secret base ~私と彼の秘密~

灰ノ木朱風@「あやかし甘露絵巻」発売中!

せんせい、大好き

 私の好きな人は、私の先生。


 初めて会った時、心臓が止まるんじゃないかと思った。だって、男の人とは思えないくらい綺麗な顔をしているんだもの。

 高等部の入学式の日、桜の木の下で皆に赤い薔薇のついたリボンを配る先生を見た時から、私はずっとずっと、先生が好きだった。その直後に先生が私のクラス担任だと知って、そりゃあもう飛び上がらんばかりに喜んだんだから。


 先生は国語の先生だ。本来の専門は中古文学らしいけど、学校では現代文を教えてる。初めて話したのは、入学式直後のクラス単位のHRホームルームの後の休み時間。相澤小春あいざわこはるさん、と丁寧にフルネームで声をかけられた。


「きみは、11月生まれ?」


 その言葉が、とってもうれしかったのを覚えてる。


「初めて正解する人に出会いました」

「そうなのかい? だって小春と言ったら陰暦の10月、今で言ったら11月くらいだろう」


 小春日和って言葉もあるしね、と微笑んだ先生の顔は、穏やかな春の日差しのようだった。


「じゃあ、僕は何月生まれかわかるかい?」

「えっ?」

「先生の名前はね、中野葉月なかのはづき。……ちゃんとHR聞いてた?」


 一瞬黙ってしまう。でも、前半の質問の答えはすぐにわかった。


「……8月生まれですか?」

「正解。きみの名前と違ってひねりがなかったかな。小春……いい名前じゃないか」


 先生の柔らかそうな髪を、春の風が撫でる。


 どきん。

 この瞬間、私は本当の意味で先生に恋をした。温かい声、知性を映す瞳、優しい口元。全てが美しくて、先生は春の精の化身なんじゃないかと思ったの。――8月生まれだけどね。

“小春”という名前からこれまで色んなところで春生まれ?と聞かれてうんざりしてたけど、紛らわしい名前をつけた両親にこの時生まれて初めて感謝したものだ。


 そう。恋って単純なもの。

 それからの私の学校生活はまさしく薔薇色だった。少しでも先生に近付きたくて、これまでそれほどでもなかった読書が私の趣味になった。おすすめの本を紹介しあい、たまに感想を言い合ったりして。そうして私達は徐々に距離を縮めていった。文学青年の先生はモテそうな見かけに似合わず純情で。ちゃんと言葉に出して「好き」って言ってくれるようになったのは一緒に暮らし始めてからだけど、だからこそその言葉のひとつひとつに重みがある気がして、私はうれしかった。


 そう……何を隠そう私――相澤小春と中野葉月先生は今、ひとつ屋根の下で暮らしているのです!



 これは誰にも知られてはいけない、私と彼だけの秘密。



 大好きな人と一緒の暮らしは、幸せと同時に驚きの連続だ。

 格好良くって頭も良くて、パーフェクト・ヒューマンの権化みたいな先生だけど、家では私がお世話をしてあげないと本当に何もできないダメ人間だ。たった今も、朝起きる時間はとっくに過ぎているのに小さくなったまま動かない先生を私が起こした。そうして、まだ疲れが抜けない様子でぼうっと微睡んでいる先生に水を差し出したところである。そんな見た目に反して可愛らしいところも大好きなんだけど、最近の先生はどうも寝不足気味らしい。

 でもそれはその……うん。私も同じ。好きな人が同じ屋根の下にいると思うと、毎晩緊張でなかなか寝付けないもの。


「せんせい、ほら、お水飲んで」

「ん……」


 私があーんとコップを口に近付けると、先生は仔猫のように顔を近付け、こくりと口を付けた。その可愛らしい動作とは裏腹に、男らしく喉仏が上下するのを間近に見て私は思わず赤くなってしまう。


「せんせい、美味しい?」


 ぴったりと寄り添いながら水を飲む先生を眺めていると、緩慢な動作で飲み干した先生は私を見つめて深い息を吐いた。


「こんな状況、世間が知ったらどう思うか……」


 最近の先生の口癖だ。そりゃあそうよね。私達は世間から見ればどこにでもいる平凡な女子高生と高校教師で、でも悲しいかな、この関係は今のところ立派な犯罪だもの。心配するのは当然だ。


「ふふ、それなら心配いりませんよ」

「きみのご両親だって、」

「もうっ! せんせいったら。そういう話は無しにしましょうって言ったでしょ?」


 私はしぃっと先生の口に人差し指を当てると、その言葉の続きを奪い取った。私の意地悪い笑顔に、先生はその端正な顔を崩す。


「きみは悪い女だ」

「せんせい、 私はきみじゃない。小春って呼んで下さい」


 私がムッとしながら頬を膨らませると、先生は観念したように小さくその名を零す。


「……小春……」


 先生が私の名前を呼んでくれる。それだけで、私の心は幸せでいっぱいになるんだ。照れずにいつも名前で呼んでくれたらいいのに。


「せんせい……葉月さん。好きです」

「……僕も、だ」


 ああどうして、先生の言葉はこんなに私をドキドキさせるんだろう。


「せんせい、朝ごはん置いておくからちゃんと食べてね。――いってきます。また後でね」


 私は少し屈んで先生に口付けると、階段を上り玄関へ向かった。


 私は年下だけど、先生の役に立てるのは私だけなんだから、もっと頼ってくれればいいのに。私は先生のためにできることは何でもしてあげたいって思っているんだけど、流石にそれは大人のプライドが許さないらしい。まったく、素直じゃないんだから。


 そんなことを考えながら靴べらでローファーに踵を押し込んでいると、慌てて廊下の向こうから彼が追いかけて来る足音が聞こえる。


「何?」

「何じゃない。いってらっしゃいの挨拶をしていないだろう。最近ゆっくり話をしていないから寂しいんだよ。調子はどうなんだ?」


 大理石の床の上で呆れた調子で仁王立ちするのを横目で見ながら、私は嘆息した。


「まったくもー、心配性なんだから」

「当たり前だろう。きみは大切な……」

「はいはい。相変わらずの毎日よ。心配しないで」

「まさか、他の男に目移りなんてしてないね?」

「も~、するわけないでしょ! 私はせんせい一筋なんだから」

「その言葉を聞けたなら、安心だ。……小春、愛してるよ」

「私も」


 彼がぎゅっとハグしてきたので、私もその大きな背に腕を回すと、ぽんぽんとその背を叩いた。


「いってきます」


 もう一度そう言うと、私は黒い革の通学鞄と共に駆け出した。



 ■□■□■



「小春、おはよー」

「おはよう、今日も暑いね」


 私が校門の前で車から降りると、ちょうど待ち構えていたようにクラスメイトの美樹が立っていた。初夏の日差しが射るように私の目に飛び込んでくる。それを遮ろうと頭上に手を翳すと、美樹もセーラー服の胸元を大胆に広げながらばさばさと風を取り込んでみせた。


「ねえねえ昨日、ヤマトくんの新作上がってたんだけどさあ」


 ヤマトくんとは最近SNS界隈から出て来て人気急上昇中のミュージシャン兼配信者らしい。美樹は自分の“推し”について誰かに話したくてしょうがなくて、私を待ってたのだろう。


「それでね、ヤマトくんが配信中にその激辛スナックを食べちゃってさ~! まじ笑ったんだけど」

「うん」

「新曲も神曲って感じで」

「へえ」


 そんなたわいもない話をしながら昇降口までの広い前庭を歩いてゆく。ごきげんよう、と誰かが朝の挨拶を交わす声が時折聞こえた。

 私と美樹の会話はいつもこんな感じだ。美樹が一方的にしゃべりまくり、私は適度に相槌を打つ。一緒にいて楽しいの?と聞かれることもあったけど、好きなものにも嫌いなものにも正直で、裏表のない美樹が私は好きだ。小学生の頃からずっと隣に美樹がいたので、最早彼女がいない生活というのも想像しづらい。


「はあ~、ヤマトくんがリアルに同じ学校だったらいいのになあ」

「うちは女子校でしょ」

「それー! まじで出会いが無さすぎるから素性不明の配信者とかにハマっちゃうんだよ! まあヤマトくんはカッコいいしイケボだけど」

「ふふ」


 美樹のうんざりしつつもどこか楽しそうな様子に、私は笑った。本当に、その通りだ。現に私だって、先生に出会うまでは恋なんかしたことなかったんだから。そして現在の私と先生のことは、美樹も知らない。

 私と彼。2人だけの秘密は、私の心をじんわり温める。私と先生はいつも一緒。その事実があるだけで、もう何も怖くない気分にさせられるのだ。今日の夕飯は何にしようかな、なんて考えていると、美樹は訝しげに顔を覗き込んできた。


「……小春、聞いてた?」

「ああ、うん。ごめんごめん」

「小春、最近変だよ? ――もしかして、中野先生のこと……?」

「えっ! そんなわけないじゃん。気のせいだよ!」


 私が慌てて両手を振ると、ならいいんだけど、と美樹はそれ以上聞いては来なかった。美樹は私が先生を好きなのだということを知っている。もちろん、それ以上のことは知らないけれど。

 美樹はこれ以上聞かれたくないという私の内心を察したのか、来週からの期末試験に水を向けた。


「もうすぐ試験かあ。気が重いなあ」

「そうだね。でも試験が終われば夏休みだよ」

「小春は最近テスト順位いいもんね。いつの間に優秀な家庭教師付けたの? うらやましい」


 美樹の問い掛けに曖昧に笑うと、私は試験をひと跳ばしに夏休みへと思いを馳せた。先生と2人で出掛けることはできないけれど、8月になれば先生の誕生日がある。どんなお祝いをしようか考えを巡らすと、それだけで私の頬は綻んだ。



 ■□■□■



 私は元々、それほど勉強が好きでも得意でもなかった。特に現代文は苦手でしょうがなかった。だって、この時主人公はどんな気持ちだったでしょう?なんて聞かれても、そんなのわかるわけないじゃない!と思うでしょ。でも、先生は教えてくれたんだ。現代文のテストに必要なのは、感受性じゃなくなんだって。


「国語の教師として、こういう教え方をするのは本意じゃないんだけどね」


 先生はそう言いながら、私にコツを教えてくれた。


「現代文のテストで聞かれることは、きみがどう思ったか、という感想文じゃない。あくまで問題の本文に何と書いてあるかだ。『この時主人公はどう思ったか』と聞かれたら、それはそのまま答えが本文に書いてある。それを探すだけだ」


 この話を聞いた時、私は目から鱗が落ちる思いだった。そうして先生の言った通りを実践したら、それだけで国語の偏差値も順位もぐんぐん上がった。そして何故か、吊られるように世界史と数学の成績も上がった。

 世界史は、一時期先生が世界の神話や文化に関する本を勧めてくれていたので関連知識が身に付いたこともあるんだと思う。でも数学は何でだろうと思ったら、先生は「問題文をきちんと読み解いて論理的思考をする力が身に付いたんじゃないか?」と言っていた。先生は本当に私の神様仏様だ。


 今日も先生のことばかり考えているうちに、いつの間にか3限の現代文の時間。今日のテキストは梶井基次郎の「檸檬」だ。

 先生が黒板に国語教師らしい整った文字を書き連ねていくのを眺めながら、私は先生がチョークを持つ時の美しい指を思う。ああ、あの長い指で、優しく私に触れてくれたらどんなに幸せだろう、なんてよく妄想したんだよね。

 実はその辺りはまだ現実になってはいないんだけど、私はまだ高校生だし、その……。そこは焦らずゆっくりでいいと思う。少し前の私だったら先生のことが好きすぎて、この「檸檬」の主人公みたいに“えたいの知れない不吉な塊”に心を押さえつけられていたかもしれないけれど――でも、今は大丈夫。

 だって、私は先生のもので、先生は私のものだから。そう、自信を持って言えるから。

 私が上の空なのを見透かしたのか、板書を止めた先生がこちらに振り返った時、にやりと私の顔を見て笑った気がした。



 結局、主人公がなんで檸檬を爆弾にしてテロの妄想をしたのかは良くわからなかったけれど、先生が丸善という店は実在するぞ、東京なら丸の内が大きくてオススメだ、と教えてくれたことは心に残った。いつか覗いてみよう。


 次の4限は体育なので、美樹を含めたクラスメイト達はさっさとプールへ向かってしまった。私は日直なので黒板消しの仕事がある。白い粉を被りながら精一杯背伸びして板書を消していると、教卓でテキストをまとめていたはずの先生がすっと私の後ろに立った。


「先生? 何――」


 次の瞬間、だん!と音がして先生の両手が黒板に押し付けられた。そうして私は先生に背を向けたまま、黒板と先生の両腕の間の狭い空間に閉じ込められてしまう。


「先生、やめ――」


 私が驚いて身を捩ろうとすると、先生の熱い息が耳に掛かり、私の知らない男の匂いがする。


「ひ、人が、来ますから!」

「次の時間、2年は全員水泳だろ? しばらく誰も来ない」

「何なんですか急に!」

「お前がこんなに色気があるのが悪い」

「!?」


 先生が突然後ろから腕を掴んできたが、咄嗟のことに声が出なかった。


「こ、こんなことが知れたら、先生の立場が」


 私がなんとか震える声を絞り出すと、視界の端で先生の脂ぎった顔がニタァと笑った。


S女ここの理事長を知ってるか? いかにも気が弱そうな顔をして、なんと別宅に愛人囲ってやがる。いざとなったら理事長を脅してなんとでも揉み消してやるよ。……それにしてもなあ、相澤ぁ。なんでお前ひとりだけこんなにエロいオーラ出してるんだ? おとなしそうな顔して実は好きなんだろ? ――先生はなあ、2ヶ月前に臨時採用でこの学校に来た時から、ずうっとお前のこと狙ってたんだよ」


 先生のその言葉に背筋に悪寒が走る。


「やだ、やめて下さい、――!」


 私がようやくハッキリと拒絶の言葉を叫んだのと同時、教室のドアがガラリと開いて美樹が乗り込んできた。


「小春に何してるんだこのハゲデブ親父ぃいいい!!!!」


 陸上部で鍛えた美樹の強烈な回し蹴りが後頭部に決まり、丸々と太った小宮山先生はそのまま床に昏倒した。


「小春っ、大丈夫!?」

「美樹……! なんで、ここに」

「あんたが全然来ないから様子見に来たに決まってんでしょ!」


 そう言うと、美樹はがばりとセーラー服の裾をたくし上げた。下にはしっかり学校指定の水着が着込まれている。

 私がよろよろと教壇を下りて教卓にもたれ掛かると、美樹は仰向けに倒れている先生の頭を足先で小突いた。


「それにしてもコイツ、なんでこんな白昼堂々と犯行に及んだわけ?」

「……何かあっても、理事長が別宅に愛人を囲ってるのをネタに脅して握り潰させるつもりだったらしいよ」

「ハア!? ……ああそうか、小宮山コイツS女うちに来たばかりだから知らないのか……」


 そう。この小宮山先生は、最近この学校にやって来たばかりの臨時採用であるが故に知らなかったのだ。――その理事長が囲っている愛人の娘が、私だってことを。

 私と美樹は小等部からS女ここにいて互いの家を行き来したこともあるし、年季の入った教職員ならもちろん皆知っている。


「あの超絶イケメンの中野葉月先生の代わりがこんなハゲデブ親父でただでさえ心が荒んでるのに、まさかJKに手を出そうとするとは……! ほんと、早く中野先生に戻ってきてほしいよ。ねえ? 小春。今、なんだっけ?」

「……よく、知らない」


 私は美樹の問い掛けをかわしてふう、とため息をひとつ吐くと、頭に乗ったチョークの粉をぽんぽんと払い落とした。


「美樹、ありがとう。それからごめん、気分が悪いから今日はもう帰る……」

「ああ、うん。体育の園田せんせいには私から伝えとくよ。ついでに理事長にもこのこと報告しといた方がいいと思うよ?」

「そのつもり。車呼んでる間に理事長室行ってくるね」


 私はてきぱきと鞄に荷物をまとめると、美樹に手を振りながら教室を後にし、その足で理事長室へと向かった。



 ああ、気が重い。会ったばかりなんだけどなあ――。



 私はスマホで運転手に連絡を取りながら3階の理事長室に向かう。無駄に大きな両開きの扉をノックして名乗ると、ニコニコ顔のが執務椅子に座っていた。


「やあ小春。まさかきみがここを尋ねてきてくれるなんてね。パパが恋しくなっちゃった? 今朝のハグでは物足りなかった?」


 今にも抱きつかんばかりの様子に、犬にするようにステイ、と彼の前に掌を突き出すと、彼はしゅんとしたように革張りの椅子に座り直した。


 ――本当に、パパは子供みたいな人だ。


「もう、そんなわけないでしょ。……それよりパパ。せんせいの代わりに来たあの小宮山っていう教師、クビにして」

「ん? 中野くんと同じT大卒で、経歴的には申し分ないと思ったんだがなあ。何か問題あったか?」

「問題大有りです!!」


 私がかいつまんで先程起きたことを話すと、普段は年齢よりずっと若く見える柔和なパパの顔が歪んだ。


「ほう、それは……。クビにするだけでは飽き足らんなぁ。ちょっと知り合いに頼んで、身ひとつで太平洋あたりに旅に出てもらうことにしよう。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うからな……」


 遠洋漁船にでも乗せられてしまうのだろうか。


「私のせいで、ごめんなさい」


 私は珍しく素直にパパに頭を下げる。だって、先生は知らないだろうけど、私と先生の暮らしはパパの理解とバックアップの元に成り立っているのだ。私のしおらしい様子に、パパはいつになく真剣な面持ちでこう諭した。


「いいさ。だが小春、これでわかっただろう? ということは、思いの外難しい。きみが中野くんを想う気持ちが少しでも揺らげば、外からつけこんでくる輩が必ずいる」


 だからパパは今朝、私に聞いたんだ。

“まさか他の男に目移りなんてしてないね?” ――と。


「大丈夫。わたしはせんせいが――葉月さんが好き。この気持ちは一生、誰にも揺らがせられない」


 私が決意のこもった瞳で真っ直ぐ見つめると、パパは優しく微笑んだ。


「ああそうか。なら、いい。ただし食事はしっかり与えるんだぞ? 後は時々日に当ててやらんと、精神を崩す。――お前の母さんのようにな」


 そう言ったパパの顔は少し悲しそうだった。その表情から、パパが今はもう亡くなってしまった私の母ママを愛していたんだっていうことが伝わってくる。

 私はパパのアドバイスを胸に刻むと、ゆっくり頷いた。


「うん、わかった。せんせいのお世話は私が責任を持ってする。今は私だけが、せんせいの世界の全てだから」


 私は満面の笑みで応えた。パパは満足げに首肯すると、少し後ろを振り返って3階の窓から校門の方を見る。


「ちょうど車が来た。今日は早退して、ゆっくり休みなさい。パパは今日そっちには帰らないけど――中野くんによろしくな」

「だめよパパ」


 パパの言葉に、私はしぃっと人差し指を口に当てた。


「せんせいには、パパのこと話してないもの。……ううん、この先私以外の人のことなんか、絶対耳に入れない」


 ――そうしたら、先生のすべては私のものでしょう?


 そう言って微笑んだ私を見てパパは、やっぱり小春はパパ似だなあ、なんて暢気に笑うのだった。



 ■□■□■



 人ひとりが暮らすにはもて余すほど広いこの家に、私とパパしか知らない“秘密基地”がある。私は寝室の横にある地下階段を下りると、何重にも鍵の掛けられた分厚い扉に手をかける。ズズズ、と重たい音をさせて開いた扉の隙間から身を捩じ込むと、そこには私の大切な人――先生せんせいが、項垂れたまま眠っていた。


「もう、朝ちゃんと起こしたのにせんせいったらお寝坊さんなんだから」


 私は無理に起こさないよう小さく呟いたつもりだったが、先生はその声にびくりと身をすくませた。同時にじゃらり、と金属の鈍い音が響きわたる。


「きみ……あ……あ……なぜ」


 先生が目を見開く。多分私が早退で早く帰ってきたから驚いているのだろう。 この部屋には窓はないが、日付のわかる電子時計が壁に掛けられている。日時の感覚がわからなくなると心が壊れやすくなるから、というパパのアドバイスに従ったものだ。


「せんせいに会いたくて帰ってきちゃいました」


 私がゆっくり先生の元へ歩みを進めると、先生は拘束された腕に繋がれた鎖を掴んでがちゃがちゃと鳴らした。


「く、くるな……来るな……!」

「もう、そんないじわる言わないで下さい。せんせい、ただいま」

「………」

「朝ごはん、ちゃんと食べなかったんですか?」


 先生の足元には、今朝私が残していった水の入ったコップと、昨日からことこと煮込んだ野菜たっぷりのコンソメスープがそのまま置かれている。


「もう、解放してくれ。こんなこと、世間に知れたら――」


 あ、ほらまた出た。先生の口癖。私は先生の口元に優しく指を押し当てると、そうじゃないでしょと首を左右に振った。


「せんせい、お帰りのキスして下さい」

「相澤……」

「小春、でしょ?」


 私が先生の首に繋がれた鎖をぐいと引っ張ると、先生は震える声で囁いた。


「……こはる……」


 ああそれだけで。先生が私の名前を呼ぶ、たったそれだけのことで私の心は満たされる。


「せんせい、私だけのせんせい。大好き。一生、大好きです」


 そう言って先生の頬にキスすると、先生が僅かに顔を強張らせる。それに合わせてじゃら、という金属が合わさる音が微かに聞こえた。



 先生が小春、と私の名前を呼んでくれる時のように。溢れる想いを告げた私の声も、抑えきれない愛しさで震えていた。

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