第七章
流海と付き合う以前の愛里は、通学路でも教室でも、目立たないように意図して小さくなっていた。仲間はずれにされるのも寂しかったが、あからさまないじめはそれ以上に悲しく、そして苦しかったのだ。
同級生のみんなを怖く感じた。品のない言葉を浴びせかけてくる男子たちも嫌いだったが、文房具を強引に借りておきながら返さないといった図々しい女子たちも嫌いだった。
しかし、流海の仲間に入ると、同級生に怯える必要はなくなった。
確かに、仲間になった当初は、まるで流海の下女だった。現金を渡されて買い物に遣わされたり、登下校中に荷物を持たされたり、そんなこともあったほどである。
ところが流海は、付き合い出して一カ月と経たないうちに、愛里をこき使うのをやめたのだ。友人同士としての付き合いが始まったのである。しかも、愛里がほかの誰かにいじめられそうになると、坂田と柿沼がすぐに駆けつけ、守ってくれた。安心して過ごせる居場所、そして仲間ができた――愛里はそう実感した。
とはいえ、坂田と柿沼は気性が荒く、流海の指図の有無にかかわらず、気に入らない者に対しては、暴力を振るうことが多かった。二人の仲間である愛里は、今まで以上に、ほかの同級生と乖離せざるをえなかったのである。
そんな時期、愛里は、同じクラスになった堀口に思いを寄せていた。堀口の内気でおとなしい性格を、自分と重ねたのである。
堀口が仲間に入ったとき、愛里の心はときめいた。恋心を抱いた相手が同じ仲間になるとは、夢にも思わなかったのである。ところが、流海が堀口を仲間に加えた理由は、意外なものだった。
「わたしね、堀口くんのことが好きになっちゃった。だって、学年の男子の中で一番にかっこいいし。ねえ、わたしと堀口くんって、並んで歩いたらどんな感じかな?」
堀口を仲間に入れた流海は上機嫌だった。
「流海と堀口くんなら、きっとお似合いのカップルになれるよ。二人とも成績優秀でしょう。それに美男美女だし。なんだか、すっごく楽しみだな」
自分の気持ちを押し殺す以外に手立てはなかった。なんとしても、流海の機嫌を損ねるわけにはいかない。
早速、流海の猛アタックが始まったが、堀口にその気がないのは明らかだった。当然、流海の自尊心が認めるわけがない。流海は、坂田と柿沼、この二人に命じて、怪我をさせない程度に堀口をいたぶらせた。とはいえ、堀口への気持ちを諦めきれなかったのか、彼を仲間から外すことはなかった。いや、仲間から外れることを許さなかったのである。
堀口は仲間のいたぶりに対して泣くことがなければ平伏もしなかった。手加減があったにせよ、ひたすらこらえている様子が、痛々しかったほどである。
愛里は堀口に何もしてあげられなかった。堀口をかばえば流海に嫌われてしまうに違いない。看過するしかなかったのである。
そんな状況が続いたある日、愛里は柿沼に告白された。
「野島は美人だけどさ、宮下もかわいいじゃん。おれと付き合ってみねーか?」
柿沼が流海を好きだったことは、愛里にもわかっていた。しかし、流海の恋の対象は堀口だけなのだ。それを悟った柿沼は、愛里に寝返ろうとしたのだろう。
もっとも、柿沼はどうあっても愛里の恋の相手にはなりえなかった。とはいえ自分の口で断るのも怖く、愛里は流海にすがったのである。
愛里の願いを受けた流海は、柿沼の愛里へのアプローチを抑止したばかりか、愛里に暗示をかけて堀口への暴力を忘れさせてくれた。これで愛里の居場所が守られたのだ。
柿沼の流海への恋まで愛里の記憶から消したのは、自分の恋は堀口に対する一つだけ、という一途な思いが流海の中にあったためだろう。その一方で、愛里に女としての自身を持たせるために、柿沼の愛里への告白だけは、残しておいてくれたのかもしれない。
あの手鏡を流海が持ち出してきたのは、小学六年生のときだった。人の魔性を映し出すという手鏡を気味悪がった流海が、骨董品として売ろうと案じ、坂田に無償で譲ったのである。だが手鏡はまったく売れる気配がなく、坂田は、それを返す、と流海に告げた。とはいえ流海は、呪いの手鏡を二度と所有するつもりはない、と言い張る始末だった。
愛里は、坂田骨董店では手鏡の概観を一顧しただけだが、特に何も感じなかった。壺や皿、掛け軸、絵画など、子供の興味の対象外となる古い品々――それらのうちの一つにすぎなかったのである。興味がないだけではなく、坂田の両親の目を意識しなければならないという状況下にもあったため、鏡面を覗き見ることはなかったのだ。
流海の一声で、いつもの河川敷公園に五人の仲間が集まった。手鏡をどう処分するかの協議を開いたのだ。
寒風吹きすさぶ中、廃材を集めて火を熾した五人は、その近くの地べたで車座になった。
「うちの店に置くのは、もう嫌だよ。全然売れないし。だいたいさ、父ちゃんにばれないように売るなんて、無理なんだよ。お客さんに渡せるのは、父ちゃんが店にいないときだけじゃん。それよか、勝手に店に置いたっていうのが父ちゃんにばれたら、おれ、絶対にぶっ飛ばされちゃうよ」
全員が揃うなり、坂田は怨嗟を吐いた。
手鏡を片手に持つ流海も、不興顔で訴える。
「わたしだって嫌よ。この手鏡、最初から好きじゃなかったもん。坂田くんちのお店で売れたら面白かった……はずなのにな。お父さんは、掘り出し物かもしれないぞ、なんて言っていたけれど、絶対に違うよね」
「だったら、捨てちゃえばいいじゃん」
躊躇のない口調で坂田は言った。
「そんなのだめだよ。どんなに気持ち悪くても、わたしのお父さんが買ってきたお土産なんだよ。それに、ちゃんと売れたら、坂田くんは五万円も儲けていたんだからね。そこまで考えてあげたのに」
流海は坂田を睨んだ。
「わかったよ。ごめん」
うなだれた坂田は、それ以上の口答えはしなかった。
とにかく打開策を立てなければならない。この不穏な空気を払拭するためにも。
流海が持っている手鏡に、愛里は目を向けた。
白昼の元に晒された手鏡は、不気味さなど微塵も感じられなかった。それどころか、彫刻された装飾の巧みさが伝わってくる。
「流海は、嫌いだ、って言うけど、とてもきれいな手鏡だよ。この蛇みたいな部分も、蛇というよりは竜みたいだし。中国の高価な手鏡、っていう感じがするよ。あたしは、いいと思うけどなあ」
愛里は手鏡に魅了されてしまったのだ。典麗優美な逸品に見えたのである。
「野島も坂田も、本当にこれ、いらないのか?」
そう尋ねた柿沼は、少なくとも高価な品として認めたに違いない。流海と坂田が所有権を放棄すれば、柿沼は小遣い稼ぎに利用するつもりでいたはずである。彼の表情を隣で覗いていた愛里には、子供心にもそれが理解できた。
いずれにしても愛里と柿沼だけは、所有権をたらい回しにされている手鏡に惹かれてしまったのだ。
二人のそんな思いを手鏡はすぐに感じ取ったのかもしれない。人の魔性を映し出すという怪異が、この二人だけに降りかかったのである。
そして――。
「わたしの思いを受け入れてくれない堀口くんこそが怪物よ!」
流海はよほど気が動転していたのだろう。坂田と柿沼が実行犯だったにせよ、癒えることのない傷を堀口に負わせてしまったのだから。
堀口を助けようとしなかった愛里は、小学六年生にして、自分の魔性を意識した。
愛里が鏡を覗くことを恐れるようになったのは、そのときからだった。しかし事件の原因となった手鏡――照魔鏡の存在自体は、流海のいつもの囁きによって愛里の記憶から消されてしまったのだ。そして、鏡恐怖症だけが残ったのである。
中学一年生のときに、流海と堀口が付き合い始めた。
何があっても絶対に堀口は流海とは付き合わないだろう――と侮っていた愛里にとっては青天の霹靂だった。もっとも、それによって堀口に対する暴力がなくなったのは事実である。嫉妬はあったが、愛里にとっては安堵のほうが大きかった。どのみち、堀口を助けなかった愛里には、彼に告白する権利さえなかったのだ。
ところが、堀口に対する暴力がなくなった一方で、坂田と柿沼との間に軋轢が生じていた。二人の間に何があったのか、当時の愛里には想像さえつかなかった。
そして堀口への恋を諦めた愛里は、結局、彼の左肘のサポーターの理由を尋ねることができずに卒業式を迎えてしまった。しかも卒業式の直後に、流海が、愛里の記憶から「堀口のサポーター姿」を消したのである。
高校生になると、五人の揃う機会が極端に減った。
愛里と流海は、それぞれ別の高校に進学した。愛里の学校は徒歩で通える距離だが、流海は電車を利用した通学である。愛里の学校が駅の近くだったため、毎朝、二人は駅まで一緒に歩いた。さらに、二人とも部活に所属していない――という環境を活かし、帰りもできる限り時間を合わせた。
流海と一緒の高校に通っていた堀口は、入学と同時に剣道部に入部した。しかし、会う時間がなくなってしまうことを懸念した流海に諭され、一カ月で退部してしまった。同じ高校ではあったが、流海と堀口が一緒のクラスになったことはその三年間で一度もなかった――という事実を考慮すれば、流海の布石は正解だったのだろう。
堀口は、朝は常に愛里たちより先に駅に着いており、たとえ雨が降っていても駅舎の前に立っていた。流海と堀口はそこで合流していたのである。下校時は、愛里が駅舎の中で待っていると、流海と堀口がいつも一緒に改札口を出てくるのだった。堀口が登下校で愛里と顔を合わせるのは、駅での一分前後だけだった。堀口が愛里や流海に気を遣っていたらしい。とにかく、平日の愛里と堀口との親睦は、朝夕の挨拶を交わす程度だったのだ。
ともに商業高校に進んだ坂田と柿沼に至っては、学校の方角が反対だったため、愛里が平日に彼らと会うことはほとんどなかった。坂田は野球部、柿沼は柔道部と、こちらも互いに運動部へと入部したが、この二人も流海の一声で、やはり一カ月ほどで退部してしまった。もっとも、普段から素行のよくなかった坂田と柿沼は、どちらの部活からも退部を引き止められなかったらしい。
流海がこの二人にも部活をさせなかったのは、週末だけでも五人の仲間で会うためだった。それほどまでに、流海はこの「仲間」に執着していたのである。愛里が週末に遊べる友人といえば、この仲間たちだけだった。五人でゲームセンターへ行ったり、仲間の誰かの家で集まったり。
この頃になると仲間内での暴力事件も皆無となり、流海が愛里に囁くこともなくなっていた。しかし、愛里は不自然さを感じていた。友人と呼ぶには、なんとも形容しがたいぎこちなさが仲間内に漂っていたのだ。
坂田と柿沼、この二人が喫煙や飲酒を習慣にしている、という問題もあった。愛里はこの二人に対して、激しい怯えを抱いた。
とはいえ、愛里にとっては唯一の居場所である。
壊したくなかった。
「仲間」として、ずっと付き合っていたかった。
何より、流海と離れたくなかったのだ。
そんな愛里に気づいたのか、高校一年生の夏休みに入る前に、流海が久しぶりに囁いてくれた。この仲間たちは最高なんだよ――と。
そして流海は、坂田と柿沼に、素行の悪さを忠告したのだろう。以後、問題児の二人はめっきりとおとなしくなった。ところが――。
高校二年生に進級したばかりの頃、春風がそよぐ、快晴の月曜日の朝だった。
愛里が毎朝の待ち合わせの場所であるコンビニエンスストアへ行くと、珍しく流海が先に到着していた。しかも、駐車場の端で人目を避けるようにぽつんと立っている。
「流海、おはよう」
声をかけると、流海は我に返った様子で愛里に顔を向けた。
「愛里……おはよう」
悄然とした声だった。
「早く着いていたなら、店の中で立ち読みとかしていればよかったのに。どうする? 買い物、していく?」
愛里が目の前に立っているに、流海の瞳はなぜか宙を泳いでいる。
「ううん……わたしはいいの。愛里は、何か買うの?」
「あたしも、特にないけど」
不審を抱きつつ、愛里は答えた。
「そう……特に……ないか」
そんなたどたどしい言葉を聞いても、愛里は平静を装った。
「うん、ないよ」
「わたし、ちょっと早かったね」
流海は駅の方角に顔を向けた。
何か言わなくては――と愛里は焦慮する。
「ちょっと早かっただけだもん、問題はないよ」
「そうだよね。じゃあ……行こうか」
告げるなり、流海は歩き出した。
「流海、元気がないよ。何かあったの?」
愛里は尋ねながら流海に並んだ。
「大丈夫、なんでもない」
抑揚のない返事だった。
「大丈夫なら、いいんだけど」
愛里は追及を断念した。
その朝は、道すがらの会話はほとんどなかった。
駅に着くと堀口が外で待っていたが、愛里と挨拶を交わすなり、流海の先に立ってそそくさと駅舎に入ってしまった。いつもの二人なら仲よく並んでいくのだが、この日は、流海が何歩も遅れて堀口についていった。そして、愛里との帰り道でも流海は寡黙だった。
そんな状況が二週間近く続いた。週末には必ずと言ってよいほどあった流海からの誘いも、やはり二週間はなかった。
ところが三週間も経つと、流海はいつもの潑剌さを取り戻したばかりか、週末の誘いも復活したのだ。
「ちょっと体調を崩していたの。生理不順っていうか……そんな感じ。心配をかけちゃったね。本当にごめんね」
それが流海の愛里に対する弁解だった。
堀口と喧嘩でもしていたのか。愛里に想像できたのは、若い恋人同士につきものの有り体な情景だった。柿沼にレイプされていたなど、知る由もなかったのである。
愛里にとって、唯一の居場所ではあった。しかし、坂田はともかく、柿沼を「友人」と呼ぶのは欺瞞だった。流海個人のためだけに存在する仲間たち――すなわち、流海が強引にまとめた集団だったのである。
認めたくはないが、それが事実なのだ。
いや、それだけではないはずだ。
愛里が流海に支えられていたのは、錯覚でも妄想でもない。
確固たる絆があったはずだ。
堀口がなんと言おうとも、その絆だけは断ち切れない。
その絆だけは――。
愛里は今になってやっと悟った。
いつも気丈に振る舞っていた流海も、本当は孤独だったのだ。柿沼とも仲間として付き合い続けていたことに関しては、引っ込みがつかなくなったという嫌いもある。だが、それ以前に、愛里という友人を失いたくなかったに違いない。
堀口の言っていたとおり、子供の頃の流海は気随だった。そんな性格が招いた数々の波乱を思い出させまいとして――友人であり続けるために、流海は愛里に暗示をかけていたのだ。
そして流海は、社会人になった愛里に、新たなる暗示をかけた。確かに、暑気払いの席で柿沼は愛里に抱きついてきた。そんな恐怖を流海が忘れさせてくれたのである。仲間としての体裁を保とうという意図はあったはずだが、愛里を思ってくれたのも、また事実だろう。何しろ、抱きつかれた恐怖を、告白されたというこそばゆい思い出に変えてくれたのだから。
愛里は何も悩まなくていいんだよ。
嫌なことなんて忘れちゃいなさい。
大丈夫、わたしがついているからね。
それなのに、愛里は流海に何もしてあげられなかった。一番大切な友人だったのに、その命を救えなかったのだ。
小学六年生のあのときと同じ場所で、愛里の姿は怪物として再び照魔鏡に映し出されてしまった。それは同時に、怪物として映る本来の原因――魔性が自分の中に残っていた、ということを意味するのだろう。
――やっぱり、あたしには魔性があったんだ。
青臭さの中で、愛里は悲しみに打ち拉がれていた。
そして、無数の触手で右腕にしがみついている照魔鏡から、顔を背ける。
しかし――。
視線をずらすと、照魔鏡を握る右手が、黒い鱗に覆われていた。ショルダーバッグのベルトを握る左手も、同じく変容している。
鏡の中の自分だけではなく、この自分も、自分ではなくなっていた。
「こんなの……あたしじゃない……いや……たす……け……」
声を振り絞ったが、それ以上の言葉にはならなかった。
青臭いにおいの中で、意識が遠のいていく。
流海を救えなかった自分。
堀口を救えなかった自分。
自分の中に巣くう魔性が、照魔鏡から何倍にもなって跳ね返ってきた。
膨れ上がる魔性が、闇となって広がっていく。
そんな闇の中を、何かがゆっくりと這い寄ってくる。
因業をたっぷりと蓄えた体が、静かに這い寄ってくる。
愛里は、遠のいていく意識で、嗄れた声を聞いた。
出たい。
出たい。
出たい。
ここを出たい。
声の主――這い寄ってくる醜悪なものは、愛里の魔性である闇と一体となり、顕現する。
そしてすべてが、深い闇に覆い尽くされた。
「いったい、何がどうなっているんだよ?」
小野田は自分の目を疑わずにはいられなかった。
照魔鏡の中の宮下愛里だけではなく、愛里本人の体にも同様の変化が表れたのだ。髪毛や衣服、靴はそのままに、露出していた肌の全域が漆黒の鱗に覆われていた。しかも彼女の顔は、両目の間隔が離れて鼻梁が低い、という蛇や蜥蜴など爬虫類のような容貌に変化している。鱗も爬虫類の特徴を有していた。
そして、青臭いにおいが漂った。
「このにおいは……」
小野田は異臭にむせりながらも、このにおいがアオダイショウのものに酷似していると感じた。
「ばかな……そんなはずがない」
声を震わせた佐々木が、あとずさった。
「おい堀口さん、どうしたらいいんだ?」
ワンピースを着た黒い怪物と対峙したまま、小野田は動けなかった。脱兎のごとく逃げ出すなど刑事としての誇りが許さないが、こんな異常事態での判断がつかず、堀口拓也を頼ってしまう。
「とにかく、照魔鏡を取り上げないと」
堀口は言うなり、宮下愛里――怪物につかみかかった。
しかし、怪物と化した彼女は、左手だけで堀口を突き飛ばしてしまう。とてもうら若き女性の腕力とは思えない。
堀口の体が駐車場のアスファルトの上を転がった。
「照魔鏡を取り上げるんだ!」
堀口の叫びを耳にした小野田は、メモ帳とボールペンを投げ出し、怪物の右手を両手でつかんだ。
怪物の手はひんやりとしており、弾力があった。鱗の黒さと光沢は、小野田の兄が高校時代に愛用していた蛇革のウォレット――を想起させる。
「照魔鏡を……離すんだ……」
小野田は言いながら顔を背けた。黒い煙だけではなく、怪物の体そのものも青臭かったのである。
強烈な異臭に耐え、小野田は両手に力を込めた。しかし、怪物の腕力に抗えず、愛里のショルダーバッグとともに弾き飛ばされてしまう。大きくバランスを崩すものの、すぐにアスファルトに片膝を突き、怪物に視線を固定した。
「小野田さん!」堀口が叫ぶ。「何をやっているんです!」
「簡単じゃねーんだよ!」
堀口に怒鳴り返した小野田は、スーツの内側に右手を忍ばせつつ、怪物を睨んだ。
宮下愛里の面影などまったく持ち合わせていない怪物だった。口は左右に大きく裂け、幾本もの鋸歯が上下に並んでいる。エメラルドグリーンの眼球に金色の瞳が蠢いているが、まぶたがなければ表情もない。両手のすべての指先には、鋭い鉤爪が揃っていた。
しかし、変貌はまだ終わっていなかった。左右のエメラルドグリーンの眼球がそれぞれ分離を繰り返し始めたのだ。三秒と経たないうちに、怪物の顔面は眼球だらけになってしまう。そして、大きな口からは舌とも触手ともつかぬ真っ赤なものが無数に伸び、まるで餌を漁るイソギンチャクのごとく宙を無造作にまさぐった。さらには、横に避けていた口が中央から縦にも裂け、十字型の開口部が生じる。縦方向に避けた口にも無数の鋸歯が並んでいた。
「小野田、撃て! 化け物を銃で撃つんだ!」
叫ぶ佐々木が、アスファルトにへたり込んだ。
「ばかなことを言うな! 彼女は人間なんだぞ!」
立ち上がった堀口が、必死に訴えた。
小野田は上司の命令より堀口の言葉に頷いた。スーツの内側で握りかけた拳銃――から手を離し、再度、怪物に飛びかかる。
やや遅れて、堀口も怪物に飛びついた。
「いいいいああああ!」
怪物が放ったのは、人の声とも電子音ともつかない奇声だった。大きく開いた十字型の口からは、長さ三十センチほどの無数の触手がはみ出し、のたくっている。
青臭いにおいがほとばしった。
小野田が怪物を羽交い締めにしている間に、堀口が照魔鏡を力尽くで奪い取った――刹那、小野田と堀口は再び弾き飛ばされ、おのおのがアスファルトを転がった。
漆黒の怪物が、無数の眼球で佐々木を睨んだ。エメラルドグリーンの無数の眼球、それら一つ一つの中で輝く金色の瞳のすべてが、へたり込んでいる佐々木に集中する。
「来るな! 撃つぞ!」
佐々木は腰を上げられない状態でスーツの内側から拳銃を抜き出し、両手で構えた。
怪物が、一歩一歩、佐々木に歩み寄る。
「いいいいああああいいいい!」
十字型の口が大きく開き、無数の触手が佐々木に向かって、さらに長く伸び始めた。
「佐々木さん、やめるんだ!」
堀口が声を上げた瞬間、怪物がうつぶせに倒れた。
銃声は、なかった。
拳銃を両手で構えたままへたり込んでいる佐々木の元に、小野田は走り寄った。そして、前方に固定されている佐々木の両手を片手で下ろす。
「宮下さん!」
堀口が照魔鏡をアスファルトの上に置き、倒れている怪物の元へと走った。小野田も急いで堀口に続く――と、怪物はすでに宮下愛里の姿に戻っていた。
うつぶせに倒れている愛里に意識はないが、あれほど強烈だった青臭さがが、完全に消え失せている。
小野田は愛里の傍らにしゃがみ込み、そっと、彼女の左手首にふれた。
「小野田さん?」
不安の色を呈した堀口が、小野田の顔を覗き込んだ。
しっかりとした脈を感じ、小野田は立ち上がる。
「生きている。すぐに救急車を呼ぼう」
小野田はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「小野田さん……」
声を震わせた堀口が、照魔鏡を指差した。
つられて照魔鏡を見下ろした小野田は、息を吞む。
伸びていた銅合金の無数の触手――蛇の体のようなものが、のたくりながら照魔鏡の彫刻へと戻っていく過程だった。黒い煙は、漂っていない。
「なんなんだよ、この手鏡は……」
理解できずに見下ろしていると、照魔鏡の彫刻は完全に元の形に戻ってしまった。否が応でも、照魔鏡に対する嫌悪が増す。
「そんなことより」
小野田は我に返り、スマートフォンを操作した。
へたり込んでいる佐々木は、惚けた顔で秋空を見上げているだけだった。
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