終章 流線
終章 流線
あれから一ヶ月経ったが、生活はあまり変わっていない。日常はそんなに穏やかではなく、ほとんど毎日、誰かが家を訪問してくる。自然と下校後は公園で時間をつぶしているので、簡単には両親と歩み寄れないでいる。
一つ前向きなことと言えば、兄に連絡を入れると早めに返信がくるようになったくらいだ。
九月の空は八月よりも遠のいていて、星が高い位置に見える。
ぼんやりと眺めていると、坂を下る足音が聞こえてきた。
「やっほー」
入り口から声をかけてくるのは響だった。夜空がプリントされたTシャツとバルーンスカートという出で立ちが、始まりの夜を思い出す。立ち上がる前に彼女から駆け寄ってきた。
「誕生日おめでとう、ヨダ」
九月二十日。今日は十五歳の誕生日。
まさか響が覚えているとは思わず、与鷹は照れくさくなって鼻を掻いた。
「ありがとう」
「そんで、志望校は決めたー?」
最近、彼女はこれを出会い頭に聞いてくる。せめて誕生日くらいは忘れさせてほしいものだ。
「あー、うん……三者面談は相変わらずすっぽかしてるけど」
「まぁねぇ。あんなことがあって、三者面談はまだきついよねぇ」
ケラケラ笑う響の声が、静かな公園内をにぎやかにした。そう笑ってくれると、気分は少しだけ上向きになる。
「でももうヨダだって十五歳だよ。九月が終わって、十月になって、十一月がくるよ。そしたらもう間に合わないじゃん。
「そうだね」
受験は乗り気じゃない。でも、時間は待ってくれない。あんなにぎくしゃくしている中で、進路を選んでいる余裕はない。
「紅林高校って校風が自由なんだって。文化祭も派手で楽しいよって、町田が言ってたよ」
「町田さんって紅林出身なんだ」
「そうそう。ついでに輝先輩もそうなんだよ。あたしは
「制服のダサさはポイントにならないんだけど」
あまりのくだらなさに吹き出しながら返すと、響は口を曲げた。
「ダサいかダサくないかで言えば、ダサくないほうがいいに決まってるじゃん」
その感覚は女子特有のものだろう。ピンとこないので曖昧に笑うしかなかった。
しばらく黙り込む。ぬるい風が二人の間を通り抜け、遠ざかる落ち葉を見ながら与鷹は緩やかに口を開いた。
「……ぼく、桐朋館に行きたかったんだ」
「え!? うわぁ、無謀すぎる……」
いつか自分も言ったような言葉が響から飛び出した。
「うん。市内でもトップだし、最難関っていうし。実際、ぼくの成績じゃD判定だから望み薄だし、そもそも私立高校に行けるお金がうちにはないし」
「ナオは通ってるじゃない」
「兄ちゃんは奨学金で行ってるから。それに特待制度もついてるし、
「ひぇぇ、優秀すぎて怖い……中身はあんななのに」
「それ、兄ちゃんの前で言ったら絶交されるからね」
忠告すると、響は「えへへ」となぜか照れくさそうに笑った。
「……紅林高校か。そっちもいいな」
「だったら町田先生を
「そうだね……でも、やめとくよ」
意を決して、与鷹は言った。手のひらをギュッと強く握る。
響はキョトンとした目で見ていた。
「ぼく、この町を出るんだ。高校はじいちゃん家のほうに行くよ」
しばらく、響は何も言わなかった。息を飲んで、息を吐いて、宙を見上げる。
「もう決まったの?」
「いや、全然。でも、引っ越すのは決まった。いま決めた」
もう揺るがないように、決意を拳の中に握りしめる。
響も引き留めようとはしなかった。
しばらく隙間風を受けて、与鷹はベンチから立ち上がった。公園内に立つ黒い時計が十九時を知らせている。
「じゃ、そろそろ行こっか」
響も心得たように後ずさる。それに続いて、与鷹はベンチを離れた。二人で並んで夜道を歩く。下り坂を道なりに進んで、
今日は流星が見えるらしい。そんな知らせを受けて与鷹はすぐに返信した。
絶対に行くと約束した。そのあとに切り出された話が、あまりにも現実感がなく、そして罪悪感を抱えることになった。今日まで気持ちは晴れやかではなく、むしろ
我竜は本日付で大学を辞める。
しかし、大学側からうながされたわけではなく自主退学だという。本当の事情は知らないが、彼が言い張るので信じるしかない。
「響ねーちゃん」
バスに揺られて、あの美の里大学までの坂道を上る途中、与鷹は重々しく口を開いた。
「こんなことになって、本当にごめん」
「ヨダはなんにも悪くないよ」
すぐに響の声が返ってくる。彼女は静かだった。顔は髪の毛に隠れていて、どんな表情をしているかは分からない。ただ、泣いてないことは分かる。
「先輩と話したよ。何度も引き止めた。でもあの人、一度決めたら飽きるまで貫くタイプみたいでさ、本当に頑固だったなぁ……もう決めたことだからって。手続き済ましたあとに言うし、ほとんど事後報告だったから、あたし程度の言葉じゃ引き止められなかった」
自虐を含んだ言い方が彼女らしくない。それくらいに憔悴しているから余計に胸が痛む。
与鷹は外を見やった。空は灰色を帯びており、東の空はもうとっぷりと濃い
刻一刻と夜の色へ塗り替わる空に、一番星を見つけた。山の中へ入り込めば、町の明かりが遠ざかって星がよく見える。
美の里大学前の停留所で降りれば、響と町田が住むアパートが見えてきた。それを通過する。まっすぐに上っていくと、懐かしい正門が現れた。ためらわず、くぐっていく。
平坦な道を歩いて、歩いて、歩いて。行き慣れた部室棟を目指す。気持ちが
古い部室棟の屋上に暗い人影が見えた。それに手を振ると、振り返してくれる。
「響ねーちゃん」
一歩遅い響に呼びかけると、彼女は穏やかに顔を上げた。腕をつかんで引っ張る。
「先輩たち、待ってるよ」
「うん」
つんのめる響の顔が笑う。そして、口角を大きく持ち上げた。
「よし! 行こっかー!」
二人は急いで部室棟を駆け上がった。
最上階まで行けば、響が先に脚立をのぼっていく。
その間、与鷹は天文部のドアを見つめた。一ヶ月前まで当たり前に出入りしてた扉が、もうよそよそしく見えてくる。響が上っていくと、天井から町田が顔をのぞかせた。
「よう、ヨダ坊。久しぶり!」
「久しぶり」
屈託なく笑う顔を見ると、それまでの憂さが解消していった。案外、気持ちが高揚している。脚立を上ると、我竜が手を差し伸べてきた。
「来たね、与鷹。こんばんは」
「こんばんは」
這い上がって屋上へ出るとレジャーシートが広がっており、そこに大きな天体望遠鏡が鎮座する。町田が響を引き寄せ隣に座り、与鷹に手招きした。
「特等席、空いてますよ」
「ありがとう」
すぐに響の横に座る。我竜はさっそく望遠鏡を独り占めしており、町田はクーラーボックスの中身を物色した。
「アイスもあるよん」
そう言って、彼女はアイスキャンディをみんなに配って回る。いつかの投影会を思わせ、誰からともなくクスクスと笑っていた。
「いやぁ、天文部らしいことをしてるよねぇ」
響がアイスキャンディの袋を開けながらしみじみ言う。
「でも結局、プラネタリウムは完成しなかったし。残念だわぁ」
町田が冷やかしたら、我竜が「んー」と名残惜しそうに唸った。しかし、望遠鏡からは絶対に離れない。
「まぁね。北極星がどうしてもぼやけたから、またやり直しだし。あのプラネタリウムは君たちに託すよ」
「やだー、そんなお願いを託さないでくださいよー。私ら、先輩みたいに理系じゃないんで」
すかさず響が言うと、我竜はようやく望遠鏡から離れた。
「響と与鷹が完成させてくれるって期待してるよ」
「えっ……そんな、荷が重い」
急に話を振られ、与鷹は口ごもった。その様子に我竜が詰め寄ってくる。
「おかしいな。約束したはずだよね?」
「え……」
「プラネタリウム、完成させるって」
「いや、それは……」
「僕、完成したのが見たいな」
「それは先輩がいなきゃ、意味がない」
堪らず早口に言うと、我竜が苦笑した。響と町田は笑わない。空を見上げて黙っている。少し、空気が冷たくなった。
「そう言われるとつらいな」
やがて、我竜は観念するように息を吐いた。そのおかげで、空気がわずかに緩んだ。
「僕もね、正直言うと完成させたかった。でも、間に合わなかった。結局、僕はあのプラネタリウムも自分の時間を止める道具にしてたんだよね……だから、途中で放棄することになったのは、素直に悔しいかな」
このまま続けて完成させてほしい。冷やかしてはいるが、きっと町田も引き止めたはずだ。それでも、彼は辞める選択をした。もう揺るがない。どうしても
「……いい加減、大人になろうって思ったんだよ」
やがて、我竜は小さくつぶやいた。視線は星空を見ている。すぐに照れたような「あはは」が聞こえてくる。
「僕はね、純粋に与鷹と響を助けたかった。何せ、与鷹は死にそうだし、響は頑固だし。このままじゃダメなことは最初から分かってたからね。それに、僕自身もきっかけがほしかったんだ」
あの時に濁した言葉が唐突に浮かび上がる。大人になりたくないと願っていた彼もまた、一歩踏み出そうとしていたんだろう。
優しい目を向けられると、直視できなくなる。そらしてしまうと、我竜は次に響を見た。
「響、ごめんね。お前は間違ったことをしていない。でも、その強い正義感は自分自身を傷つける。だから、こんな荒療治をしたんだ」
「うん……分かってる。分かってます、先輩」
それを聞いて、響は急に咳払いした。顔を髪の毛に隠してしまう。泣いているのは明らかだった。これに、我竜は肩をすくめた。
「というわけで、今日は僕の送別会です。みなさん、快く僕を追い出してください」
「はー、しょうがないですね……」
町田がため息を吐いた。与鷹はどうにも笑えず、でも笑わないといけない気がして、顔に力が入ってしまった。夜でよかったと思う。
ふと、顔を上げると無数の流線が横切った。あっと声を上げれば、全員の目が上を向く。
はるか彼方にある無数の星々が引力によって渦を作り、生きている。そしてやがては死んでいく。そんな途方もない話を思い出した。
「……先輩はこれからどうするんですか?」
響がポツリと聞く。すると、彼はのんびりと緩やかに言った。
「そうだね……とりあえず、世界を見に行こうかな」
「はぁー? 何それ、世界進出!?」
すかさず突っ込むのは町田だった。この絶叫が場の空気を和やかにする。響が吹き出した。
「先輩、大人になるとか言いながら、結局やりたいことやるんじゃないですか。とんだ親不孝ものですねー」
町田の言葉はなおも冷たい。この非難に、我竜は不服そうに顔をゆがめた。
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど。自由すぎる」
「だって、世界の星空はすごいんだよ。南半球の空は一生のうちには拝んでおきたいし。就職はそれからでもいいでしょ」
町田と響はどうにも納得しないようだった。それでも我竜は曲げない。
響の言うとおり、一度決めたら頑固なタイプらしい。それも飽きるまでの間なのだろうが。彼の興味が尽きるまで、この決意は揺るがないんだろう。
「必ず帰ってくるから、だから与鷹も帰っておいで。そして、僕のプラネタリウムを完成させるんだ」
重たい願いを託されては、顔をうつむけるしかない。自信はまったくない。そんな与鷹の背中を、我竜が思い切り叩いた。
「ひとまずはそれを目標にしなよ。プラネタリウムを完成させたら、いろいろ決めたらいい」
なんだかその言葉は、こちらの悩みをも見透かすようだ。背中はじわじわと痛い。次第に鼻までがつうんと痛んだ。
涙目を空に向けると、また星が流れた。あの流線はどこから来て、どこへ向かうんだろう。分からない。
だったら、今は敷かれたレールに沿って歩いていく。いつかきっと、あの星のような流線を描いて飛んでいけたらいい。
「先輩!」
唐突に厳しい響の声がつんざく。
「なに?」
「最後にあたしのお願いを聞いて!」
「やだ」
素早く拒否する彼は、どうやら響の思惑に気がついたらしい。
「付き合って、とか言うんでしょ。その手には乗らない」
「あーもう! 心を読むなー!」
響は悔しそうに足をばたつかせ、我竜の背中に飛びつこうとした。ひらりとかわされる。そのまま与鷹の前に倒れ込んだ。その様子を我竜と町田が腹をかかえて笑う。
「もう、響ねーちゃん……」
手痛いとばっちりに文句を言うと、響は与鷹の肩に顔を埋めた。熱を感じる。
やがて彼女の顔が離れると、うっすらと涙の熱が染み込んでいた。その顔を見せまいと、彼女はすぐに立ち上がる。
「諦めの悪いところがあたしの長所なんですー!」
精一杯の強がりが、夜空の下で響き渡った。
そんな九月の夜は、夏よりも少しだけ寂しい。
〈完〉
流線を描いて飛べ 小谷杏子 @kyoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます