8.マルスの決意と願い
「は…ッ……!」
カッと目を見開いてマルス勢いよく起き上がった。呼吸が乱れ、額には嫌な汗が滲んでいる。
「はぁ……夢か……」
今まで見ていた光景が夢である事に、いくらか安心してマルスは息をつく。
とはいえ、それはただの夢ではなく現実でもあった。おぼろげではあるが、兄と生き別れた日も夢とほとんど同じ事が起きていたのは、マルスの記憶に残っている。
服の袖で額に滲んでいた汗を拭って何度か深呼吸を繰り返すと、脱力したようにまたベッドに寝転んだ。
「兄さん……どこに連れてかれたんだよ……」
泣き出しそうな、僅かに震えた声で呟きをこぼす。その問いかけに答える者はなく、部屋の静寂に吸い込まれていく。
夢のせいで、マルスの頭は兄の事でいっぱいになっていた。
(兄さんがいなくなって、もう五年になるのか……)
静寂の中でマルスは、いなくなってしまった兄の事を思う。
ふと、頭を傾けて左の方へ視線を向けると、マルスのベッドの左隣に誰も使っていないベッドがあった。それは、兄が使用していたベッドだ。
そのベッドで眠る兄の姿を見なくなって、もう六年もたったのかとマルスは思う。
まだ兄が自分のそばにいた五年前がひどく遠く感じられ、ますます寂しさが胸の奥底から込み上げてくる。
いやに部屋の空気が冷たく感じた。
この部屋こんなに広かったっけ、とマルスは心の中で呟いた。兄がいなくなってから、この家中が広く寂しい空間に感じられるようになっていた。
「会いたいよ、兄さん……」
こぼれた呟きは、部屋の静寂に溶けて消える。僅かに細められたマルスの瞳がかすかに揺らいだ。
寂しさを誤魔化すように、きつく瞼を閉じる。目の奥がじんわりと熱い。目の奥が熱を帯びていくのと同時に、彼の胸の奥も熱を帯び始めていた。
マルスは目を開くのと同時に、勢いよく起き上がった。手を伸ばして立て掛けておいた剣を取ると、鞘から静かに抜く。
(行こう、兄さんを見つけ出すために)
マルスは窓から射し込む日光に剣をかざす。今は亡き父親の形見である剣の刀身は、陽の光を受けて鋭く光っていた。
まるで父親が「行ってこい」とでも背中を押すように。
その光を瞳に映しながら、マルスは旅に出る決意を固める。
旅に出ようと決意した一番の理由は兄だった。
勿論、世界を救えと聖霊に言われた事も忘れてはいない。ただ、今の彼を突き動かすのは世界を救うという漠然とした大きな目的ではなく、兄に会いたいという純粋で小さな願いだったのだ。
静かに剣を鞘に納めてからマルスはベッドを降りると、旅に出るための支度をし始めた。
長期で家を空けるため、その間の税金納付の猶予を申請しに役所にも赴いた。
猶予期間の長さは収入によって決まる。マルスの場合は最長三年。三年経過しても支払いがない場合は、家と土地を手放すという契約書にもサインした。
三年経っても戻らないとしたら。それは旅が長引いてなのか、それとも――。
サインしながら頭に過ぎった思いを、首を振って払い除けた。前向きにいようと思った。
兄と一緒に帰って来られるなら、三年以上かかっても、家がなくなっても、それほど大きな痛みにはならないのだ。
* * *
支度を全て終え、家を出たのは翌日の昼頃だった。
父の形見である愛用の剣と必要最低限の荷物を持ったマルスは、扉の前で「行ってきます」と家に向かって言い、扉に鍵を掛ける。
そして、家に背を向けると、二人と合流するためにいつもの森へと歩みを進めていった。
昼頃の居住区には、賑やかな明るい雰囲気が漂っている。
(旅に出たら、いつ帰って来れるかなんて分かんないし、今しっかり目に焼きつけておこう)
マルスはそう思って、グラドフォスの見慣れた景色の一つ一つをじっくりと眺めるようにしながら歩く。
その
「こんにちは、マルス君」
「メイばあちゃん、こんにちは」
声のかけられた方を向くと、メイが皺だらけの顔に笑みを浮かべながら、いつものように庭の畑の手入れをしていた。
「今日も探検かい?」
やや曲がった腰を叩いてマルスのそばに歩み寄りながらメイは尋ねる。
「んー……今日は探検って言うか……」
どう答えるべきか悩んだマルスは返答を濁した。
メイはマルスの返答を待って、変わらず優しげな笑みを浮かべたまま彼の顔を見上げている。その微笑みを見て、彼女には話しておこうとマルスは思った。
メイは数年前に夫が他界してからもこのグラドフォスの下町で、たった一人で暮らし続けている。
夫が他界した時に、別の国で宿屋を営む息子夫婦が共に暮らさないかと持ちかけた事もあった。だが、メイは生まれ育ったグラドフォスで余生を過ごしたいと強く望み、一人でここに残った。
自分から望んだとはいえ、たった一人で暮らすメイの事がマルスは心配だった。だから、毎日それとなくメイの家の前を通ったりして様子を見ていたのだ。
(急に来なくなったりしたら、きっとメイばあちゃん心配するよね)
そう考え、マルスは心の中で頷くとメイの目を真っ直ぐに見つめる。
「あのさ……メイばあちゃん。オレ、旅に出ようと思うんだ」
静かに告げられたマルスの言葉。メイからは何も返ってはこない。
マルスにはその沈黙がなんとも重々しい、気まずいものに感じられた。
「……そんな日が来るんじゃないかって、ずっと思っていたわ」
沈黙に不安を感じていると、メイが穏やかな声でそう返してきた。
彼女から返ってきたその言葉は、マルスにとって意外なものだった。
「ずっと思っていたって……?」
「カイル君がいなくなった時から、いつか兄さんを探しに行くんだって言って、ここを出ていく日が来るんじゃないかしらと、ずっと思っていたの」
メイは前掛けについた土汚れを軽く払いながら続ける。
「他にどんな理由があっても、きっとマルス君の一番の理由はカイル君。そうでしょう?」
顔を上げてメイは小さく笑みをこぼす。旅に出る理由まで見抜かれていた事にマルスは面食らった顔をした。
「……メイばあちゃん、すごいや。理由まで当てちゃうなんてさ」
図星をつかれたマルスは恥ずかしげに指で頬を掻く。
確かに彼女の言う通り、マルスにとって旅に出る一番の理由はカイルだ。神に与えられた使命を果たしたいという理由もあるが、やはり一番は兄なのだ。
「なんで分かったの?」
どうして理由を当てる事が出来たのか気になったマルスはそう尋ねてみる。
「だって、赤ん坊の頃からマルス君を見てるんですから」
皺だらけの顔をいつも以上に綻ばせながらメイは答える。
「マルス君はお兄ちゃんが大好きで、お兄ちゃん想いのとっても優しい子ですもの」
兄想いの優しい子、と面と向かって言われたマルスは、どことなく照れ臭さを感じた。
「私は止めたりしませんよ。でも、行くと決めたのなら、必ずカイル君を連れて帰っておいで」
メイはいつになくはっきりとした口調でそう言った。まるでマルスの実の祖母であるかのような物言いにすら聞こえる。
「メイばあちゃん……」
マルスは彼女の言葉に安心したような、嬉しいようなそんな気持ちになった。
「うん。オレ、必ず兄さんを連れて帰ってくるよ。約束する」
マルスはそう言って、そっと小指をメイの前に突き出す。彼の小指にメイは自身の小指を絡めて、指切りをした。
「あ、そうだ。メイばあちゃん、オレの家の鍵を預かっててくれないかな」
小指を離してから、思い出したようにマルスはそう頼んだ。
「マルス君の家の鍵?」
「うん。なんだか旅の途中で無くしちゃいそうだからさ……」
マルスはそう言いながら、ポケットから家の鍵を取り出す。
「ふふ、マルス君はおっちょこちょいなところがあるものね。分かりましたよ」
「おっちょこちょいって……」
マルスは苦笑いをしつつ、メイに鍵を手渡した。
メイは至極大事そうにその鍵を握りしめて微笑む。
「週に一回はお掃除しておきますよ。本当は毎日すべきなんだけれど、足腰が弱ってきているからねぇ。週一回で勘弁してちょうだい」
「ええ! いいよ、掃除なんてしてくれなくても!」
「いいの。マルス君がいつ帰ってくるか分からないし、帰って来た時に埃とネズミがお出迎えなんて嫌でしょう?」
おどけた口調でメイは笑う。
「それは嫌かも」とマルスはつられて笑い、やや遠慮がちではあったが家の掃除を彼女に頼んだ。
笑い合っているその僅かな時間、暖かで穏やかな空気が二人を包んでいた。
「……じゃあ、メイばあちゃん」
真面目な顔つきになったマルスは、再び真っ直ぐにメイを見つめる。メイにはそんな彼の顔が、今まで見た事も無いほど大人びた、凛々しいものに感じられた。
「気をつけて行くんですよ。私はいつまでも、ここでマルス君とカイル君の帰りを待っていますからね」
メイは皺だらけの顔に、あたたかい微笑みを浮かべてそう言った。幼い頃に兄と二人で昼寝をした時に差していた、心地よい春の日差しによく似た微笑みだ。
「ずっとここで見守っているよ」そう言っているかのようだった。
「うん」
マルスはメイの笑顔に、太陽のような眩しい笑顔を返して大きく頷いた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
柔らかな声で二人は挨拶を交わす。
名残惜しげにしながら、マルスは森へ続く道の方へと体を向けると、メイの見送る視線を感じながら歩き出した。
少し大きくなったように思うマルスの背中を見つめながら、メイは僅かに瞳に涙を浮かべていた。
* * *
メイと別れてから、マルスはいつもの集合場所に行く前に、街外れにある丘を訪れていた。
グラドフォスの街並みを一望出来る丘を登っていくと、そこには二つの小さな石碑があった。石碑にはそれぞれリオス、クレアと二人の男女の名が刻まれている。
マルスは膝をついてその石碑の前に、ここに来る途中で買った切り花を供えた。
「……父さん、母さん。オレ、旅に出るよ」
石碑に向かってマルスは呟くように言う。
その二つの石碑は、戦争で命を落としたマルスの両親の墓であった。
この丘は、マルス達家族にとって大切な場所だ。
父と母が初めて出会った、二人にとって大切で大好きな場所。
家族で何度も訪れた、家族全員にとっても大切で大好きな場所。それ故、兄とマルスはここに両親の墓を作ったのだ。
旅に出ればいつ帰って来られるかは分からない。その旨を両親に伝えておかなければと思ったマルスは、アイクとパルと合流する前にここを訪れたのだ。
「この紋章、勇者の証なんだって。だから、オレは世界を悪い奴から守らなきゃいけないんだってさ」
墓に向けて紋章を見せながらマルスは言う。
幼い頃にどうして自分や兄、アイクとパルにはこんな紋章があるのかと、両親に問うた事があった。その時両親は、それは四人が出会うために神様がくれた特別な目印なのだと答えてくれた。
聖霊の話で、この紋章がどういう意味で自分達に刻まれていたのかを知ったマルスだが、両親の話もあながち間違っていないような気がした。
「すごくない? オレが世界を救う勇者だよ?」
おどけた口調で言いながら、マルスは小さく笑う。
「それからね、オレ、兄さんを探しに行って来るよ。必ず兄さんを連れて、また一緒にここに戻ってくるから」
約束する、とマルスは最後に言って微笑み、静かに手を組んで両親に祈りを捧げた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「父さん、母さん。いってきます」
マルスは墓に向かって明るく笑顔を見せてそう言った。無論、返事など返ってはこない。
だが、マルスにはなんとなく「いってらっしゃい」と両親が背中を押してくれたように感じた。
どこか名残惜しげな表情をしながらもくるりと墓に背を向けて、マルスは丘を下っていく。
丘に吹く風が、供えられた花の花びらをふわりと揺らしていった。
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