7.微睡みに滲む孤独
家に戻ってくると、眠気と疲れが一気にマルスに襲いかかってきた。
帰りがけに近所の人々と共用している井戸から汲んできた水で顔や手を洗い、洞窟でついた土埃や汚れを落とすと、マルスは寝室へ行く。
上着を脱いで剣をベッドの脇に立て掛けてからベッドに寝転び、そのままただぼんやりと天井を眺めていた。明け方の淡い陽射しが射し込む家の中は、寂しいほどに静かだ。
「オレが神様に選ばれた勇者、かぁ……」
マルスは右手を天井に向けてかざし、手の甲にある紋章を見つめる。
燃え盛る炎を模した、焼き印のような褐色の線で右手の甲に刻まれている紋章。生まれた時から右手にあって、見慣れているはずのその紋章が、いつになく目立って見えた。
(そういえば……兄さんの右手にも、なんかの紋章があったよな……)
ふと、マルスはそんな事を思い出す。
マルスには「カイル」という名の兄がいる。
幼い頃に戦争で両親を亡くしてから、自分を両親に代わって面倒を見てくれていたのは、他でもないたった一人の家族である兄だ。強く優しい兄はマルスの自慢であり、憧れであった。
だが、兄とは五年前にとある事件に巻き込まれ、生き別れてしまった。
その兄の右手の甲にも、確かに紋章があった。雄々しい龍を模したもので、兄もマルス同様に生まれた時からその紋章を持っていた。
(あの石碑に、兄さんのと同じ紋章も描かれてた)
マルスはレジェンダの洞窟で見た石碑の事を思い出す。
そこにはマルス、アイク、パルの三人の紋章の他に、もう一つ紋章が描かれていた。
(もしかしたら、兄さんにも何か使命みたいなのがあるのかな)
マルスはそう思う。
もし兄にも自分と同じように使命が与えられているとするならば、神が兄を死なせるような事はしないはず。
兄と再会出来るかもしれないという僅かな希望が、彼の胸を期待に踊らせた。
(兄さんは、きっと生きてる)
確信するように、それでいて自分に言い聞かせるようにマルスは心の中で呟いた。
兄がいなくなった時の事は、幼かった当時のマルスにとってまるで悪夢のような出来事で、今でも忘れられずにいる。
自分を守って戦っていた兄の姿。そして、薄れる意識と視界の中で見た、見知らぬ男に連れて行かれる兄の姿。
兄は自分を守ろうと戦ってくれたのに、自分は兄の危機に何も出来なかった。
あの日からマルスは強くなろうと努力し続けた。兄に教わった剣術を必死に鍛え、我流の剣術も身に付けた。あの時、自分にも戦える力があったら、兄がいなくなる事はなかったと何度も悔やんだからだ。
そして、いつの日か兄を探しに行きたいと願っていた。
「生きてる、よね」
もう一度、今度は口に出して呟く。
口に出してみると、兄に会いたいという気持ちがより一層強く湧いてきた。その気持ちと共に、過去の兄との思い出がマルスの心に浮かんでくる。
毎日二人でグラドフォスの街中を駆け回って遊んでいた思い出、喧嘩した思い出、二人揃って両親に叱られた思い出、夜が怖くて共に身を寄せ合って眠った思い出……。たくさんの思い出が心に浮かんでくる。
眠いせいか何なのか、次第に心に浮かんでくる思い出が眠りに関するものになっていく。
晴れた日の昼下がりに、丘の上で心地好い陽射しを受けながら一緒に昼寝をした思い出が浮かぶと、不意に欠伸がこぼれた。静寂の中にマルスの欠伸をする声だけが響く。
洞窟に行っていたせいで寝ていなかったマルスを、先程よりも強い眠気が襲ってきていた。次第に意識がぼんやりとしてきて、視界が狭くなっていく。
線となった光を見たのを最後に、マルスは眠りに落ちた。
* * *
眠りについたマルスはとある夢を見ていた。
兄と二人で森の中を何かから逃げて必死に走っている夢だ。
「兄さんっ、あれは何? どうしてオレ達を追いかけてくるの?」
マルスの手を引いて走る兄に、息を乱しながら尋ねる。
「魔物だ! 捕まったら、喰われる!」
兄の焦りを滲ませたその物言いに、マルスは悪寒を覚える。こんなにも焦燥しきった兄の声を聞くのは初めてだった。
それだけ恐ろしいものが自分達に迫ってきている事は、まだ幼いマルスにも理解出来た。
「大丈夫! もうすぐ街に出られるから、そしたら……っ!」
兄は怖がるマルスを必死に励まそうとする。
だが、その言葉は言い終わる前に途切れ、兄は突然走るのを止めた。
「に、兄さん……?」
「……っ……マルス、俺の後ろにいて。絶対前に出るな」
護身用に持っていた剣を抜いて、兄はマルスを自分の後ろに隠すようにして立つ。兄の声は、こちらの呼吸が苦しくなるほど酷く張りつめていた。
マルスはそっと兄の体の陰から、兄の見据える先を覗き見ると、そこには見知らぬ男が立っていた。
先端の尖った特徴的な耳に、赤みの強い毒々しさを感じる赤紫色の長髪、瞳は血のように赤い虹彩と蛇の目のような縦長の黒い瞳孔を持っている。
端正な顔立ちではあったが、男からは今まで感じた事も無いような邪悪で嫌な雰囲気が漂っていた。
何もかもを飲み込むような雰囲気と圧倒的な存在感に、マルスは冷や汗と震えが止まらない。幼い彼はその恐ろしさに、思わず半泣き状態にすらなっていた。
兄の方は男を強く睨み付けているものの、やはりマルス同様に震えていた。剣の切っ先が一点に定まらず、ふらふらと揺れている。
その時、突然二人めがけて男の背後から、一匹の狼の魔物が襲いかかってきた。
「……っ!」
咄嗟に兄は剣をしっかりと握り直すと、左手でマルスを剣が当たらないところまで強引に押しやる。マルスは足に力が入らないせいもあり、その拍子によろけて尻餅をついてしまった。
「兄さん!」
マルスの視界には、兄に飛びかかる狼と剣を構える兄の姿が映っていた。その一瞬先の展開を恐れたマルスは目をぎゅっと瞑る。
「はぁッ!」
兄の声がしたかと思うと、何かが斬れる音と断末魔が聞こえた。
マルスが恐る恐る目を開くと、兄の前に二匹の血まみれの狼が倒れているのが見える。
それをマルスが見たのと同時に、二人の前に立ちはだかる男が喋り出した。
「ほう……その歳にしては、なかなか良い剣の使い手だな」
低く響いてくる男の声は、怯える二人とは正反対に至極穏やかなものだ。
「……お前……何者だ!?」
兄は声を荒げて問うが、男は質問に答えない。
「質問に答えろ」と兄が言いかけたその次の瞬間だった。男は突然姿を消したかと思うと、一瞬のうちに兄の目の前まで来ていた。
「……ッ!」
兄は反射的に眼前の男を狙って剣を振るう。
だが、眼前にいたはずの男の姿はどこにも無く、剣は虚しく空を斬っていた。
「なっ……!?」
「こっちだ」
驚きに目を見開く兄に向け、彼の右側にいつの間にか移動していた男が魔力の刃を放った。
「くっ……!」
兄は何とかそれを剣で受け止める。
しかし、男の魔力はあまりに強大だった。剣が軋むような音を立て、兄の体はじりじりと後方へ押されていく。
拮抗していたのも束の間、とうとう強大な魔力に耐えられなくなった兄の剣が、音を立てて折れた。
「うぁ……ッ……!」
兄は咄嗟に身を引いてかわそうとするが、魔力の刃と自身の剣の破片が頬を掠めた。鋭いそれらは兄の頬に傷を作り、頬から赤い血が滴り落ちる。
よろけてしまった兄に間髪入れず、男は魔力を集中させた右手で彼の腹に触れる。その瞬間、右手に集中していた魔力が爆発するように放出され、衝撃波が兄の腹部を直撃した。
「がはッ……!」
兄は苦しげな声を漏らして血を吐くと、その場に倒れ込んでしまう。
「兄さん!」
目尻が切れてしまいそうなほどに目を見開き、マルスは叫んだ。見開いた瞳からは、恐怖への涙がより一層溢れてくる。
男は小さく笑みをこぼすと咳き込んで血を吐く兄のそばへ歩み寄り、兄の体を軽々と抱え上げた。そのまま呆然としているマルスに背を向け、どこかへ去ろうとする。
それを見たマルスは、考えるよりも先に体が動いていた。
「兄さんを放せ……ッ!」
足の力が完全に抜けているマルスは、咄嗟にその辺に落ちていた石を男に投げつけた。
石が男の足に当たると、男は歩みを止め、マルスの方へ顔だけを向けた。
「弱い者に用はない」
男はそう言ってマルスに向けて手をかざすと、男の手から衝撃波が放たれた。その衝撃は、まだ幼いマルスの小さな体を吹き飛ばす。
「うッ……!」
地面に叩きつけられ、体中に鈍い痛みが走る。だが、それでもあきらめずに男のもとへと這いずって向かう。
「兄さん……兄さん…っ……」
震える声で必死に兄を呼ぶ。男は目を細めるともう一度、マルスに向けて手をかざした。
だが、男が再び衝撃波を放とうとした瞬間、兄が僅かに残った意識と力を振り絞って男の手を掴み、マルスから逸らさせた。
「マルスに……弟に、手を出すな……!」
その声には怒気と殺気とが混じり合っていた。
男は兄の反抗的な態度を面白がるように微笑を浮かべると、マルスに向けてかざしていた手を下ろす。
「ふん……こんな弱い生き物、殺す価値もないな」
男はそう言うと、マルスから顔を逸らして再び歩き出した。
「兄さんっ……兄さん……!」
「マル、ス……」
闇の向こうへ消えていく男と兄の姿。
マルスが最後に聞いたのは、消え入るような兄の呼び声だった。
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