10.それが生きる希望なら
「旅、ですか……」
返ってきたティトラの声からは、彼女の感情が読み取れなかった。
「マルス達と、森にあった……洞窟の、探検に、行ってきました……。そこで……創世の聖霊さんに、言われました……。私達が、神様に、選ばれた者だって……」
パルは沈黙が怖くて、真夜中どこに行っていたのか、何があったのかを口にした。
いつものぽつりぽつりと言葉を紡ぐ口調だったが、緊張が強く滲み出ているのが自分でも分かる。
創世の聖霊と出会い、自分達が世界を守るために神から選ばれた存在だと告げられた事は、嘘偽りのない事実だった。
ティトラは嘘を嫌う人物だ。その上、彼女の優れた聴覚は心音の乱れを感じ取る。何人もの孤児と関わってきた彼女の感覚は、嘘をついた時の僅かな心音の乱れに敏感だった。
彼女の前で事実を誤魔化しても、ばれるのは時間の問題だろう。
だからパルは、たとえ信じてもらえないような話だったとしても事実をありのままに伝えたのだ。
「……嘘、ではないようですね」
嘘をついているのではない。そう感じ取ってはいるものの、受け止め切れていない様子が滲んだ声だ。
「神に選ばれた存在だから、旅に出たいと?」
パルはその問い掛けに小さく頷いてみせる。
「世界に、危機が迫っているって……言われました……。その危機から、世界を守れるのは……私達だけだとも……」
パルの話にティトラはただ黙って耳を傾けていた。
「聖霊さんの話、嘘じゃないと、思います……。私は……私達にしか、出来ない事なら……成し遂げに行きたいです」
彼女にしてははっきりとした物言いだった。
「私に、守れるものがあるなら……
そう続ける彼女に、ティトラはどこか哀しげな眼差しを向けていた。
――今度こそ。
彼女がそのように言う理由を知っていたから。
「パル、私はあなたの保護者。あなたを危険から守らねばならない。洞窟での出来事が真実なのであれば、あなたを危地に送るような真似はしたくない」
厳しい表情でティトラは言う。
この孤児院に身を置くパルにとって、両親に代わる存在――保護者はティトラだ。そして保護者である以上、ティトラには彼女を守り育てていく義務がある。
彼女の言う旅とは、観光や勉学のために他国へ行くものとは違い、自ら危地に向かって行くようなものだ。
地上界に迫る危機、それが何なのかティトラには分からない。だが、恐ろしい何かにパルが立ち向かわねばならないという事はすぐに理解出来た。
「だから、旅に出るなど認められません。…………と、言いたいところですが」
言葉の続きを求めるように、パルは顔を上げて彼女に視線を向ける。
「今のあなたを見ていると、強く引き止める気になれないのよ」
ふと、ティトラの口調が柔らかくなる。
どういう意味かと聞き返す代わりにパルは首を傾げた。
「生き生きしている……そう表現すれば良いのかしら。あなたの瞳が煌めいているのを見たのは初めて」
ティトラはパルの空色の瞳を見つめながら続ける。
「六年前にここへ来た時からずっと、あなたの瞳は後悔と自責の影で曇っていた。自分はどうして生きているんだろう、そう言っているかのようだったわ」
彼女の手がパルの頬に触れる。
「だけど、今のあなたの瞳は曇っていない。洞窟での出来事に、旅に、生きる意味を見出したのね」
パルは小さく、だがはっきりと頷いた。
八年前の戦争の中で両親を失った彼女は、後悔と自責の念に苛まれながら生きてきた。
何より彼女を苦しめたのは、生まれ持った魔力も怪力も何一つ両親を守るために使えなかった事だった。
当時の彼女はたったの七歳。両親の庇護の下で凶悪な敵意などとは無縁に生きていた彼女が、命を奪おうと迫る敵に立ち向かっていけるなど誰も思わないだろう。
両親も、自分達を守るために、まだ幼い娘が他者の命を奪うような真似はさせたくなかったに違いない。
パルもその事を頭では理解している。だが、「理解」と「納得」は違った。
ティトラは、六年前にパルがこの孤児院に来た時からずっと彼女の様子を案じていた。
口数が少なく、表情も乏しく、特異な力を持ち、周囲に溶け込めない様子も無論心配の種ではあった。
だがそれ以上に、戦禍の中で負った見えない傷が、彼女を苦しめ続けている事が心配でならなかった。
彼女が自分から過去を語る事はほとんどない。ティトラが彼女自身の口から聞いた過去と言えば、戦禍で両親を失った事、これまでの両親との生活、孤児院に来るまでの幼馴染みとの生活くらいだ。
ティトラはパル自身から得た情報だけでは、彼女を苦しめるものを理解するには至れなかった。
もっと詳しく教えてほしい、何度そう思った事だろう。
しかし、彼女に言及させる事は、彼女の傷を抉る事に他ならない。彼女を壊してしまう気がして、深く掘り下げさせるなど、ティトラには出来なかった。
そこで、業務の合間を縫って王都で彼女を知る者を探し、彼女の事を聞いて回った。
そうして漸く彼女の苦しみを知ったのだ。
強い魔力に怪力。敵に立ち向かうだけの力は持っていた。
だというのに、この世で最も大切なものを――家族を守るために、その力を使う事が出来なかった。
どれほど彼女は己を責めただろう。恨んだだろう。
幼い少女の心を埋め尽くしたのは、自身への呵責の念。
彼女の苦しみを想像しただけでも、ティトラは胸が強く締め付けられた。
それから六年、ティトラは試行錯誤しながら彼女と関わった。だが、彼女の瞳から苦しみの落とす影が消える事はなかった。
けれど、今目の前にいる彼女の瞳は、希望を見出した者の煌めきを宿していた。
「ずっと、その瞳が見たかった。あなたの瞳をこんなに煌めかせるのが、その聖霊から告げられた使命だというのなら、私にはどうしてもあなたを強く引き止められないのよ」
ティトラは柔らかな微笑みを浮かべる。
「じゃあ、旅に……出ても、良いんですか……?」
恐る恐るといった様子でパルは尋ねた。
「あなたの心に従いなさい」
「はい……っ」
返事をするパルの表情には、嬉しさが滲み出ていた。
この六年でティトラが彼女の感情の表出を見たのは、これで二度目だ。
一度目は、過去を語ってくれた時の悲しみの表情。そして二度目は、今この瞬間の嬉しそうな表情だった。
「でも、一つだけ約束してちょうだい。必ず、必ず生きて帰って来ると」
言いながら、無理な約束だとティトラは思っていた。
旅がどれほど長いものになるかも分からない。王都の外に出れば魔物もいる。その上、パルが立ち向かう脅威は強大なものに違いない。
彼女の無事が保証されているわけではないというのに「生きて帰れ」など、何と身勝手な約束を彼女に強いているのだろうかとティトラは思った。
だが、そう約束せずにはいられなかったのだ。
「必ず、生きて帰ります」
ティトラの複雑な感情を他所に、パルはいつになくはっきりと答えた。
その答えにティトラは微笑みをこぼす。
そして、彼女の華奢な体に優しく腕を回し、彼女を抱きしめた。
パルは一瞬驚いた反応を見せたが、躊躇いながらもティトラの体を抱きしめ返す。
明け方の冷えた空気など感じさせないぬくもりが、パルの体を包んでいた。それは孤児院に来て初めて感じた、家族のぬくもりだった。
数秒間。とても長いようにも、短いようにも感じる不思議な時間だった。
体を離してから見上げたティトラの表情は、どことなく母親に似ている気がした。
「そうだわ、パル。これを持ってお行きなさい」
ティトラはそう言うと、自身の首に下げていたペンダントを取り外す。
小指ほどの大きさをした乳白色の石を、雫型に加工した物だ。石は淡く優しい煌めきを宿している。
「これは私達アドゥ族の守り石。持ち主を守ってくれる力があるわ」
ティトラ達アドゥ族は、森の奥でひっそりと暮らす種族だ。長い歴史の中で徐々に他の種族とも関わるようになり、二百年ほど前から森の外でも暮らすようになっていた。
森の奥には魔物や獰猛な生物が多く、常に危険と隣り合わせと言っても過言ではない生活をしている。そのため、アドゥ族は皆生まれた時に「守り石」を授けられる。
守り石とは、生まれた日に採った水晶に、巫女と呼ばれる最も魔力の強い者が守護の力を込めて作る特別な石だ。
その事を知っていたパルは戸惑ったようにティトラを見た。
「でも……これ、大切な物じゃ……」
パルの戸惑いを他所に、ティトラは守り石を彼女の首に掛ける。
「王都は安全よ。よほどの事がない限りね。でも、あなたがこれから行く旅は、常に危険と隣り合わせ。だから、これは私よりもあなたに必要な物だわ」
咄嗟に外そうとする彼女の手を緩く押しとどめてティトラは言う。
「パル、あなたに神のご加護があらん事を」
守り石にティトラは優しく口づけ、それをパルの右手に握らせる。
「ありがとう、ございます……」
パルは大事そうに石を握った右手を左手で包み、ティトラに感謝を伝えた。
「発つのはいつ?」
そう問われ、真っ先にパルの頭に思い浮かんだのはマルスの存在だった。
好奇心の赴くままに行動する。思い立ったが吉日。彼はそういう性格だ。
「明日の、午後には……」
「それなら、あまりのんびりしている暇は無いわね。今夜はもうお休みなさい。と言っても、あと二、三時間で起床時刻になってしまうけれど……少しは休むんですよ」
パルの返答を聞くと、ティトラは立ち上がって部屋を出て行こうとする。
扉を押し開けて一歩踏み出そうとしたところで、彼女はパルの方に顔を向けた。
「あなたの良い表情が見られて良かったわ。時間を取らせてごめんなさいね。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
柔らかな微笑みを見せたティトラに、パルも微笑み返す。
ティトラは愛しさを滲ませた眼差しを向けてから、再び前を向いて部屋を出て行った。
静かに扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。
温かく、心地の良い静寂だった。
* * *
起床時刻を迎え、朝食をとった後、パルは旅支度をした。
雇われ先のパン屋にも顔を出し、旅に出る事を伝えた。もっとも、パン屋を営む夫妻には「他国を巡って、見聞を広めたい」と説明した。
彼女の両親と仲が良く、幼い頃から彼女を可愛がっていた夫妻は、彼女が両親を失ってからの様子をよく知っていた。そのため、旅――夫妻は旅行と認識している――で彼女が少しでも気持ちの整理をつけられるのならば、と快く承諾してくれた。
そうして、出発に向けた準備を終えたのは翌日の昼前だった。
その日の昼食ではごくささやかな送別会が行われた。送別会と言っても、昼食前に軽く挨拶をする程度のものだ。
当のパルは渋ったのだが、いきなり姿を消すのでは皆が心配するとティトラに言われ、緊張した面持ちで挨拶をしたのだった。
無論、ここで話した旅の目的はパン屋の夫妻に伝えたものと同じである。
昼食を終えてから、孤児院を発つパルを見送りに出て来たのは、ティトラを含む孤児院の職員数名と、比較的彼女が上手く付き合えていた少女が二人、興味本位でついてきた子が数名だ。
「目的を果たして帰って来るのが一番かもしれないけれど……何かあればいつでも戻っていらっしゃい」
祈りを込めるように、ティトラはパルの首に下げられた守り石を両手で包む。
彼女が石から手を離すと、パルは無くさぬようにと石をブラウスの中に入れた。
他の職員や見送りに来た子が、口々に見送りの言葉を投げ掛ける。パルはそれら一つ一つに返事をしてから、再びティトラの顔を見た。
「……いってきます」
「いってらっしゃい、パル」
挨拶を交わし、パルは背を向けて歩き出す。
旅への不安は大きい。だが、その不安を包み込み、背中を押すような温かい眼差しを背中に感じる。
それは、幼い頃にマルス達と探検に行く時、見送ってくれた両親の眼差しと同じだった。
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