第9話 狂騒の檻

 慣れない白い天井と、鼻をくすぐる消毒液の臭い。太陽の臭いのするシーツと、窓から降り注ぐ木漏れ日。部屋に備え付けられた古い型のテレビが、最近の出来事について話している。

 左側から控えめなノックが三回鳴って、私は「どうぞ」と返す。ベッドから体を起こすと背中が鈍く傷んだ。

 引き戸を開けて入ってきた人物──病院服姿の黒藤が、片手を上げて挨拶をした。

「車椅子、要らなくなったんですね」

昨日までは車椅子での訪問だったのだが、今日の彼は松葉杖を借りつつも自分の足で歩いている。

「やっとな……ここの連中、大げさなんだよ。これくらいの切り傷、犬ならそろそろ散歩をせがむ頃合いだ」

「もし本当に飼い主が散歩に出したらどうするんです?」

「まあ説教だな」

「ダメなんじゃないですか」

動かなきゃ鈍るとぼやきながら黒藤は丸椅子に座って、腕に下げていたビニール袋から缶ジュースを一本差し出した。

「ささやかだが退院祝いだ。明日なんだろ?」

「ありがとうございます」

黒藤もジュースを開けて、二人で乾杯をして飲む。桃の甘い味と香りが口に広がる。味気ない病院食生活で、自動販売機のジュースだけが私達のオアシスだ。

「最初から最後までこのだだっ広い病室で一人ぼっちでしたよ」

「ま、過疎化の止まらない田舎の病院だしな」

六人部屋だと言うのに、他のベッドが埋まる事はついぞなかった。気を使わなくていいのは楽だが、娯楽もないから暇で暇で仕方ない。地元を遠く離れたこの土地では見舞いに来てくれる友人もいないし、あまりお金を持って来ていなかったから本も買えない。

 黒藤も似たような状況らしく、お互いにお互いが暇をつぶせる娯楽だった。

「私がいなくなったら黒藤さんが暇になっちゃいますね」

「俺も再三退院させろって言っているんだがな」

「黒藤さん内臓に穴開いたんですよ? 二週間じゃ無理ですって……」

私がそう言うと、黒藤が感慨深そうに「あれから二週間か……」と呟いた。

 二週間前のあの日、私達は土砂崩れに巻き込まれたらしい。連日の雨で弱っていた場所が一気に決壊し、私達の通っていたトンネルをも崩したのだとか。うっすらと救助されたことは覚えているが、詳しい事は搬送されたここの看護師に教えて貰った。

 どうやらそれを通報してくれたのは入山時に私に絡んで黒藤に追い払われたあの男性らしく、どんな出会いが私達の命を救うか分からない。

 医師も、看護師も、救急隊員も、私達に起こっていた奇怪な出来事について気が付いている人は誰一人いなかった──あれを認識していたのは、当事者である私達だけらしい。

 私はサイドテーブルに置かれた白い封筒に目をやる。

「狂犬病の検査、どうでしたか?」

黒藤は「陰性だった」と答えた。私もだと伝えれば、彼は短く「だろうな」と言った。

「結局……あれは一体何だったんですかね?」

病室で目覚めた黒藤は、まず私の名前を呼んだらしい。私もまた、目が覚めてまず黒藤の名を呼び、姿を探した。

 私達はあの建物に閉じ込められるまで、お互いに名前を教え合ってはいなかった。この病院で再会して、お互いの名前が一致していたことを知った時、あの悪夢のような出来事が夢ではなかったのだと確信した。

 けれど病は私達をむしばんではおらず、負った傷は全て「土砂崩れ」のせいになっていた。当然トンネルの中にも土砂の中にも施設なんて存在しておらず、私達の記憶意外にあの場所の痕跡は何一つなかった。

 まるで現実があれを夢だと言っているみたいだ。

 黒藤は一つため息を吐いて、それから口を開いた。

「従妹の高校の伝手で調べて貰った。欅田浩という生徒は、確かにあの学校にいたらしいが、八年前に渇根山の旧道で事故死している。遺体も上がっていて事件性はない」

彼の言葉に衝撃はない。何となくだが、予想は付いていた。きっと綾子も鹿島も、この世にはいないのだろう。

「あれは、俺達の理解の及ばない何かだった……としか言いようがないな。……もし逃げられなかったら、俺達も土砂の下で死んでいたんだろう」

「死にたかったですか?」

直球過ぎる私の言葉に、黒藤は虚を突かれたように目を丸くした。それから少しばつが悪そうに頭を掻く。

「そうだなぁ……まあ、ちょうど都合の良い理由があったしな」

私を理由にしようとするなんて、酷い人だ。それでも、あんな風に必死に守ってくれた全てが全て、打算だったのだとは思わないけれど。

「今も、死にたいですか?」

詰める言葉に、黒藤は私の顔を見た。

 私の手の中で、空き缶がペキと小さく音を立てる。

 短い沈黙の後、黒藤はどこか諦めた様な表情で肩をすくめた。

「まあ、助けた命に死なれると助けた側は割としんどいって事は……よく知ってる」

困ったな、と彼は言う。その言葉でやっと私は固く強張った手の力を抜いた。

困っているのか。困っているなら、丁度良い。

「じゃあ、私のために生きてくださいね」

そう言うと、黒藤は「あっさり言うよな」と呆れたように笑った。

「紀伊は、退院したら東京に戻るんだったか?」

「はい。これ以上仕事も休めませんから、明後日の便で戻ります」

当初の目的は果たせなかったが、慰霊公園も土砂で埋まってしまったというのだから仕方ない。それでも本懐は遂げた気がするし、心残りだったこの人も大丈夫そうだし。ならこれ以上この土地に留まる理由はない。

「黒藤さんは退院したらどうするんですか?」

「俺は……獣医は暫く休業のつもりだ。まあ、適当に旅行でもしてみるかな」

「でしたら、東京に来たときはご連絡くださいね。おもてなしします」

そうスマホを指さしたところで、軽いノック音が散開響いた。ゆっくりとドアが開いて、廊下から看護師の女性が顔をのぞかせる。

「黒藤さん、そろそろ診察の時間ですよ」

呼ばれた黒藤は少し面倒臭そうな表情を浮かべて席を立った。

「じゃあまたな」

そう言って、彼は松葉づえをついて部屋を出て行く。

 その後姿を見送りながら、私はぼんやりとあの施設へ思いを馳せた。

あの施設は燃えて消えたのだろうか? それとも……まだ彷徨い続けているのだろうか。それこそ私達の理解の外だと、黒藤なら言うのだろう。

 綾子は、あれを箱庭と呼び、永遠に彷徨う事を望んでいた。浩は生き延びる事を。鹿島は……本当のところは分からないが、きっと、生存を望んでいた。あの場所がまだどこか私達の知らない場所で残っているのなら、彼らは望み通り永遠の中で生きたフリを続けることが出来るのかもしれない。

 けれど願わくば、燃え尽きていてほしいと思う。本物の施設がそうなったように、何もかも壊れて消えてしまえばいい。

 あれは永遠の箱庭なんかじゃない。あれは檻だ。何もかもを閉じ込める檻。人も獣も狂わせる、暗い檻。

 そんなものは、全て燃え尽きてしまえばいい。


 窓の外で、木の葉の揺れる音がした。音につられて目を向けると、木の葉の隙間で小さな白が枝を伝っているのが見える。

 それはひたりと動きを止めると、私を振り返った。木陰の暗がりに浮かぶ小さな赤が私を見つめている。

 その対峙はほんの一瞬の事で、それは何事も無かったかのように再び走り始めた。

木の葉を揺らし、枝を伝い、そうしてどこかへ行ってしまった。



......fin

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狂騒の檻 加香美ほのか @3monoqlo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ