第八章

 愛里は市内の総合病院に搬送されたが、特に異常は発見されず、三日で退院した。ただし「休養は必要」という医師の指示があり、都心のアパートを引き払い、実家に戻っていた。

 愛里が退院して二週間が経過した。

 この日、愛里は電車で都心へと出向いた。

 青空ではあるがやや肌寒かったため、薄手のコートを羽織っていた。コートの下は、至ってシンプルな、パンツルックスのカジュアルスタイルだ。ショルダーバッグは下ろし立てだが、事件前に購入しておいたものである。

 愛里は駅を出ると、文化センターの一階ラウンジに入った。平日の午前は、前に来たときとは打って変わり、人が少ない。おかげで堀口の姿はすぐに見つかった。堀口もナイロンジャケットとジーンズというシンプルなファッションで、左手に小ぶりのハンドバッグを持っている。

「お待たせ!」

 愛里は堀口の前に立つと、できる限り明るく振る舞った。

「具合は、もういいのかい?」

 決まり文句のように、堀口が尋ねた。

「うん、大丈夫。どこも怪我なんてしていなかったし」

 答えた愛里は、ショルダーバッグから一枚のカラフルな封筒を取り出した。ギフト券袋である。

「お見舞いに来てくれて、ありがとう。これ、お返しね」

 差し出されたギフト券袋を見て、堀口は首を横に振った。

「そんなこと、気にするなよ」

「何を言っているのよ。お見舞い金をいただいただけじゃないんだよ。入院中は三日間とも来てくれたし、引っ越しは手伝ってくれたし、実家にも会いに来てくれた。だめよ、ちゃんと受け取ってくれないと」

 愛里がたしなめると、堀口はおずおずとギフト券袋を受け取った。

「じゃあ、ありがたくいただくよ」

 ギフト券袋をハンドバッグに入れた堀口は、ラウンジ内を見渡した。

「ここで立ち話をするより、少し歩かないか? 店が開くまで、まだ時間があるよ」

「そうだね」

 二人は文化センターを出ると、人通りの少ない歩道を歩いた。

「悪いとは思ったんだけど」堀口が口火を切った。「君が倒れていたとき……気を失っている間に、照魔鏡に君の顔を映して、そのままかどうか確かめてみたんだ」

「残酷……ひどいことを平気でするよね」

 愛里は歩きながら口を尖らせた。

「本当にごめん」

 慌てた様子で堀口は謝罪した。

 愛里は、思わず噴き出す。

「冗談だよ。あたしだって、堀口くんにひどいことをしていたんだし。それで……あたしの顔は、どんなふうに映っていたの?」

 笑顔は崩さなかったが、胸奥ではかなり気になっていた。

「もう、怪物の姿には映らなかったよ。そこに映っていたのは、いつもと同じ、かわいいままの君だった」

 どういうつもりで言っているのか、愛里は理解に苦しんだ。堀口の土性骨はいつも不明である。それでも愛里は、自分の顔が熱くなるのを覚えた。

「あのね……どこまで真面目に話しているのか、わからないよ」

 動揺を悟られまいと、愛里は顔を背けた。

「そうなのか」

 感慨深げに頷く堀口を一瞥して、愛里はため息をつく。

「いつも流海に注意されていたんじゃないの?」

「そうだったかもしれない。ちゃんと勉強しておかないとな」

「あたしって案外、厳しいかもよ」

 愛里は横目で堀口を睨んだ。

「お手柔らかに頼むね」

 苦笑しながら、堀口は言った。

 愛里は真顔になる。

「けど、本当に……いいの?」

「なんだい、急に」

「あたしのこと、許してくれるの?」

 尋ねずにはいられなかった。この自分を、こうもあっさりと許せるものなのか。

「君は昔のことを思い出してくれたうえで、ちゃんと謝ってくれた。というか、君のほうこそ、いいのかい? ぼくがみんなを友達とは思っていなかった、っていうことを」

 苦悶の表情だった。

 二人の歩調が緩んだ。

 愛里は答える。

「うん。だって堀口くんは、ずっとつらかったんだもの」

「つらかったよ、本当に」堀口は返した。「そういうのもあって……ぼく個人としては、君に事実を……真実の過去を思い出してほしかったんだ。だからあのとき、ぼくは君のあとをつけて声をかけたんだよ」

「あのとき、って?」

「ほら、休日の早朝……公園でぼくと会ったじゃないか」

「あれって、偶然じゃなかったの?」

「休日出勤は本当だったけど、君のアパートの近くからつけていたんだ」

「刑事というか、ストーカーみたいじゃない」

 愛里はこぼした。

「そうなんだけどさ……どうしても、流海のいないところで、手鏡……照魔鏡のことを君にほのめかしておきたかったんだ。昔のことを思い出すきっかけになればいいかな、ってね。

 あの日の朝、君のアパートの近くまで行ったのはよかったんだけど、部屋に立ち寄るか、電話をかけて呼び出そうか……って迷っていたんだよ。そうしたら、ちょうど君が出てきたから、あとをつけて、頃合いを見計らって声をかけたんだ」

「そうだったんだ。……確かにあたしが、堀口くんと会ったよ、って伝えなかったら、そのあともずっと、流海は手鏡のことはおくびにも出さなかったと思う。けど、あのときの流海は手鏡の話を避けちゃったけどね」

 愛里は苦笑した。

 ためらいがちに、堀口が口を開く。

「もう一つ、あるんだよ。墓参りに行った本当の理由……」

「あたしに照魔鏡を見せるため、ね」

 愛里が告げると、堀口はうなだれた。

「やっぱり、知っていたのか」

「まったく」愛里は頭を抱えたかった。「普通はわかるよ、それくらい」

 社会の荒波にもまれた割りには、堀口にはずれている部分がある。もとより、たかだか一年半の社会経験では、修行としては足りないのだ。

 堀口は顔を上げ、表情を改める。

「そんなことより……君の失われた過去も、つらいものだったね」

「堀口くんの言うとおり、あたしの過去もつらいものだったわ。けど、事実を知ってよかった、と思っているよ」

「本当かい?」

 堀口に問われ、愛里は頷いた。

「うん。だって、堀口くんのつらさを理解できたもの。小学生のときから、堀口くんはあんな状況の中にいたのよ。誰のことも信用できなくて、独りぼっちで。それなのに、怪物になったあたしを……こんなあたしを助けてくれたわ。あたし、怪物になっていた間のことを覚えていないんだけど、小野田さんが教えてくれたの。堀口くんが一生懸命にあたしを救おうとしてくれた、って。だから、あたしは撃たれずに済んだ」

 改めて口にしてみると、背筋が凍る思いだった。堀口と小野田がいなかったら、怪物として射殺されていたかもしれないのだ。

「小野田さんも頑張っていたよ。君を撃とうとしていた張本人の佐々木さんは、腰を抜かしていたけど」

「小野田さんにも感謝しているよ。佐々木さんだって頑張っていたんだと思う。……けど、どうして、あたしはあんな怪物に変身したんだろう? 姿が変わる瞬間だけは、はっきりと覚えているの。照魔鏡に映った顔なんて、真っ黒な蛇みたいだったよ」

 怪物と化したとき、すぐに意識を失った愛里は、自分の動きを抑制できなかった。それでも、変貌の最初の段階だけは記憶に残っている。

「それに」愛里は付け加えた。「佐々木さんが言っていたけど、あのあと、もっと気味の悪い姿に変わってしまったとか」

 入院中の愛里の元へ一度だけ訪れた佐々木は、「幻覚」と定義したうえで、愛里の変貌の様子を語った。愛里に向けられた佐々木の表情――腫れ物にさわるような表情は、今でも忘れられない。同行してきた小野田が、終始、そんな佐々木を軽蔑の眼差しで睨んでいたほどである。

 歩調を取り戻しながら、堀口は言う。

「もう気にすることはないよ。幻覚だったんだ……って、ほかの警察官にも言われただろう。あれはね、現場に居合わせたみんなが、照魔鏡によってなんらかの影響を受けて、同じ幻覚を見たのさ」

「本当に幻覚だったのかな? たとえば、河川敷公園でのあの様子をどこかで目撃していた人がいたら、あたしの姿はどんなふうに見えたのかな?」

 疑問を呈した愛里は、遅れまじと堀口に並んだ。

「ぼくは幻覚だと思っているから……第三者が目撃していたとしても、照魔鏡の影響を受けていない限り君の姿は怪物に見えなかった……と思うよ」

 しかし愛里は、堀口なりに気遣って言ってくれているのだ、と解釈する。

「だったら、堀口くんの言葉を信じたい」

「うん。もっとも……目撃者はいなかったみたいだよ。河川敷公園に変な人たちがいた、なんていう噂もないし」

「そうだね。それに、怪物の姿を見られていたとしたら、大騒ぎだものね。けどさ……第三者の証言があれば、あたしの変身が現実だったのか幻覚だったのか、簡単に判明できたのかもしれないよ」

「小野田さんが見たそうなんだけど」堀口は言った。「照魔鏡の縁にある小さな傷から、黒い煙が漂い出ていたらしいんだ。それが、幻覚作用を引き起こす物質だったのかもしれないね」

「黒い煙はあたしも見たよ。青臭い煙だった。……じゃあ、小学六年生のあの日、照魔鏡に怪物の姿が映ったのは? あのときも照魔鏡に傷があったの?」

「あのときの照魔鏡に傷はなかったよ。傷がなかったために、幻覚作用を引き起こす物質の拡散は少なかったんじゃないかな。だから、鏡に映って見える程度の幻覚だったのかもしれない。人間の持つ魔性を映し出す鏡、と思われていたけど、その物質に反応しやすい人間には、たぶん、照魔鏡に映った自分の姿が怪物として見えてしまうんだ。君や柿沼は、その物質に反応しやすい体質だったのかもしれないね。それに、照魔鏡の魅力に取り憑かれると、一層、反応しやすくなるんじゃないかな。ましてや君は暗示にかかりやすいため、反応が大きかった……。

 あのときの問題は、もう一つある。流海や坂田、ぼくまでもが、君と柿沼……二人の姿が怪物となって鏡面に映った、と思い込んだことだよ。集団催眠とか、集団幻覚とかいうやつなんだろうな。

 今回はさらに、幻覚作用を引き起こす物質の拡散があった。だから……君が、自分自身が怪物に変身した、と思い込んだだけではなく、一緒にいたぼくや小野田さん、佐々木さんまでもが……君が変身した、そんなふうに見えてしまったんだろう。照魔鏡の彫刻が生き物のように見えたのも、同じ理由さ。

 場所の問題だってあるよ。小学六年生のときに起こった照魔鏡の事件も、舞台となったのはあの河川敷公園だったしね。あそこには幻覚を促す何かがあるのかもしれない」

 そんな詳説を聞いた愛里は、首を傾げる。

「今回の出来事も幻覚だったとして……あたしが成人男性二人をいとも簡単に突き飛ばしてしまったことは、どう説明するの? 佐々木さんの話では、あのときのあたしの力は人間の域を超えていた、とか」

 第三者に目撃されていたとすれば、明らかに異様な光景だったはずだ。ワンピース姿の女一人に二人の男が翻弄されていたのである。

「それも幻覚のせいだと思うよ。ぼくと小野田さんは、ともに君が怪物に見えた。だから、怪物は強いもの、と無意識のうちに決め込んでしまい、君の片手だけで突き飛ばされてしまった。ほら、催眠術をかけられた人が、術者の指一本で倒されちゃったりするじゃないか」

 自分の論証に満足したのか、堀口は一人で頷いた。

「それって、なんだか無理があると思う」

「無理ではないと思うんだけどなあ。それに、ぼくの推論が正しければ、君は怪物なんかにならなかった、ということになるんだよ」

「それはそうかもしれないけど」

「幻覚だった、というほうが現実っぽくはないかい?」

 堀口は自信ありげに笑みを作った。

「幻覚でも本物でもいいから、もう一度だけ怪物に変身して、派手に暴れ回ってみたい」

 言った直後に、愛里は舌を出した。

「怪物騒動は、もうまっぴらだよ」

 堀口は笑みを引きつらせた。

「そんなに嫌だった、っていう要因の一つに、異臭もあるよね」愛里は言った。「変身した宮下さんは青臭かった……って、佐々木さんが病室で言っていたじゃない。実際にあたしのにおいを嗅いだのは、堀口くんと小野田さんなのに。けど、そもそもなんのにおいだったんだろう?」

「小野田さんによると、アオダイショウのにおいだったらしい。君が変身した……ように見えた怪物は、蛇や蜥蜴に似ていたしな。そういえば、黒い煙も、同じにおいだった」

 堀口の言葉を聞いた愛里は、納得すると同時に戦慄した。

「黒い煙のにおいは覚えているけど、蛇だったんだ。……ね、もうにおわないよね?」

「大丈夫だよ。もうにおわない。というか、君がにおっていたんじゃない、と思う。あのにおいは全部黒い煙のものだったんだ。小野田さんもぼくと同意見らしい」

「そんな話までしていたの?」

「小野田さんとしては、怪異の一つ一つを現実的にとらえたかったんだよ。警察なんだから、そうしないと仕事にならない」

 そう言って堀口は笑うが、愛里は右手の甲を鼻に当て、においを嗅いでしまう。当然、青臭くなどはなかった。

「ならいいんだけど、自分の内面がにおいにも表れたんじゃないか、って気がして」

 愛里は言うと、右手を下ろして表情を引き締めた。そして、胸のつかえを口にする。

「どんな人間にも心の闇はあると思うの。仮に照魔鏡に魔力があるとしたら……照魔鏡に魅入られた人間は、心の闇、つまり魔性を鏡面に映されてしまうのかもしれない。つまり、堀口くんが口にした幻覚説と似ているけど、照魔鏡に魅入られた人間は、あたしや柿沼くんでなくても怪物の姿となって鏡面に映る可能性がある、ということよ」

 あくまでも仮説である。堀口や警察が「幻覚だった」と主張するのなら、それに同調するつもりだ。むしろ、そうしたほうが気が楽である。だが、河川敷での体験は、細部に至るまでがあまりに現実的だった。「幻覚ではなかったかもしれない」という不安を知ってほしくて、愛里はさらに訴える。

「照魔鏡の傷から漂い出た黒い煙は、怪物として鏡面に映った本人を、映った怪物そのものに変身させる……とも考えられるわ。あたしが本物の怪物に変身していたとすると、柿沼くんもあの黒い煙を浴びていれば、本物の怪物に変身していたかもしれない。つまり、照魔鏡に魔力があるのなら、照魔鏡に魅入られた人は、誰でも怪物に変身する恐れがあるわけ。あくまでも、照魔鏡に魔力があるとしたら、なんだけどね」

 そして愛里は、持論を発展させる。

「照魔鏡に魔力があるとすれば、あたし自身の原因も大きかった、とも言えるかもしれない。あたしの本質のことよ。百人に一人もいない悪女だった、とか」

 しかし、堀口は首を横に振る。

「たとえ照魔鏡に魔力があったとしても、君が百人に一人もいない悪女だなんて、そんなことはないよ。だったら、昔のことであんなに悩んだりしないんじゃないかな。……それよりも、幻覚だったにせよ現実だったにせよ、あの照魔鏡が再び騒ぎを引き起こす、という可能性はあると思うよ」

 幻覚ならば幻覚なりに被害がでるだろう――と愛里は抱懐する。

「そうだよね」

「誰がどうやって作ったのか……どういった目的で作ったのか、謎のままだ。謎のまま、っていうこと自体も憂慮すべきだよ」

 堀口の意見に愛里は首肯した。

「でも」堀口は続けた。「あの照魔鏡に魔力があるとして……君はもう照魔鏡に惹かれていないみたいだし、今後、君が照魔鏡を覗いたとしても、鏡の中の君も本物の君も、怪物には変身しないはずだよ」

「確かに、もう照魔鏡には惹かれていないよ。気絶していたあたしの顔が照魔鏡に怪物として映らなかったっていうのが、変身しないはず、と思える証しだといいな」

「ぼくもそう思うよ」と堀口は同意した。

「じゃあ、あの事件が幻覚だったとしたら、幻覚を引き起こす物質が、河川敷公園にいた四人……刑事さんたちも含めた四人の体から、抜け出てしまったのかもしれないね。だから幻覚は起こらず、あたしの顔は照魔鏡に怪物として映らなかった。……どうかな? そんな仮説は成立しないかな? あたしとしては、そのほうが安心できる。さっきは冗談で言ったけどさ、たとえ幻覚だとしても、もう二度と怪物なんかになりたくないし」

「いや……幻覚説が正しければ、幻覚を引き起こす物質が、どこかに残存しているかもしれない。特に、照魔鏡とかさ。だから、騒ぎが再び起こる可能性は、あるんだよ」

 期待を覆す説だったが、堀口なりに警鐘を鳴らしたのだろう。

「そうだね」愛里は同意を示した。「照魔鏡は警察できちんと調べているし、何かわかるかもしれない。……調べている、といえば、河川敷公園にいた四人全員が、採血や採尿までされたじゃない。髪の毛も一本だけ抜かれたし。着ていたものや持っていたものも、検査するために提出したけど、下着まで出すなんて、においの件以上に恥ずかしかったよ」

 洗濯することさえ許されずに提出したのだ。愛里は顔をしかめてしまう。

「そうだったね」堀口は苦笑した。「幻覚を引き起こす物質が含まれていないかどうか、照魔鏡も血液も尿も毛髪も所持品も、科捜研で徹底的に検査しているそうだよ」

「科捜研かあ。警察としても幻覚として済ませたいんでしょうけど、堀口くんもかなりの幻覚派だよね。積極的に推論するし……っていうか、幻覚を引き起こす物質の有無を科捜研が検査しているのは、堀口くんが小野田さんに入れ知恵したからだよね?」

 愛里が問うと、堀口は頭をかいた。

「あー、えーと、あのあと小野田さんといろいろと議論を重ねて……まあ、ぼくの意見も多少は考慮されているはずだよ。しかし、そのおかげで、君やみんなに恥ずかしい思いをさせちゃったね」

「もういいよ、そんなこと。ところで、照魔鏡は返してもらわないんでしょう?」

「ああ。正式には、ぼくのものではないし」

 堀口は愛里を見て答えた。

「なら、もういいじゃない」

「そうだな。あとは警察に任せよう」

「うん、そういうこと。……ところでね、さっき、電車の中で決めたんだけど……あたし、鏡恐怖症を克服するための訓練を始めることにしたんだ」

「就活に活かすため?」

「もちろん」愛里は微笑む。「けど、今後の私生活のためでもあるよ。ほら、あたしって暗示にかかりやすいでしょう。それを利用してね、鏡は怖くない……鏡は怖くない……って、やってみるのよ。自己暗示とか自己催眠とかって本当にあるみたいなの。あたし、小学生のときにやっていたはずだし、うまくできそうな気がする」

「なるほど、いいアイデアだ。きっと、すぐに克服できるよ」

 堀口は笑顔で言った。

「うん。もう、何も悩まない」

 答えた愛里を見て、堀口は、さらに表情を明るくした。

「偉いな。とても前向きになったね」

 という堀口の称賛を受けた愛里は、顔をほころばせる前に肝心なことを思い出す。

「あ……えっと、あと一つだけ」

「どうしたんだい?」

「やっぱりね、流海はあたしの親友なの。何があったにせよ、これだけは譲れない。誰になんと言われようと」

 強い口調で告げたが、意外にも堀口は微笑んでいた。

「そうだね。ぼくにとっても、流海は最高の恋人だよ」

「あれ? 最高の恋人って……」

 愛里は自分の顔を指差した。

「ごめん、過去の話だよ。今の最高の恋人は、目の前にいる」

 赤面しつつ、堀口は伝えた。

 愛里はどうしても笑みがこぼれてしまう。

「じゃあ、そろそろ、お店に行ってみようよ」

 言いながら、愛里は堀口の手を引いた。

「でも、まだ開いていないんじゃないか?」

「平日だって行列ができるんだよ。イカスミパスタが大人気でね」

「ぼくはピザがいいなあ」

「だーめ、絶対にイカスミパスタを食べてもらう」

「君って、こんなに強引だったっけ?」

 困惑した表情で、堀口は尋ねた。

「変わるのよ。これからのために」

 愛里は明朗に答えた。

 二人は手を繫いだまま、歩道を小走りに進んだ。

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