第九章

 警視庁六階の大部屋、捜査一課では、今日も大勢の刑事たちがおのおのの職務に追われていた。

 そのまっただ中の殺人犯捜査第五係に戻ってきた小野田は、自分の席に着くなり、大きく反り返った。それでも気分が晴れず、姿勢を正して自分のパソコンを見つめる。

「あの野郎、やっと吐いたよ。まったく、三日も粘りやがって」

 小野田が怨嗟すると、隣の席でパソコンを操作していた阿部紀之のりゆき巡査が手を休めた。

「例の、連続通り魔殺人事件の被疑者ですか?」

「そう。おまえと同じ二十五歳の男だよ」

 小野田は横目で阿部を睨みながら言った。

「おれ、関係ないでしょうよ」

 頬を膨らませる阿部を、小野田は横目で睨み続ける。

「背格好といい、声といい、おまえとそっくりなんだよ。中肉中背だし」

 憂さ晴らしだった。自分ばかりが損な役回りを背負わされている――と悲嘆したい気持ちを抑えきれなかったのだ。

「中肉中背なら、その辺にたくさんいますよ。小野田さんだってそうだし」

 そんな反論を無視して、小野田は続ける。

「しかもよ、区役所の職員ときたぜ。おまえとおんなじ、公僕だ」

「関係ないですってば。小野田さんだって公僕でしょうに」

「おかげで昼飯を食い損ねちまった」

「それも、おれのせいじゃありません」

 阿部はため息をつくと、パソコンの操作を再開した。

 同じようにため息をついた小野田も、自分のパソコンを立ち上げる、が――。

「おい、阿部」

 小野田は手を止めて阿部に声をかけた。

「はい」

 キーボードを叩きながら、阿部は応答した。彼の視線はパソコンの画面に固定されている。

「今、誰の書類を作っているんだ?」

「と訊くということは、佐々木さんの書類だ、って知っている証拠です」

 小野田を見もせず、阿部は答えた。

「代書自体は違法じゃないが、たまには本人にやらせろよ」

「無理でしょうね。佐々木さんはパソコンのパの字も知らないんですよ」

 阿部が言うまでもない。捜査一課では周知の事実だ。

「そうやっておまえを外に出さないのが、佐々木さんの悪いところだ」

「本人の前で言ってください」

「言えるか」

「小野田さんだって書類の作成をおれに頼んだんですよ」

 事実だが、小野田には言い分があった。

「おれだって外に出っぱなしだったんだ。佐々木さんとずっと一緒……つまり、状況は佐々木さんと同じわけだ。実際に、デスクワークの時間なんてなかったぞ」

「まあ、そうですよね。でも今回は、小野田さんのぶんまでは手が回りません」

 阿部の横顔が、小さく頷いた。

 諦めるのが得策だ、と知りつつも、小野田はやるせなかった。佐々木に翻弄される状況が、まだしばらくは続くだろう。あの老獪が定年を迎えるのは一年半後だ。

「しょうがねーか。愚痴をこぼしても始まらないしな。おれもさっさと、書類をまとめないと」

 気持ちを切り替え、小野田はキーボードを操作しようとした。

「小野田さん」阿部がパソコンの画面に目を向けたまま口を開いた。「連続通り魔殺人事件の被疑者って、そんなにおれに似ていたんですか?」

「自分でほじくり返してんじゃねーよ」

 噴き出しそうになるのをこらえ、小野田は言った。

「小野田さんがしつこく言うから、気になっちゃったんですよ」

「似ているんだし、しょうがない。互いに向かい合ったら、どっちかが鏡みたいだぜ」

 私見を突き通した。

 合点がいかないのか、パソコンを操作しながら、阿部は首を傾げる。

「おれもあいつの顔は見ましたけど、そんなに似ていたかなあ。……ああ、鏡といえば、例の、昭和の鏡、っていうやつが科捜研から鑑識に移されましたよ」

「昭和の鏡じゃなくて、照魔鏡だ。……というか、なんで鑑識に移されたんだ?」

「鑑識なりにひととおり調べて、とりあえず保管しておくんじゃないんですか。持ち主の野島流海は自殺してもういないし、関係者だって誰も引き取りたがらないんでは」

「そうじゃなくて、科捜研での検査の結果はどうなったんだよ?」

 小野田は追及した。

 パソコンの操作を中断した阿部が、顔を向ける。

「相当古い手鏡で、およそ二千三百年前に作られたものらしいです。それなりに値打ちがあるかもしれませんね。ところで小野田さん、二千三百年前の中国って、なんの時代でしたっけ?」

「そんなの知るか」

 そう返した小野田に向かって、阿部はばかでも見るかのような冷たい視線を投げかけてきた。

「周の時代でしょう。小野田さん、常識ですよ」

「阿部くんさあ……歴史に精通しているみたいだけど、おれがスゲー気が短いことも、まさか知っているよね?」

 小野田は阿部を睨んだ。

「すみません、言いすぎました」

 顔を強ばらせた阿部が、軽く頭を下げた。

「で、幻覚を引き起こす仕掛け……というか、物質は確認されたのか?」

 気を取り直し、小野田は話の先を促した。

「照魔鏡もそうですが、小野田さんら現場にいた四人の血液や尿、毛髪、衣服、所持品、あと、現場に駐車しておいた二台の車や、車の中にあったもの……それらのいずれからも、幻覚を引き起こす物質は、まったく検出されなかったそうです。さらに照魔鏡に関しては、電磁波や共鳴、光の反射など、さまざまな要因を想定した催眠効果なども検証したそうですが、やはり、どれも結果はシロだったらしいです。河川敷公園を科学的に調査した結果も、同じく……」

「それじゃあ、幻覚……っていうことが立証できなくなるじゃねーかよ」

「そうっすよね」

 さも当然のごとく阿部は答えた。

「おまえな、どういうことか、わかってんのか?」

「超常現象とか、そういう可能性があるんでしょう」

「超常現象なんて上が認めるわけねーだろう。報告書がややこしくなるだけだ」とうなだれた小野田は、ふと、顔を上げた。「そういえば、佐々木さんはどうしたんだ?」

 近くにいてもうっとうしいだけだが、見えないところで何をしているのかが気になった。

 小野田は独りごちる。

「そうだ、あれもあったんだ」

 奢りの件だ。佐々木からの誘いは未だにないが、断れば断ったで機嫌を損なう可能性もある。佐々木のプライドの高さは、執念深さと同様に一級品である――という事実を小野田は今になって思い出した。

 不審そうな目で、阿部が小野田を見る。

「なんです?」

「いや」小野田はかぶりを振った。「で、佐々木さんは?」

「昭和……じゃなくて、照魔鏡が気になる、って言って、さっき、一人で鑑識に行きましたよ」

「気になる……って、どういうことだよ?」

 小野田は訝しんだ。

「なんだか、事件直後の現場検証のときにちらっと照魔鏡を見たらしいんですが、そこに映った自分の顔が、人間に見えなかったとか。それでも、どうせ幻覚だろう、と高をくくっていたみたいなんです。ところが、科捜研の検査の結果を聞いたとたんに、おろおろしちゃって」

 こともなげな答弁を受け、小野田は焦慮する。

「なんでそれを早く言わないんだよ!」

 小野田は阿部を怒鳴りつけて立ち上がった。周囲の刑事たちの視線を集めるが、気にしている場合ではない。

「どうしたっていうんです?」

 呆然とする阿部に向かって、小野田は声を荒らげる。

「阿部、ぼさっとしている場合じゃないんだ! 行くぞ!」

「どこへ行くんですか?」

「鑑識に決まってんだろう!」

 無数の好奇の視線に晒されながら、二人は大部屋を出た。


 小野田と阿部が鑑識課の部屋の前に辿り着くと、ファイルの束を小脇に抱えた一人の若い女性警察官がドアを開けようとしていた。

「君、すまないが、急いでいるんだ。先に入らせてくれ」

「は、はい」

 強引に割り込もうとする小野田におののいたのか、女性警察官はすぐに身を引いた。

「ごめんなさい」

 阿部は女性警察官に詫び、小野田に続く。

 捜査一課の大部屋とは比べものにならないほど狭く感じられるが、五人の鑑識官がそれぞれパソコンの操作や書類の確認などをしていた。ほかの鑑識官は出払っているらしい。

「ああ、牧村まきむら

 小野田は部屋に入るなり、懇意にしている鑑識官を見つけて声をかけた。部屋の一角に据えてあるキャビネットからファイルを取り出そうとしていた若い男――牧村が振り向く。

「うちの佐々木警部補が来なかったか?」

 小野田が問うと、牧村はキャビネットの奥を覗いた。

「来ていますよ。科捜研から移されてきた手鏡を見せてくれ、って」

 答えた牧村の肩を、小野田は軽く叩く。

「ありがとう」

 小野田は阿部とともに部屋の奥へと進んだ。

「別にいいじゃないですか。気の済むまで見せてあげれば」

 阿部に声をかけられるが、小野田は無視した。

 鑑識課の部屋の奥はひっそりと静まり返っていた。机やキャビネット、ガラス棚などが整然と並んでいる。鑑識官の姿が見当たらないそこに、佐々木がいた。

 南向きの窓に、澄みきった青空が見えた。佐々木は窓辺に立ち、空を見上げている。

 小野田は安堵し、肩の力を抜いた。しかし、佐々木の右手に提げられているものを見て、息を吞む。

「あれって、照魔鏡……」

 小野田に並んだ阿部がつぶやいた。

 河川敷公園での恐怖を想起した小野田は、なんとしても照魔鏡を取り上げねばならない、と即断する。

「佐々木さん、その手鏡はおれたちが見たって何もわかりはしませんよ。あれは幻覚だったんです。科捜研に送り返して、もう一度、調べてもらいましょうよ」

 佐々木を刺激したくなかった小野田は、差し障りのない言葉を選んで声をかけた。

「ああ、小野田か」

 佐々木が振り向いた。惚けた面持ちである。

「おれが係長にかけ合いますよ」小野田は訴えた。「その手鏡はちゃんと調べてもらわないとだめでしょう」

「佐々木さん、どうしたんでしょうね」

 阿部が小野田に耳打ちした。

 そんな二人を見つめながら、佐々木はおもむろに右手の照魔鏡を掲げる。

「今も試してみたんだがなあ、映っちまったんだよ、怪物の顔がさ。おれの顔が、怪物になっているんだ」

 そう言う佐々木に、小野田はゆっくりと近づいた。

「そんなわけないでしょう。もし怪物に見えたんなら、それは幻覚ですよ。なおのこと、科捜研に送らないと――」

 思わず、小野田は足を止めた。照魔鏡の持ち手から伸びる無数の触手のようなものが、佐々木の右前腕部に巻きついているのだ。

 それだけではなかった。照魔鏡の鏡面に映る佐々木の顔が漆黒に変色しているのが、小野田の角度でも見えたのである。しかも、照魔鏡の一部から、黒い煙が細々と立ち上っているではないか。

「小野田さん?」

 すぐ後ろで、現状を把握していないだろう阿部が声をかけてきた。

「まずいぞ。一気に飛びかかって、照魔鏡を取り上げるんだ」

 それが幻覚にせよ現実にせよ、佐々木の変貌を阻止するために、小野田は小声で阿部に指示した。

「意味わかんないですけど、小野田さんの言うとおりにします」

 融通が利かなくても素直で助かった――と小野田が欣喜したときだった。

「お取り込み中にすみません。そこの棚にファイルを置かせてください」

 先ほどの若い女性警察官が、言いながら小野田たちの横を通り過ぎ、佐々木の背後にある棚へと向かった。

「おい……君……」

 小野田は女性警察官の腕をつかもうとしたが、手を伸ばしたときには、彼女はすでに棚の前に立っていた。

 ただならぬ様子に気づいたらしく、女性警察官は振り向き、きょとんとした表情で小野田を見た。しかし彼女の視野には、佐々木の変貌は入っていないらしい。

 佐々木の顔や両手など露出している部分は、宮下愛里の場合と同様に、漆黒の鱗にびっしりと覆われていた。やはり両手のそれぞれの指先には、鋭い鉤爪が揃っている。

「じょ、冗談でしょう。それに、なんすか、このにおい」

 顔を歪めた阿部が、ゆっくりとあとずさった。

「あのときのにおいだ」

 小野田は覚悟した。戦いは避けられない。

 漂っている異臭に気づいたらしい女性警察官が、佐々木に顔を向けた。佐々木の口が横に大きく裂け、エメラルドグリーンに変色した眼球が分裂し始めたところだった。それらの眼球の中で、金色の瞳が不規則かつせわしなく蠢いている。さらには、毛髪がすべて抜け落ち、数えきれないほどに増殖した眼球が、顔面だけではなく、頭部のほとんどを埋め尽くしてしまった。

 女性警察官は何かの見間違いと思ったのか、まばたきを繰り返していた。しかし、佐々木の次なる変貌で現状を悟ったのだろう。鼻梁が消失すると同時に口が縦にも裂け、そこから無数の赤い触手があふれ出す、というありさまを目の当たりにし、女性警察官は絶叫を上げた。

「きゃああああ!」

 彼女の声に反応したらしい佐々木が、縦にも横にも無数の鋸歯が並んだ十字型の口を、花のつぼみが開花するかのごとく大きく広げた。

「いいいいううううああああいいいい!」

 宮下愛里のときとは異なる図太い奇声だった。その奇声をきっかけに、佐々木の変貌がなおも進む。

 ほんの一秒ほどで、佐々木の体が一回りほど大きくなった。スーツとズボン、ワイシャツ、下着、革靴が一気に破れ、拳銃の収まったホルスターさえ弾き飛ばされる。

「いい加減にしろよな」

 認めたくないという思いにさいなまれ、小野田はつぶやいた。

 一糸纏わぬ佐々木の姿は、いつものたるんだ腹からは想像もつかないほど、筋肉質で引き締まった体軀だった。胸囲などは腰回りの数倍はありそうだ。左右の足先には、やはり、それぞれ五本の鉤爪がついていた。大きくなった体との割合以上に長く伸びた両腕は、どちらも床に届きそうである。臀部から伸び出た二メートルほどの長い尾は、先端を宙に上げ、小野田を威嚇するかのごとくのたくっていた。先ほどまでは衣服の下で見えなかった部分も、概ねが漆黒の鱗で覆われている。首の正面から胸、腹、尾の腹面にかけては、横長の大きめな鱗が一列に並んでおり、蛇の腹といった様相だ。股間もびっしりと横長の鱗で覆われており、生殖器さえ見当たらない。前回の怪物を上回る醜悪さだった。

「君、早くこっちに――」

 小野田が女性警察官に声をかけた刹那――。

 佐々木の――怪物の左腕が、女性警察官に向かって真横に振られた。

「きゃっ!」と声が上がり、鮮血が飛び散った。小野田の目の前に、女性警察官がうつぶせに倒れる。彼女の左肩は、大きく切り裂かれていた。床に血だまりが広がっていく。

 小野田はとっさに屈み、怪物を警戒しながら女性警察官を抱き起こした。女性警察官は、小さく呻いている。

 小野田と同様に警戒しているのか、怪物は無数の金色の瞳で小野田を睨んだまま動かなかった。

「阿部、この子を頼む」

 ぐったりとしている女性警察官を阿部に引き渡し、小野田は怪物と対峙した。

「こんなの絶対に幻覚じゃないですよ! 科捜研なんかで調べてもらうまでもないじゃないですか!」

 ごねる阿部が女性警察官を抱きかかえたままあとずさると、騒ぎに気づいたらしい鑑識官たちが集まってきた。

「なんです、これは!」

 叫んだ牧村が、佐々木だった怪物と、阿部の腕の中でぐったりとしている女性警察官とを、交互に見た。

 そんな声を受けつつ、小野田はスーツの内側から拳銃を抜き出す。

「説明をしている間に、みんな殺されちまうぞ。早くここを出るんだ」

 小野田が警告している最中にも、怪物の変貌は進んでいた。両腕の付け根から、もう一対の腕が伸び出したのである。五秒と経たずに、新しい二本の腕も既存の二本と同じ長さに伸びてしまった。新しい二本の手先にも、それぞれ五本の鉤爪が備わっている。

「何をぼさっとしているんだ! 早く逃げろ!」

 怒鳴ることしかできない自分が、歯がゆかった。

「ですが――」と言いかけた牧村の体が二十センチほど浮き上がった。怪物の二本ある右腕のうち、照魔鏡を持っていないほうの腕が、それまでの数倍の長さに伸び、牧村の胸ぐらをつかみ上げたのだ。

 とっさに小野田は、牧村をとらえている腕に飛びついた。しかし、いとも簡単に振り飛ばされてしまい、キャビネットに背中を打ちつけて床を転がる。

「うわああああ!」

 絶叫を上げたのは、小野田ではなく牧村だった。

「牧村!」

 小野田は叫び、すぐに立ち上がった。

 牧村の左腕が無数の触手に包まれていた。いや、十字型の口にすっぽりとくわえ込まれているのだ。

 見ると、牧村をとらえている腕が――数倍の長さに伸びていたはずの腕が、いつの間にか元の長さに戻っていた。とはいえ、ただでさえ長めの四本の腕だ。爬虫類と昆虫とをかけ合わせたような形態は、どの既存の生物にも該当しないだろう。

「いいいい!」

 牧村の左腕をくわえたまま、怪物が唸った。

「この野郎!」

 負けじと叫んだ小野田は、怪物の腹に向けて拳銃を撃つ。

 一発の銃声が鑑識課内に響いた。

 怪物のみぞおちを貫通した弾丸が、キャビネットの枠に当たる。

「いいいいうううう……」

 呻き声を耳にした小野田は、大きなダメージを与えたのだと自負した。

 しかし、弾丸は貫通したはずなのに、傷はすぐに塞がってしまった。傷痕も、まったく残っていない。

 続けて射撃しようとするが、とらわれていた牧村が振り落とされたため、小野田はそちらに走った。

「牧村、大丈夫か?」

 床に倒れている牧村を抱き起こすと、彼の左腕は前腕部が消失していた。それなりに出血はしていたが、嚙み切られたというのではなく、溶かされた状態に近い。筋肉や脂肪、骨などが、湯気を上げながら泥のように滴っている。

 小野田は吐き気をこらえ、意識のない牧村を床にそっと寝かせた。そして、阿部や鑑識官たち――六人の後退している様子を確認し、怪物を睨みつける。

「佐々木さん! これがあんたの本質なんだな!」

 がなりながら立ち上がった小野田は、再び拳銃を両手で構え、引き金を引こうとした。

 しかし怪物は、素早く後方へと飛びのいた。着地すると同時に、二本ある左腕のうちの一本で、部屋の奥の壁を殴打する。その一撃だけで壁は粉々に崩れてしまった。

 直径三メートル弱の巨大な開口部から、怪物が廊下に飛び出した。

「阿部、牧村のことも頼む!」

 言い残した小野田も、拳銃を手にしたまま、同じ開口部から廊下に走り出た。

「無茶ですよ! やばいのは小野田さん、あなたの置かれている状況でしょう!」

 背中で阿部の声を聞いたが、逡巡している場合ではなかった。


 廊下へと出た小野田は、すぐに足を止めた。

 目の前に怪物が立ち塞がっていた。しかも、二本の左腕を高く掲げている。

「やばっ」

 小野田は声を漏らした。

 十字型に開いた口から異臭が吐き出された。アオダイショウを想起させるにおいに顔をしかめるが、目を離すわけにはいかない。

 このにおいは黒い煙から発せられたのではない。この怪物自体が放っているのだ。小野田はそれを認識した。

「いいいいああああ!」

 巨大な咆哮は、怪物の気合いにも思えた。

 小野田に向かって怪物の二本の左腕が振り下ろされる。

 己にかけていた呪縛を瞬時に解いた小野田は、その場を飛びのいた。

 寸分の差で躱した十本の鉤爪が、廊下の床に深々と突き刺さった。

 怪物が床から鉤爪を引き抜き、胸を反らせた――瞬間、すでに間合いを取っていた小野田は、右手に構える拳銃を撃った。

 放たれた弾丸が、怪物の左胸に命中する。

「いいいいんんんんがががががががが!」

 咆哮というよりは絶叫に近い。

 心臓を仕留めた――と小野田は思いたかった。

 しかし弾丸は、怪物の左胸に弾頭部のみがめり込んだ状態である。

「胸が固いのなら」

 三度目の射撃は再びみぞおちを狙ったが、その弾丸もみぞおちにめり込んで止まってしまった。

 小野田は焦燥した。ほんの数秒で進化する怪物なのだ、と察する。

 左胸とみぞおち、それぞれにめり込んだ弾丸が、皮膚ごとせり上がった。そして二発は床に落ち、乾いた音を立てる。やはり、二つの命中箇所に弾痕はなかった。

「どうしようもないのかよ」

 諦めた次の瞬間、目の前の怪物が佐々木だった、という事実を思い出した。

「照魔鏡だ」

 冷静さを欠いていた自分を、猛烈に恥じる。

 前回の怪物は、照魔鏡を取り上げることによって宮下愛里の姿に戻ったのだ。とはいえ、目の前に立つ今回の怪物は、素手で立ち向かうにはあまりにも手強い。

「だったら、こうするまでだ」

 小野田は拳銃を両手で構え、怪物の右手にある照魔鏡を狙った。重要な証拠物件だが、照魔鏡を破壊する以外に被害を食い止める手立てはないだろう。

 そんな思惑を悟ったのか、怪物は小野田に背中を向け、廊下の先へと大きく跳ねた。着地は四肢――いや、照魔鏡を持つ右手を除く五肢の体勢である。

「いいいいううううああああ!」

 怪物が床を這って逃げ出した。

 青臭いにおいが撒き散らされる。

「止まれ!」

 声を張り上げ、小野田は走り出した。

 怪物は五本の手足を巧みに使い、まるでゴキブリのように這っていた。身の毛がよだつ這い方だが、短距離ランナーをも凌駕する速さである。

 無論、小野田は全速力だ。

「佐々木さんの速さじゃねーぞ!」

 先行する怪物に罵声を飛ばしながら見ると、廊下の先から三人の制服警察官が走ってくるところだった。連絡を受けて押っ取り刀で駆けつけたらしく、相手がこんな怪物である、とは知らなかったようだ。三人とも怪物を目にするなり立ち止まった。うち一人は、床にへたり込んでしまう。

 三人の警察官は、皆、まだ二十代らしい。誰しもが冷静さを失って当然の状況だが、ベテランであれば、少なくともとっさに拳銃を構えただろう。

「そいつの持っている手鏡だ! 手鏡を銃で撃つんだ!」

 小野田は叫んだ。

 しかし、三人の警察官は驚愕の表情で固まっている。

 その三人を障害物と見なしたのか、怪物は右側の壁を伝い出した。それどころか、天井に進路を取り、背中を下に向けて這い続けている。怪物の通過した床や壁、天井に、鉤爪の痕が無数に残された。

 黒くて長い尾が何度も大きくのたくる。

 床にへたり込んでいる警察官が、ホルスターの拳銃を抜き、天井の怪物を狙った。そして、自分の真上に怪物が差しかかった瞬間に、引き金を引く。

 銃声が響くとともに、怪物が落下した。立ち尽くしていた二人は左右に飛びのいたが、発砲した本人は怪物の背中の下敷きとなってしまう。弾丸は怪物の背中に命中したらしく、照魔鏡は破壊されていなかった。

 左右に飛びのいた二人の警察官は、怪物の下敷きとなった仲間を助けるどころか、小野田のほうへと逃げてきた。

「ばか野郎! 仲間をほっといて逃げ出すやつがあるか!」

 二人の警察官を𠮟咤しながら、小野田は怪物に向かって走り続けた。

「しかし、化け物じゃないですか!」

 立ち止まったた二人のうち、眼鏡をかけた警察官が反論した。

「そんなの、見ればわかる――」

 言葉を切り、二人を背にして小野田も立ち止まった。

 仰向けに倒れていた怪物が、小野田に正面を向けて跳ね起きたのだ。しかも怪物は、左側の二本の手で、床に倒れている警察官を軽くつかみ上げ、後方に投げ捨ててしまう。

 小野田は戦慄した。

「ああああうううういいいいああああ!」

 十字型の口が広がり、巨大な咆哮が上がった。と同時に、怪物の首がぐんぐんと真上に伸び始める。

 天井付近までせり上がった頭部を、小野田は見上げた。

「今度は、ろくろ首かよ」

 悪態をつく小野田など気にも留めないとばかりに、怪物の首の伸長は続いた。天井をかすめてこちら側に弧を描き、下へと伸びる。頭部が小野田の目の高さに至った時点で、首の伸長が止まった。

 無数の異様な目が、小野田を睨んでいた。

 伸びた首の長さは三メートルほどもあった。一方、小野田と怪物の頭部との距離は、およそ五メートルだ。弧を描いた首をまっすぐにしても、それだけでは小野田に噛みつくことはできないだろう。

「どうするんです?」

 小野田の背後で、もう一人の若い警察官が尋ねた。

「こいつの体に、おれたちの銃は効果がない」

 怪物と対峙する小野田は、それでも両手で拳銃を構えた。

「銃は効き目がないんでしょう?」

 眼鏡の警察官が情けない声を出すと、小野田は口を引きつらせた。

「そうじゃなくて、手鏡なんだよ!」

 そのとき――怪物の空いている右腕が、倍以上の長さとなって小野田へと突進した。

 鉤爪の攻撃を躱した小野田に、一瞬の隙が生じる。

 フェイントだったのだ。

 引き戻された右腕と入れ替わり、怪物の首が小野田に向かって棒のごとくまっすぐに伸びた。しかもその首は、長さも付け足されていた。

 小野田は引き金を引く。


 照魔鏡の作用が科学的に歴然とした現象――すなわち幻覚ならば、「これだけ派手な虚像を見せている」と受け取ることができる。すなわち、たとえ科捜研の判断がシロであるとしても、幻覚を引き起こす物質が大量に残存している可能性はある――ということだ。照魔鏡を破壊した瞬間に、幻覚を引き起こす物質が警視庁内に拡散するかもしれない。

 一方、照魔鏡が超常的存在であれば、黒い煙は幻覚を引き起こす物質ではなく、怪物として鏡面に映し出された人物のみに反応する「魔の本体」という可能性がある。照魔鏡が超常的存在であれば、この発砲でこれ以上の被害を出さずに済むかもしれない。

 牧村の腕が溶かされたことや鑑識課の壁が破壊されたことまでが――否、壁の穴を抜けて自分が通路に出たことまでが、小野田にはとても幻覚とは思えなかった。

 これは最良の決断であるに違いない。超常現象などは信じないが、そうでなければ、最悪の結果を招いてしまう。

 黒い煙は魔であれ、と願った。


 銃声と同時に、小野田のみぞおちを怪物の顔面が直撃した。

 仰向けに倒れた小野田は、後方に三メートルほど床を滑る。

 二人の警察官が再び逃げ出そうとした。

「おまえら、逃げてんじゃねーぞ!」

 半身を起こして二人の動きを止めた小野田は、自分の腹の辺りに立つ薄い煙を見る。

 スーツジャケットの一部が、黒く焦げてぼろぼろになっていた。

「酸かよ」

 半身を起こしたまま、小野田はすぐにジャケットを脱ぎ捨てた。かろうじて、ワイシャツやズボンに被害は及んでいない。もっとも、みぞおちの辺りに軽い痛みは残っていた。

 怪物は突っ立っているが、小野田を突き飛ばした頭部と、その頭部と胴体とを繫ぐ長い首は、ともに床に横たわっていた。フェイントをかけてくれた右腕も同様である。もう一本の右腕は宙を突き上げる状態で固まっていた。その手に握られていたはずの照魔鏡がない。

 床に金属片が散らばっていた。黒い煙は、漂っていない。

 怪物が右足を一歩だけ踏み出し、止まった。

「いいいい……うううう……」

 床に横になっている頭部が、脆弱な声を漏らした。見れば、十字型に開いた口から無数の赤い触手がだらしなく垂れ下がり、それらを伝って滴る液体が、床をわずかに溶かしている。

 すべての眼球に生気がなかった。各個が別々の方向を向いている。

 みぞおちの痛みをこらえながら、小野田はゆっくりと立ち上がった。

 相反して、怪物の体がうつぶせに倒れる。

「終わったぞ。おまえら、仲間の様子を見てやれ」

 自分の背後に立ち尽くす二人の警察官に、小野田は言った。しかし念のため、拳銃は右手に残しておく。

 二人の警察官は声も出せず、足元の怪物をおそるおそる迂回し、廊下の先に倒れている警察官の元へと走った。

 小野田が振り向くと、女性警察官と牧村が、鑑識官たちによって部屋から運び出される最中だった。見送る阿部を残し、一行は廊下の奥のほうへと向かう。

 鑑識官たちが廊下の角の先に姿を消すと、阿部が小野田の元に走り寄った。

「小野田さん、大丈夫ですか?」

「おれは大丈夫だが、佐々木さんが……な」

 小野田は答え、怪物を見下ろした。

 漆黒の鱗に覆われていた外皮が、徐々に人間の肌に戻っていく。長い尾は短くなったものの、五十センチほどが残ってしまった。四本の腕も若干は短くなったが、四本のままである。毛髪が抜けた状態の頭部では、眼球の数が半分ほどに減っていた。

 眼球の数を除けば、顔は人間らしさを取り戻していた。口は縦の裂け目が塞がっており、鼻筋も再生されている。触手も消失していれば、強酸性の液体の滴りもなかった。しかし、鼻にも口にも多少の歪みがあり、以前の佐々木とはほど遠い面相である。

「首……長いし」

 阿部がつぶやいた。怪物の最悪な変貌を見ていなかった彼には、佐々木の首の長さが最も目についたのだろう。尾と同様に完全には戻らなかった首は、一メートルほどの長さがあり、S字型の曲線を描いたまま微動だにしない。

 青臭いにおいは、弱いながらもまだ残っていた。

「長いよな……長い、ということは、やっぱり蛇だったんだよ」

 小野田は自分の声が震えていないのを確かめると、やっと肩の力を抜いた。みぞおちの痛みがほぼ引いたことも相俟って、後輩に無様な姿を見せないで済んだ。

「え?」

 意味が吞み込めなかったらしい。阿部は戸惑いの表情を浮かべている。

「このにおいだ」小野田は言った。「ガキの頃に野っ原を走り回っていたら、石につまずいてうつぶせに転んじまってな。青臭くて弾力性のあるものが、おれの顔の下敷きになっていたんだ。アオダイショウの死骸だった。あのときのにおいが、これだったんだよ」

「最悪な思い出ですね」

「青というか緑というか、やたらと黒っぽい色だったなあ。不可抗力で頬ずりしちまったんだが、鱗の肌ざわりはつるつるすべすべしていたっけ」

「なんだかなあ。おれ、吐きますよ。とにかく、長いのと臭いのとで、蛇なんですね」

 苦虫を噛み潰したような顔で、阿部は言った。

 佐々木が――佐々木らしき生き物が、わずかに蠢く。

「生きている……みたいですけど」

 阿部はその全裸の生き物を見下ろしながら言った。

 拳銃を剝き出しのホルスターに戻し、小野田は阿部を見る。

「佐々木さんって、独り暮らしだったよな?」

「奥さんとは三年前に離婚したそうです。一人娘は千葉県のほうに嫁いでいますけど」

「じゃあ、よかったな」

 せめてもの救い、という所懐だった。

 しかし、阿部は小野田に顔を向け、目を見開く。

「よかった……ですか?」

「家族なんかがいたら、たまんないぜ。いくらなんだって、この姿は見せられないだろう。嫁いだ娘さんにだって、なんて説明したらいいか」

「そうっすよね」

 暗い表情で、阿部は頷いた。

「おれも当分は独身で通すか」

 小野田は、こんな仕事を選んでしまった若かりし頃の自分を呪った。

「おれは早く結婚したいですよ。相手はまだいないですけど……小野田さんと同じで」

 惨状の中にいるのを忘れてしまったのか、阿部はそう返した。

「一言余計……というか、状況を考えて言えよ。ほれ、おれと同じ目に遭わせてやる」

 手加減なしの肘鉄を脇腹に食らった阿部が、呻きながら三歩ほど後退した。

「うう……同じ目、ってなんですかあ……」

 そんな阿部を一瞥した小野田は、佐々木らしき生き物を見下ろす。

「それにしても、阿部の言うとおりだ。どう考えても幻覚なんかじゃねーよ。しかし、どうせまた、幻覚ということで処理しろ、ってお歴々は言ってくるんだろうなあ。牧村は片腕までなくしたのによ。……報告書、おまえも書くんだぞ」

 言い放つ小野田の横に、なんとか息を吹き返したらしい阿部が、ふらつきながら並ぶ。

「そりゃあ……書きますけど、佐々木さんはどうするんです? というか、これ……いえ、この方は、本当に佐々木さんですよね?」

 問い詰める阿部に向かって、小野田は頷いた。

「ああ、佐々木さんだ。照魔鏡に魅入られ、自分の魔性を表に引きずり出されてしまったんだよ。この姿のままなら、一層のこと、死なせてやりたいが」

 煩わしい上司とはいえ、これではあまりにも哀れである。

「なんで、こんな中途半端な姿なんですか?」

 阿部の問いは、小野田にとって辛辣だった。

「おれが、照魔鏡を破壊しちまったから……なのかもな」

 小野田は肩を落とした。

 不意に、青臭さの混淆した加齢臭が立ち込めた。

 小野田と阿部は、揃って顔をしかめた。

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