水縹 こはる



「もう勝手にしたらいいよ!」


 苛立たしげに箸を置く音が、二人だけの一軒家に鋭く響く。あかりは階段を駆け上がり、ばたりと大きな音をたてて自室に閉じ籠った。


「待ちなさいあかり!」


 父の叫びにこたえる者は誰もいない。冷房の音がやけに耳障りに響いて、残された夕食を冷たくしていた。



 陽が高くなるにつれて、裏の広場は活気を帯び始めた。子どもたちが無邪気にはしゃぐ声と、祭りに乗じて昼から酔っている大人たちの下品な笑い声が聞こえる。


「あほらし」


 あかりは不機嫌そうに鼻を鳴らして、ベッドにもぐりこんだ。冷房の効いた静かな部屋と、うだるように暑くて騒がしい広場は、窓ガラス一枚で隔てられた別世界で、そこから目をそらすようにかたく目を瞑る。


「お父さんの馬鹿」


 くぐもった怒りの声を、彼女のぬいぐるみだけが聞いていた。


 ―ガチャン―


 一階の玄関の方から、カチャカチャと鍵の音を鳴らして誰かが帰ってくるのが聞こえた。その重たい足音は、小太りの父のそれだ。どうやら何かを探しているようで、真下の和室からあーでもないこーでもないと、騒がしくしている父の声がする。


「うるさいな。ほんと空気読めないんだから」


 あかりは布団を頭の上まで引き上げて、父の声を遠ざけた。

 それだけで少し心が落ち着いた気になって、暖かい布団に身をまかせようとしたその時、


 ―コンコン―


 と、眠りを妨げるものが部屋の前に現れた。どうしてこうタイミングが悪いのか、今は父に関するすべてがあかりの心を苛立たせた。父や、ぐちゃぐちゃな気持ちや、もっといろんなものから隠れたくて薄い布団をギュッと抱き寄せた。

 はやく仕事に戻れば、と心の中で悪態をつきながら、ついいつもの癖で半開きにしたままの自室の扉のことが頭をよぎった。喧嘩してからというもの、ぴたりと閉ざしていたのに、痛恨のミスだ。

 父が入ってくるかもしれない、そう思いながら、布団の壁越しに外をうかがっていると、


「本当に祭りには来ないのか?きっとあかりも楽しいぞ、来ないと損だ」


 と、ドア越しに話しかけているようだ。あかりは正気かと、人の心はないのかと疑った。どうして今、娘を前にして、その言葉が出てくるのか理解できなかった。父への嫌悪は一層色を濃くして、重たい沈黙が二人の間を隔てた。

 しばらく無視していると、父はあきらめて部屋の前から消え、玄関のドアの音を鳴らして出て行った。

 あかりは、いやに早鐘を打つ心臓を押さえて、ゆっくりと目を瞑った。

 外ではアブラゼミが何か言いたげに騒いでいる。


 ―カチャン―


 と玄関の方でまた音がした。これで三回目だ。先ほどより少し控えめな音は、寝ている娘を気遣ってのことだろう。そういうところが、どうしようもなく父らしくて嫌だった。

 あかりは、父に聞かれないようにゆっくりとドアを閉めて鍵をかけた。

 布団にうずもれていると、考えたくもないのに父のことばかりが頭を満たす。


 父は昔からそうだった。常に誰かに気を遣い、他人が困っていると考えなしに助けて、頼られると断れない、小心者で、変なところで頑固な人だった。それでもその頃の父はまだ周りをよく見れていた。誰にでも優しく、様々な人から感謝される父は、あかりにとっては誇りでもあった。母も父のお人よしに苦言を呈しはするものの、不仲というわけではなかった。

 しかし、そんな都合のいい人間の未来がどうなるかなんて、火を見るよりも明らかだ。一度醜い人間に付け込まれれば、どのような汚い手にも使われる。それが人の頼みを断れないイエスマンならなおさらだった。

 父は利用された。不動産屋や保険会社、旧友や親戚にまで父は都合よくつかわれ、厄介ごとを押し付けられ、挙句借金の片棒まで担がされた。父の「人当たりのいい」は「扱いやすい人間」のレッテルに変わり、さすがにどうかしていると、両親は顔を合わせるたびに喧嘩していた。幼いあかりは見ていることしかできず、手の届かない所で崩れていく幸せをただ眺めていた。

 母はいつも、

「お父さんは少しおかしいのよ。家族のことなんてどうでもいいの」


 と、幼いあかりによくこぼしていた。その時は母が何を思っているのかよくわからなかったが、ただ仲直りしてほしい一心だった。

 今になってようやく分かったが、父は確かにおかしい。家族のことなど見てないと言われても否定できるはずもない。今日というこの日に、わざわざ予定を入れて、一人娘の願い一つ忘れる男に、だれが家族思いと言うのか。憤りは身体を熱く上気させ、冷房の風が娘を現実に引き戻した。


 しばらくあかりが目を閉じていた間、一階では絶え間なく物音がしていた。あかりの部屋からは正確にはわからないが、一階の両親の寝室や、リビング、父の書斎や真下の和室など、初めは静かなものだったが、次第に大きく音をたてて大捜索しているようだ。几帳面な父にしては、ずいぶんと長いこと探しているな、と不思議に思っていると、


 ―ガタンッ―


 と外で室外機が鳴るのが聞こえた。最近ずっとつけているせいか、ここ数日は大きな音をたてて調子の悪そうにしている。しばらく放っておくと直るのが常なので、布団にくるまり直し、また目を閉じると、さっきまで騒がしくしていた一階の音が、室外機の荒ぶる音にかき消されてか、あまり聞こえなくなった。これはいいと、また眠気に身を任せた。

 そろそろ、意識もとろけはじめ、瞼の裏に世界がつくられ始めたとき、


 ―ミシミシミシッ―


 と、一階の階段の傷んだ二段目が音をたてた。また父が来るのか、とため息をもらし、より拒絶するように体を丸くした。


 ―ギシギシッ、ミシミシッー


 と、音をたてて父が二階へ近づいてきた。聞こえるわけもないが寝息も聞かせたくないと、息をひそめた。

 しかし、意識していたのも甲斐なく、父はほかの部屋でまた、ゴトゴトと探し物をはじめた。どうやら本当にどこにあるのか忘れた様子で二階にある部屋も一階同様ガタガタと探し回っていた。しばらくは無視をしていたが、少しすると、あかりの部屋の前で騒がしい足音は止まった。また何か小言を言われるのだろうから音楽でも聴いて無視しよう、と枕元にあるイヤホンに手を伸ばした時、


 ―ガチャガチャガチャッ!―


 と、あかりの部屋のドアを乱暴にこじ開けようとでもするように、ドアノブが荒ぶった音をたてた。

 あかりは気味悪く感じた。父には珍しく荒々しい様子だったからだ。よほど気が立っているのだろうか、長い間そうしていてしばらくしてようやく諦めた。様子を確認しに行きたくなったが、少し怖気づき実行はしなかった。父は隣の空き部屋に向かったようだ。

 何か急ぎの用事だろうか、あかりは隣の部屋にいる父に思いをはせた。どうしてか、母が家を出ていく日のことを思い出していた。


「本当についてこないのね?私とくれば…」

 母は最後まであかりを連れて行こうとしたが、あかりは嫌がった。子ども心に、このまま母についていくと二度と父に会えないとなんとなく感じていたのだろう。そのとき父は痛いくらい強くあかりの手を握って向こうを向いてた。そういえば、あの日もこんなふうにセミのうるさい真夏日だった。だからこんなことを思い出すのだろうか。


 布団の隙間から冷気が忍び込んできて、ゾクッとして目が覚めた。懐かしい夢でも見ていたようだ。布団にくるまっていたせいか、額や首元などが汗で湿っていた。布団の中はじっとりと温い。額の汗は頬へと流れ、髪を濡らし張り付かせていた。左手で頬の汗をぬぐい、布団から足だけ出して、隙間を開けた。そら寒さが急速に中を冷やし、あまりの温度差に鳥肌がプツプツとたった。音もなく静かなこの部屋はどこか不気味さを漂わせていた。

 隣の部屋にいたはずの父の気配がいつのまにか消えている。もうすでに家を出たのだろうか、一人の一軒家の静けさは、細い娘の背筋を凍らせた。

 あんな父でも役に立っていたのだ、娘は少し言いしれぬ思いを感じた。そう思えば、父はいつも娘が下校してくる時間から数時間たたず帰ってきていた。父なりの気遣いだったのだろうか。娘はどうにもこの前のことが胸に引っかかっていた。

 約束を忘れていたのは父だ、そこに言い訳の余地はない。それにただの約束ではない、それにも関わらずまた、例の如く断れず、祭りの会長を押し付けられてきて、帰ってきて言った一言は、

「お前も祭りに来たらいい」

 だった。さっきのさっきまでその怒りでカンカンに熱されていたが、冷たい空気は怒りもさました。

 父は今頃午後から始まる盆踊りの準備に取り掛かっている頃だろうか。父のことだ、また面倒事ばかり押し付けられているのだろう。汗だくになりながらこき使われる父がありありと想像できて、しかたないなと笑みがこぼれた。


 父に謝ろう。もちろん最初に謝るのは向こうだが、家族なのだ、喧嘩するだけなら他人とでもできる。父とぶつかるためにこの家に残った、話し合うために残ったのだ。娘はひそかに決心をした。

 そうと決まれば善は急げだ。布団の中で心の準備がてら体を伸ばした。凝り固まっていたものが緩んでいくのが少し痛くて心地よかった。

 湿った空気を抱き込む布団を向こうの方へ放りやった。新鮮な空気が肺を満たし、急激に体温を下げた。冷房の電源を切り、徐々に夏が部屋に忍び込んできた。室外機を休ませたおかげで、外の音がよく聞こえた。ベランダ越しの道路からは人の声は聞こえず、家の裏の広場の方では、ご近所中の人が集結したかのように騒がしくしていた。

 あかりはまだ少しだけぼんやりする頭を振って、目を覚ますためにベットから立ち上がり、薄暗い不健康な部屋に日光を取り入れようと窓の方に視線をやった。


 祭囃子が鳴り始める。夏の空は涼やかな青に朱を差し始め、祭りは最高潮に向けて熱をあげる。ツクツクボウシとヒグラシは小競り合いし、人々の喧嘩や笑い声が近隣を彩る。じりじりと暑い日差しは世界を焼き、重たい空気が立ち込める。

 誕生日の夏空は遠慮なく照り、強い光でもってあかりの部屋の窓に濃い人影を落としていた。

 ―ピーヒョロロ―

 と笛は鳴り、

 ―ドンドドドン―

 と、太鼓が続けてなっていた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「もう勝手にしたらいいよ!」


 娘が顔を真っ赤にして言った。何かが喉の奥に詰まっているような気がして、声が思うように出ない。

 二階へ駆け上っていく娘の背をしばらく見守ることしかできず、ようやく出たのは、


「待ちなさいあかり!」


 などという、娘に届くはずもない力のない一言だけだった。



 今日はこの地域で毎年行われる地蔵盆の日で、毎年この日は自治体総出の一大イベントとなる。洋介はその祭りの会長を務めているが、娘を家において仕事をしていることに後ろめたさを感じていた。

 祭りの準備をしていると、テントややぐらを建ててくれている若者たちが六角レンチがないとかで、騒いで喧嘩していた。昼間から呑んだくれているオヤジ達が喧嘩をはやし立てるのを止めて、家が近所なので持ってくる、とその場を収めた。


 家に帰り、鍵を玄関の鍵置きに置いた。二階の方に目をやるが、静かに、ただ暗闇に包まれていた。

 あまり工具の類は使わないので探すのに少しもたついた。六角レンチを見つけると、遅くなってまた喧嘩が再開なんてしたら大変だ、とすぐさま玄関の方へ向かった。玄関まで行くと、ふと足が止まった。

 なんとなく声をかけておかなければならないような気がした。洋介はそのまま二階へ上がり、娘の部屋の前で立ち止まった。日頃の癖なのか扉が開いていた。入ることもできたが、これ以上怒らせたくはなかったし、何より勇気がなかった。

 謝ろう。今日の予定を教えよう。だけど断られるかもしれない。そんなことを考えていて出た言葉は、


「本当に祭りには来ないのか?きっとあかりも楽しいぞ、来ないと損だ」


 という、反省のかけらもない言葉だった。続けて言い訳をしようと思ったが、なんだか娘の部屋が洋介を拒んでいるようにおもわれて、踵を返し祭りの会場に帰った。

 外に出ると、アブラゼミが責めるようにして騒いでいた。


 祭りの準備は六角レンチ以来騒ぎも起こらず、滞りなく午後の部までの準備は終わった。頼んでいたとおり向かいの家の村瀬さんに仕事を引き継いだ。仕事はあらかた終わらせて、あとは午後の盆踊り開始の挨拶と本部で座っているだけの仕事だけにしておいた。

 何度か村瀬さんに頭を下げて、祭りの会場を後にした。続々と増えていく子どもたちの騒ぐ声と、またどこかで喧嘩でも始まりそうな怒号に背を向けて、昼夕の風流が大合唱している中、小走りで家路についた。祭囃子が遠ざかり、笛が小さくなっていく、


 ―ドンドドドン―


 と、太鼓の鳴る音だけがやけに耳に張り付いた。



 家のドアに手をかけると、


 ―ガチャン―


 と、ドアノブが無抵抗にこうべを垂れて、洋介を家に招き入れた。

 鍵をかけ忘れたのだろうか、と鍵置き場に目をやると、洋介の鍵についている、年不相応な女児向けのウサギのキャラクターのキーホルダーがこちらを睨んでいた。

 祭りで急いでいたとはいえ、不用心だった。抜けているところは妻たちにもさんざん言われた洋介の欠点だ。一人反省してリビングへ向かうと、部屋はレンチを探して散らかったままだった。空き巣にでも入られたかのように家中ひっくり返しになっていて、そんなに焦っていたっけなと苦笑がこぼれた。

 急いでいて落としたのだろう、地面に落ちた写真立てを拾い上げた。私たち家族にしては珍しく皆が満面の笑みで写っている写真だった。洋介がこの写真を気に入っているのは、あまり笑わなくなった娘の笑顔が思い出せるからだった。

 何かから覚めたような気がしていた。長いこと自分だけを見てきて、自身の周りに目を向けられていなかった。いつも押し付けられる誰でもできるようなことでなく、父である洋介にしかできないことがあるとようやく気付いた。

 もう遅いのかもしれないが、もう一度ちゃんと話をしよう。この写真を撮った時、ぐずってなかなか公園に行きたがらなかったのに、行ったら行ったでこんな風に楽しそうにしていたこと。あかりが生まれた時のこと。妻のこと、これからのこと。長くなるかもしれないが、そのために時間を作ったのだ、覚悟を決めて洋介は階段へ向かった。

 娘が寝ているかもしれないことを気にして、二段目の傷んだ階段を踏まないように気を付けて、ゆっくりとのぼって行った。冷房を切って出た家はサウナの看板を立てれば一儲けできそうなくらい蒸している。さっき向こうで差し入れにもらったスポーツ飲料は、滝のような汗になって出てきた。シャツは汗で張り付き、喉はパリパリと音をたてそうなほど乾いている。蒸気した夏は上に留まり、二階は一階よりも暑くなっていた。ここ最近調子が悪いのか、いつも聞こえる娘の部屋の室外機の音が聞こえない。冷房を消しているのだろうか。熱中症になるかもしれないと、娘を心配し、速足で娘の部屋前まで行った。


 ―コンコンコン―


 ノックをして声をかける。


「あかり?起きてるか?実は父さんお仕事午前だけにしてもらったんだ。」


虚しい沈黙が辺りを満たす。


「あれから色々考えて、あかりと、ちゃんと向き合わないといけないとやっと気づいた。」


静かな廊下は不気味で、蒸し暑い。ドアの先は、物音一つたてず静まり返っている。


「遅くなってすまない、ただこれからは私はお前たちの為に生きようと思っているんだ。私はどうにも自分のために生きるのは性に合ってないらしいんだ」


 洋介の問いにこたえる者はいない。


「……あかり?寝てるのか?あけるぞ」


 もしかしたら本当に熱中症で倒れているのかと心配になった洋介は返事を待たずにドアを開けた。


 むわっ、とこもっていたぬるい空気が肌に触れる。電気もつけずそんなところに転がって、やっぱりまだ怒っているのだろうか。


 洋介は手を伸ばした、娘に似たナニカに。


 正確には顔の部分が潰れてしまっていて、娘かどうか判断できない。薄ももいろのベッドは所々色を濃くして、娘を沈めていた。さっきまで上気していた身体を、恐怖が血に交じって全身を冷やしていく。蒸した部屋は、鉄のにおいで満ちていた。


 洋介は半裸にされ、弄ばれた痛々しい娘を胸に寄せ、声にならぬ声で慟哭した。乾いた喉は震えることなく、憎しみだけが響いていた。

 不気味な静寂に満ちた箱には、惨めな親子があった。力なく娘を抱く父は、朦朧として歪んだ天井を仰いでいた。天から落ちる棒状の影は、皮肉にも娘と洋介をもう一度引き逢わせた。


 ―ドドドンドドドン―


 と、太鼓は軽快にテンポをあげて、祭りは温度を上げていく。ヒグラシの声は祭りの活気にかき消され、夏の蜃気楼は、世界を一段とぼかしていく。


 ー終ー

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水縹 こはる @mihanada

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