いつか、どこかで

七沢ゆきの@11月新刊発売

第1話 いつか、どこかで

 予備校の帰り道、僕は、公園の階段から落ちてきた、きれいな女の子と出会った。


「いたっ」


 女の子が声を上げるのを見て、僕は慌てて駆け寄る。

 すりむいた膝からは血が出ていた。


「大丈夫?」


 僕は女の子に肩を貸し、公園の水道まで連れて行った。

 そして、傷口を洗い、僕の持っている絆創膏を貼ろうと提案する。


  女の子はきょとんとした顔をした。


「消毒はしないの?」

「しないよ。いまはこういう擦り傷は消毒をしないで、皮膚を自然に再生させる絆創膏を貼った方が治りが早いってわかったんだ。でももし心配ならこの絆創膏をひと箱全部あげるから、家に帰って箱の説明をゆっくり読んで。それでも心配ならググってみて」


「もう、そこまで技術は進んでしまったの?」


 彼女はきょとんとしたままの顔で僕に問う。


 そこで初めて僕は、自分がどんな状況に置かれているか気が付いた。


 夜の公園。きれいな女の子と二人きり。僕の父親は有名な医師。

 僕はダサいけど、家にはお金がある。


 慌てて、僕は彼女から離れようとした。


 高校三年。受験前の大事な時期なんだ。

 変なことにだけは巻き込まれたくない。

 僕の脳裏を好意で何かしたせいで酷い目にあった人たちの姿がぐるぐる廻る。


「とにかく、たいした傷じゃないから。お大事に」


 そう告げる僕のスプリングコートの袖を彼女が掴んだ。

 いまはもう春なのに、雪のように白い指先だった。


「待って。わたし、あなたに会いに来たのよ、ユーイチ」


 それが僕らの出会いだった。




               ※※※




 彼女の名は椿と言った。

 彼女のお母さんが唯一実際に見たことのある花の名前なんだそうだ。


 お母さんは外国の人なの?と聞いたら、椿は曖昧に首を振った。


 椿はほんとうにきれいな女の子だった。


 公園の街灯の下でも鮮やかに光る丸い瞳。背中まである長い髪。名前の通り、花びらのような唇。


「外国人じゃない。にほん、じん」


 まるで子供のようにつたないその言葉とともに風が吹き抜けた。

 嵐のように舞き上がる彼女の長い髪。

 その黒の上に、散る、散る、ピンクのはなびら。


「ユーイチ、この花の名前は?」


 え?

 この花の名前くらい、日本人なら誰でも知っているはずだ。

 この子はどこかおかしい。

 僕はそう思いながらも答えられずにはいられなかった。


「桜だよ」

「サクラ」


 おぼつかない口調。


「そう、桜。やっぱりきみ、外国の人?」

「椿は?」

「え?」


 質問を質問で返されて、僕は思わず聞き返す。


「椿は春の花だと……ユーイチに会えば見られると聞いた」

「ごめん、僕はそういうのに詳しくない。わからないよ」

「でも、詳しくなる」


 椿の言葉はまるで預言者のようだった。

 僕が将来、土壌や植物から新しい薬を作り出す、細菌学者になりたいと思っていることを言い当てられた気がした。


「つば……」


 呼びかけようとした言葉は、途中で途切れる。

 彼女の体の色が少しずつ薄くなっていた。


 いや、違う!

 少しずつ消えていってるんだ!

 嘘だろ!!

 こんなの物理法則に反してる!!


「あ、間に合わなかった。でも仕方ない。わたしには知りたいことがたくさんある。私のすることの報酬だとすればこれくらいは許される。___ユーイチ、明日、また、ここで」


 椿が、手を振ったように見えた。

 そして、後に残されたのは血のにじんだ絆創膏だけ。


 そういえば、あの子はどうして僕の名前を知っていたんだろう?



              ※※※




 僕はこの日、両親に初めてといってもいい嘘をついた。

 予備校の学習室で勉強してくると言いながら、僕は昨日椿がいた公園へと向かっていた。


 椿は一人で公園のベンチに座っていた。

 黒いつややかな髪が街灯の光を跳ね返し、白い顔がいっそう白く見えた。


「いつからここで待っていたの?僕は昨日より早く来たのに」


 それは嘘ではなかった。

 椿は『明日』と言ったけれど、『何時』とは言わなかった。だから、僕は昨日より早めに公園に来ていた。


「ユーイチを認識した時から。昨日はポイントが少しずれた。今日は大丈夫」

 そして。

「わたしは、ユーレイじゃない」

 僕の隣に座っている椿はそう言って微笑んだ。僕の心の中を言い当てられたようだった。

「じゃあ」

 何?と聞こうとして僕はやめた。


 幽霊じゃないならなんなんだと思ったからだ。

 確かに昨日の椿は、風に砂絵が消されていくように消えていった。

 僕の知識の中でそんなのが当てはまるのは幽霊だけだ。

 でも。


 僕の隣に行儀よく座り、落ちてくる桜の花びらを「サクラ、サクラ」とはしゃいだ様子で捕まえる椿の前ではそんなことどうでもよかった。


「椿、やっぱり椿は春に咲く花だった。知らなくてごめん」

「謝らなくていい。世界には知らないことがたくさんある」


 拡げた椿の手のひらの上でお手玉のように花びらが踊る。


「わたしもユーイチのこと、よく知らなかった。もっとちゃんと知るべきだったと、今は思うの」


 椿はいつも不思議な抑揚で喋る。

 平板で訥々と、でも本気なのがわかる話し方だ。


「どうして僕のことを知ってるの?」

「それを教えたら、明日、ここには来れない」


 風が吹き、椿の黒い髪がその顔を覆う。そのせいで、椿の表情が見えない。


「……じゃあ、言わないで」


 どうしてこんなことを口に出したのか自分でも不思議だった。

 世間への警戒心は人一倍あるつもりだし、親にもそう言い聞かされて育てられてきたのに……。


「うん」


 椿は素直にこっくり頷く。

 そして、微笑った。


「よかった。明日、また来られる」


 それを見て、きゅっと胸のあたりが締め付けられたのは夜の肌寒さのせいだけじゃないと思う。


「あー、えっと、興味があるみたいだから椿の写真をいろいろ持ってきたよ」


 僕はスマホの画面を椿に見せる。そして、用意してきた画像を次々にフリックしていく。そのたびに椿は「わあ」とか「え」とか子供のような歓声を上げた。


「ありがとう、みんな、見たことがなかった」

「僕もこんなに色々な種類があるとは思わなくてびっくりした。でも余計に植物への興味が湧いたよ」


 唐突に、椿の顔が曇った。


「ユーイチは土と花と木を研究し、たくさんのものを作り出す」

「なに言ってるの?」


 それはまだ誰にも話したことのない僕の夢。

まだ薬のない病気に苦しむ人を救いたいと……誰に話しても笑われそうだから話したことがない、僕だけの夢。


「でも……。ユーイチ、それをやめることはできない?」


「な、なに、突然。そのために僕は医学部に入りたくて勉強してるんだ。それが僕の一生を賭けたいことなんだよ」


「そう……」


 椿が目を伏せた。


 そして「あの、いちばん赤い椿の花をもう一度見せて」とつぶやくように僕に言う。

 

 僕は黙って画面を操作した。


 椿は食い入るようにそれを見つめていた。


「これ……」


 画面をさしかけた椿の指の先が……ほろほろと消えていく……!


 それは昨日と同じだった。

 風と花びらに散らされるように、椿の体の色が薄くなっていく。


 椿がにこりと笑った。


「明日、また、ここで」


 それを見て、僕はもう、あれこれ考えるのを辞めた。

 幽霊?悪魔?とにかく僕らの物理法則の手の届かないところに椿はいる。

 でもそれでもいいじゃないか。僕はそう思うようになっていた。


 明日、また会えるなら。




                ※※※




 次の日、椿は浮かない顔でベンチに座っていた。

 けれど、僕が抱えてきた荷物を見て、少しだけ笑顔になる。

 僕が持ってきたのは、昨日椿がじっと見つめていた椿の花にできるだけ似た品種の鉢だった。


「昨日、これって言ってたのとなるべく似てるの、探してみたんだ。同じじゃないけれど」

「花に触るのは、初めて」

 椿は鉢を抱きしめるようにしてまた笑った。

「それ、あげるよ」

「だめ。持って帰れないの」

「どうして?知らない人から物をもらっちゃいけないとか言われてるの?」

「違う。わたしはなにも持ち帰れない。この世界から。だからユーイチの貼ってくれた物も、持って帰れなかった」

「あ……」


 僕は思い出す。

 椿と初めて会った日、椿が消えた後に僕があげた絆創膏が落ちていたことを。


「そして、わたしが思っているよりも、時間もなかった。もう、だめだと言われた。___知りたいことは、まだたくさんあるのに」

 椿の目尻に光るあれは……涙だ。

「ユーイチのこと、花のこと、たくさん」

「また明日、来ればいい。僕も来るから」

「もう、明日はない。来られない。決めなければいけない。わたしは本当は、あなたを殺しに来た」


「え……?」


「ユーイチ、あなたは有能な細菌学者になる。そして、あなたが見つけた細菌の一つが第三次世界大戦で使われ、人類は、とても数を減らす」

「嘘だっ!これ、なんかのお芝居なんだろ?今までのだって全部そうなんだろ?あり得ないよ、そんなこと!」

「じゃあ、どうして、わたしはあなたの名前を知っていた?それより、誰も知らないはずのユーイチの夢を知っていた?」


 ぐっと僕は言葉に詰まった。確かに、それは教師どころか親にも話したことのない夢だ。


「わたしたちには細菌を無力化する手立てはなかった。たくさん人が死んだ。

でも、わたしたちは、時間線の操り方を見つけ出した。過去に戻り、ユーイチを殺せば、細菌は発見されない。ユーイチを殺したあとは、わたしではない誰かたちが、戦争を始めた首脳たちも殺していく。わたしたちが、生き残るために」


 椿はいつものように訥々と語る。かえってそれが真実味を増した。


 いや、お芝居だろうとかなんとか僕は声を荒げたけれど、心のどこかで椿は本当のことを話しているのかもしれないと思っていたんだ。


 だって、目の前で砂のように消えていく椿の体。

 あれを見たら、もう何も言い返せない。


「わたしたちの世界には花はもうない。動物もほとんどいない。人間しかいない。管理された世界の中で、わたしたちは滅びの道を歩んでいく。だから、わたしは、ユーイチを殺すことは当たり前のことだと思った。人類絶滅の元になったユーイチの時間線にいちばんうまく介入できるのが自分だと知って、嬉しかった。でも」

 椿が、抱えた鉢の花びらに唇を寄せた。

「ユーイチも同じ人間だということを、わたしは忘れていた」

「椿……」

「知りたいなどと、思わなければよかった。いまのわたしは、あなたを殺したくない。あなたは、いい人。この心に、よくわからない感情をくれた人。でも、わたしたちが、生き残るためには……」


 椿が言葉を切る。

 花びらに涙が落ちる。


 なにもかもが荒唐無稽だ。

 だけど……これまで起きたことを考えれば、椿の話はなまじ嘘にも思えなかった。


「わかった!わかったよ椿!僕は普通の医者になる!もう研究なんかしない!臨床で功績を残してみせる!」

「だめ。あなたという可能性を、見逃すことはできない」


 涙でいっぱいの目で、椿は僕が見たこともないような形をした何かを僕に突き付けていた。

 ああ、きっとあれが僕を殺す道具なんだ。その不思議な形が、椿の話の信憑性に拍車をかけた。


 そのとき。


 椿の体がゆらゆらと不安定な像を結ぶようになった。

 砂のように消えていったこれまでとは違う、壊れかけた受像機が映す映像のようだった。


「あ」


 椿が小さな声を上げる。


「そうか、そうなのね」


 僕は必死で消えかけているその体に手を伸ばす。大丈夫だ。指先はまだ温かい。


「あなたという可能性をなくせば、わたしたちの世界は安全だと、科学者たちは考えていた。でも、違っていた。あなたという可能性をなくせば、わたしたちの世界が生まれる可能性もなくなるのね」


「だってきみはまだ僕を殺してない!」

「ユーイチが、絶対に、細菌を作らない未来が確定したんだと思うの、きっと。あなたは、嘘をついては、いなかったのね」

「そうだよ!僕は本気だ!だから、明日、またここで……!」

「できない。わたしたちの世界線はいま消える。ごめんなさい。ユーイチ。わたしたちに、明日は来ない」

「じゃあ僕はその世界線とかいうのを動かす研究をする!僕は絶対もう一度きみに会いに行く!」


 必死で僕が叫んでも、椿の体はますます不安定な形になっていくだけだ。

 てことは、僕は、その世界線とかいうのを動かす研究には成功できないのか?!


 涙を湛えた目で椿は微笑んだ。


「わかった。待ってる。会えるのを、ずっと、待ってる。可能性の彼方で。

 ……いつか、どこかで」


 強くつかんでいた椿の指先さえ、もう陽炎のように揺れていた。

 僕の手は、何もつかんでいなかった。


「いつか、どこかで」

 繰り返して、椿が手を振る。


「いつか、どこかで、絶対に!」


 それに応える僕は、椿が消えていかないように必死でその体を抱きしめた。

 でも僕の腕はただ、空をかいただけだった。


 そして、椿の体は完全に消えた。

 あとには椿の花が一鉢と、ただ、桜が舞うばかり。




                ※※※




「埜々山博士!今回の発見について一言!」

「追実験が成功すれば物理学の常識を覆すことになりますよね?!」

「なぜこのような発想を?博士は学生のころは医師を目指されていたとのことですが?」


 取り囲むマスコミを振り払い、僕は研究室へと帰る。


 遠いあの日の約束。可能性の彼方。


 彼女はまだ、待っていてくれるだろうか?


「いつか、どこかで」


 そんな、意味のない僕の独り言に誰かが答えた。

 僕以外は入れないはずの研究室で。


「……今日、ここで」


 それは、訥々とした女の子の声だった。

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