の頃につけた値段よりも、安い、っていうことさ」
二千三百年前の代物であるなど、伝えるわけにはいかなかった。刑事にとって、情報は提供してもらうものであり、提供するものではない。
「そうじゃなくて、ここを読んでくださいよ」
じれったそうに画面を拡大しながら、堀口は小野田を捲くし立てた。
「なんだよ……えーと、鏡面の隅に小さな傷あり……って、おい!」
小野田は目を剝いた。
さらなる懐疑の目で、堀口が小野田を見る。
「警察に預けたものが、流出したんじゃないんですか?」
「ばかを言うな。あれはおれが破壊し――」
「破壊したんですか?」
「破壊……したんじゃなくて、短気なおれが破壊しないように、ちゃんと保管してあるんだよ」
「なんだか怪しいですよ。本当に、ちゃんと保管してあるんですか? 流失もしていなければ、壊れてもいないんですよね? 詭弁はよしてくださいよ」
堀口の目が一層鋭くなった。
「ちゃんと保管してある、って言っているだろう。警察を信用しろ。それはいいとして、誰がこんなものを出品しているんだ?」
コートを羽織るほどの気温なのに、汗が噴き出そうになった。
「広島県の人らしいですが、IDしかわかりませんね。野島さんみたいに、土産として買っただけのものかもしれませんよ」
堀口が答えると、小野田は舌打ちした。
「これだからネットは怖いんだ。まあ、出どころは簡単に突き止められると思うが、落札されないうちのほうがいいな」
「警察から流失したものでないのなら、同じようなものが最低でも二つは存在することになりますね。……サイトはわかりましたよね? あとは警察に任せますよ。幻覚でみんなが大混乱になったら大変ですもんね。じゃあ……これでぼくの役目は終わり、と」
スマートフォンをビジネスバッグに戻し、堀口は安堵の表情を浮かべた。
「幻覚、っていうか……」
小野田は口ごもった。「守秘義務」という言葉が脳裏を駆け巡る。
「小野田さんが言ったんですよ」堀口は眉を寄せた。「科捜研で調べて、幻覚を引き起こす物質が照魔鏡の内部に見つかった……って」
「ああ、そうさ。問題があったのは照魔鏡だけだよ。通達してあるとおり、衣類や所持品からは、幻覚を引き起こす物質は検出されなかった。すべて返却したが、使用してまずいものはない。……とにかく、貴重な情報をありがとう。あとは警察に任せておけ」
精一杯の虚栄を張るが、堀口は納得のいかない様子で首を傾げる。
「まあ、任せますが……とにかく、ぼくは職場に戻りますね」
そう言って歩きかけた堀口が、ふと、足を止めて振り向いた。
「愛里……いや、宮下さんが、小野田さんと佐々木さんによろしく伝えてほしい、とのことです」
「宮下さんが? そうかい、わかったよ。佐々木さんにも伝えておくよ。……って、あんたら、付き合っているのか?」
「ご想像にお任せします」
にやけた面貌は、否定していない証しだ。
小野田は疑惑を覚えた。
「堀口さんよ」
「はい」
空気を察したらしく、堀口は真顔になった。
小野田は目を逸らさずに問う。
「堀口さんは、野島流海と付き合い始めたのは復讐のためだった、と言っていたが、まさか、今回もそうなんじゃないんだろうな?」
「復讐するために宮下愛里と付き合っている、と?」
落ち着いた表情で、堀口は問い返した。
小野田は告げる。
「考えてみれば、中学生時代に仕掛けておいた小細工が……つまり、坂田茂雄さんと柿沼大輔とを仲違いさせようとした企てが、今になって功を奏したわけだ。堀口さんをつらい目に遭わせた人間が三人も死んでしまった」
「おっしゃるとおり、中学生の頃は復讐のために策を練りましたよ。でも、仲間割れを狙っただけです。こんな結果を中学生の時点で案出できるわけがない」
答えた堀口が、肩をすくめた。
「中学生の時点でそこまで考えなくても、復讐心を引きずったまま社会人になれば、恐ろしい犯罪を思いつくことだってあるだろうよ。……そういえば、堀口さんはこんなことも言っていたよね。照魔鏡を巡るやり取りが柿沼の精神を惑わすきっかけになったかもしれない、と」
小野田は言うと、冷笑を浮かべた。
身じろぎもせず、堀口が問う。
「何が言いたいんです?」
「照魔鏡を巡っては、坂田茂雄さんと野島流海との間でのやり取りがあったはずだが、そこで堀口さんが復讐のために何かを口添えしたのかもしれない。もっとも、今となっては堀口さん以外の証人はいないし、仮に堀口さんが何かを口添えしたとしても、なんの罪にも問われないだろうな。堀口さんが柿沼と共謀していないのだって、わかるよ。だが、柿沼が野島流海に接触を図る事態は、予測できたはずだ」
「予測できたから、毎晩、流海と一緒にいたんですよ」
「彼女のマンションでね。……柿沼は照魔鏡が堀口さんの実家にあるなんて知らなかったはずだ。照魔鏡を買い取った野島流海が狙われるのは当然だろう。だったら、野島流海は堀口さんのアパートで一緒にいたほうが安全だった、と思うけど」
「ぼくは流海が殺害されることを期待していた……そう言いたいんですね?」
街灯に照らされた堀口は、まるで死に神のように見えた。
「それに」小野田は余勢で付け加えた。「堀口さんは野島流海との最後の電話で、彼女を自殺に追い込む発言をしていたのかもしれない」
「あのときの流海は、精神的に弱っていましたしね。小野田さんがそう推測するのも無理はないでしょう」
「だが、それだって、堀口さん以外の証人がいない。柿沼が野島流海に接触を図った件にしても、堀口さんが伏線を用意していた、とは断定しないさ。現場となったマンションはセキュリティが高い。外出などしない限り安全だ。堀口さんのアパートに野島流海を匿ったとしても、そこに柿沼は来ていたかもしれないしな」
立件できる可能性も低いが、立件に導くつもりさえない。いつもの憂さ晴らしである。
「それもありますが、やむをえない事情もあったんです。どうしてぼくのアパートではなく流海のマンションだったのかは、宮下愛里に訊いてみるといいですよ」
不敵な笑みを湛えながら、堀口は告げた。
「宮下さんに訊け、っていうことは絶対にシロだよな。面倒だし、別に訊かなくたっていいさ。おおかた、野島流海お嬢様の性格からして、狭くて汚い部屋には泊まりたくなかった……そんな所見だ」
負けじと推測を伝えると、堀口の笑みがわずかに歪んだ。
「狭いというのは的を射ていますが、汚いは余計ですよ」
「まあ、それはいいとして」小野田は話を進めた。「未だに復讐心を捨てられないでいるとすれば、堀口さんの新しい彼女……宮下さんの命も危険に晒されるかもしれない。それは、警察としては見過ごせないね。何しろ堀口さん、あんたはこうも言ったんだよ。宮下さんを特に恨んでいた、ってね」
「だから、宮下愛里にとっては心の傷となってしまったもので、いつも復讐しているんですよ」
「復讐している……どういうことだ?」
小野田は堀口を睨んだ。場合によっては職場に戻すわけにはいかなくなるかもしれない。
「左肘の火傷の痕ですよ。いつもこれを宮下愛里に見せているんです」
堀口が右手で左肘をさすりながら答えた。
「犯罪ではないが、あんた、最低だな」
呆れてしまった。憤りさえ覚える。先ほどの少年たちを殴るなら、この男を殴ったほうが爽快感はあるだろう。
「でもね、愛里は悲しむどころか、喜ぶんですよ。恍惚とした表情でね」
「喜ぶ? 恍惚?」
「復讐しているのに、納得できませんよね。毎晩毎晩、この火傷の痕を見せているんですよ、ベッドの上で。……じゃあ、そろそろ職場に戻らないと。本当にヤバいな」
堀口は腕時計を見ると、背中を向けて歩き出した。
思わず追いかけそうになるが、小野田はこらえる。しかし、喉まで込み上げた怒りを止めることはできなかった。
「おいこら、のろけるのもいい加減にしろよ。おれは忙しいのに時間を割いてここに来たんだぞ。公務執行妨害で――」
「ぼくを逮捕する前に、ネットオークションに出品されている手鏡を調べたほうがいいですよ」
振り向きもせずに告げた堀口は、片手を挙げて立ち去った。
「とらえどころのない男だ」
ベンチに腰を下ろし、小野田はつぶやいた。堀口と話していると疑心暗鬼に陥ってしまいそうだ。阿部を相手にするより神経に障る。
とはいえ、提供された情報が深刻な事態を意味しているには違いない。堀口の態度に惑わされている場合ではないだろう。
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、インターネットに繫いだ。滅多にやらない検索に戸惑いながらも、なんとか例の手鏡に辿り着く。画像を拡大すると、コメントに記されていたとおり、鏡面の端に小さな傷らしきものが見えた。ただし、鏡面の下部ではなく、鏡面の上部である。警察で預かっていた銅鏡とは別個の品であることは、一目瞭然だ。
「あいつがこの傷の位置を知らないわけがない。くそ、ばかにしやがって」
と吐くが、オークションに出品されている手鏡も問題の照魔鏡と同型であるのは、ほぼ間違いない。魔力を有している可能性は否めないだろう。
「参ったな」
いくつもの照魔鏡が出回り、各地で同様の事件が起これば、幻覚では済まされなくなるはずだ。
「早いうちになんとかしなくちゃな。だが……」
何をどうすればよいのか、今の小野田にわかるはずがなかった。もっとも、阿部はおろか、堀口にさえ、相談するつもりは毛頭ない。佐々木の後任となった警部補には今回の事件の真相はまだ伝えられておらず、当分は小野田が一人で悩まなければならないだろう。
不意に、青臭いにおいが鼻腔に入り込んだ。
スマートフォンを持つ左手が、小さく震える。
手鏡の画像を見つめる小野田は、嗄れた囁きを耳元で聞いた――ような気がした。
鏡像の記憶 岬士郎 @sironoji
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