第8話 終幕

 ガチン、と固い音共に扉が震える。そしてそれは重くゆっくりと開いた。

「ガルルルルウルルルルル」

隔たりを無くした声が鮮明に響く。足元灯のわずかな光と共に細い腕が扉から入ってきて、それは私の襟首をつかむと勢いよく穴から私を引っ張り出した。

 強い力で床に引きずり出されて、咽喉が詰まる。目を開くと、暗がりの中でも爛々と輝く銀色の瞳と目があった。

「グルルルウルルルルルルルル……」

低い唸り声が腹に響く。剥きだされた白い牙が鋭く暗がりに浮かんでいて、本能が危険だと叫ぶ。けれど私は私をじっと見る銀色の瞳を見つめ返す。

「アレックス」

名を呼ぶ。興奮した彼は唸り声を止めない。

「アレックス!」

もう一度強く名を呼ぶと、銀色の瞳がついと目の前まで迫り、濡れた鼻先が私の頬に当たった。ひくりひくりと鼻が動いて、湿った暖かいものが私の頬を舐めた。

 一度舐めれば、もう何かを納得したのか二度三度と繰り返し舐める。唸り声はやみ、それはもう甘える犬そのものの姿だ。

 好きにさせてやりたいが、そうはいかない。黒藤と綾子を探さなければ。

「アレックス、お願い力を貸して」

声をかければ、彼はまるで私の言葉を理解したかのように「ゥオン」と穏やかに吠えた。

 とにもかくにもまずは黒藤を、と考え、私は彼の手がかりを探す。具体的には分からないが、かなりの時間が経ってしまっているはずで、もはや地下にいるのか一階にいるのかも定かではない。

 これだけ捜索しているだけあってさすがに見取り図は頭に入っているが、どこから探せばいいか分からない。

「黒藤さんを探したいんだけど……臭いで分かったりする?」

ダメもとでアレックスに尋ねると、アレックスは先ほど開けたダストのドアに鼻を近づける。少しの間ふすふすと呼吸を繰り返し、身を翻して今度は宙を嗅いだ。

「がふ」

やがて何かの臭いを見つけたのか、彼は私の手を取るとダーティ廊下を通り抜けてエントランスの方へと走り出す。

「グッジョブ、アレックス!」

私は早い彼の足並みに追いすがる様に足を踏み出しながら声をかける。父が愛犬を褒める時を真似して掛けた言葉に、アレックスは嬉しそうに白衣の下で尾を振った。


***


 エントランスに辿りついても黒藤はいなかった。アレックスは再び探すように鼻をひくつかせて、階段へと足を剥ける。

しかしそれは小さな声に阻まれた。

 ──キイ

 ──キイ、キイ

 ──キイキイキイキイキイキイキイ

 あっという間に声は集まって、群れを成す。暗がりの中で小さな爪が床を走る音が無数に響いて、赤い瞳がそこらじゅうでパチパチと瞬く。背筋を汗が伝う。隣でアレックスは唸り声を上げた。


 キイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイ、キイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイキイ


 集まる声が重なり合って耳に痛い。赤い瞳は私を見つめ、真っ直ぐこちらへと迫ってくる。真っ先に辿りついた鼠が足をよじ登り、私が払うよりも早く次々と鼠たちが私にとりつく。

 と、アレックスが身を捻って足元の鼠へ腕を振り落とした。大きな音を立てて何匹化の鼠が潰されるが、すぐにその上を別の鼠が駆ける。アレックスが何度腕を振り、足で蹴り上げたところで、寄せる波を止められないように、迫りくる鼠の勢いを殺し切ることが出来ない。

「アレックス! 行くよ!」

私はアレックスの手を引いて階段へと足を進める。私の足を登る鼠が数匹振り落されたが、耐えた鼠が私の身体を這う。

 手元に水のない今、ここで応戦しても多勢に無勢だ。いずれは飲み込まれてまた身動きが取れなくなる。

 階段を駆け下りていると、下から赤い光の帯が駆けのぼってくるのが見えて足を止める。鼠だ。帯状に伸びた群れを避けることは出来ない。飛び降りるにも高すぎる。けれど構わずに足を踏み出せば踏みつぶした鼠にバランスを崩されて転んでしまう。転べばその隙に飲み込まれてしまう。

 悩む間にも鼠達は押し寄せる。ままよ、と足を踏み出そうとして、それは空を掻いた。

 背後から両腕に腰を引き寄せられて、直後に浮遊感。階段に沿って斜めに切り取られた天井がぶわりと近づいて、離れて行く。大きな音を立てて身体全体を衝撃が襲って、そこでやっと私は階段を飛び降りたのだと理解が追い付いた。

 アレックスは私を降ろさないままに、私を片腕の中に抱え直すとそのまま走り始める。その速度は私が走るよりもずっと早い。

 アレックスは二秒ほど鼻を空でひくつかせると、ロッカー室への扉へと身を滑りこませる。

 素早く閉めた引き戸に鼠の群れが軽い音を立てて体当たりする。音は止むことなく鳴り続け、ぎ、ぎ、と引き戸が少しずつ開き始めた。引き戸では鼠の群れを完全には抑えられないらしい。

「ロッカーを倒して!」

扉をじっと見つめて唸り声を上げようとするアレックスの名前を呼ぶ。アレックスは私の顔を見ると、私を抱えるのとは逆の腕でロッカーを引き倒した。ロッカーは勢いよく引き戸に倒れ掛かり、開きかけていたドアが再び閉まる。その奥ではまだ鼠がドアに体当たりする小さな音がトトットトトッと響いていていたが、何百の鼠でもさすがにロッカーで押さえられたドアを開けることは出来ないだろう。

 アレックスは前を向き直し、脱衣室への扉をくぐった。

 消毒室からダーティ廊下への扉を開けると、強い消毒液の臭いが鼻を突く。アレックスが嫌そうに「くう」と鳴いた。

 ダーティ廊下へ出て先を見る。曲がり角を曲がった向こうから足元灯以外の灯りが漏れている。そこに誰かがいる。

「黒藤さん……!」

しかし再会の予感に安堵する間もなく、鈍い音が廊下の先から響き渡った。続いて綾子の悲鳴のような笑い声が鼓膜を震わせる。

 私が願うより早く、アレックスは床を強く蹴った。

 どたどたと何人かの足音がもつれ合い、重いものが倒れる音に続いて何か硬いものが折れたような音がする。近づくにつれて鼠たちの鳴き声と、それに混じって黒藤の唸る様な呻く様な声が低く耳に届く。床は消毒液で濡れていて、端にポリタンクが転がっている。

 曲がり角を曲がった先に見えたのは衝撃的な光景だった。

 黒藤の身体の半分が鼠の大群に囚われている。そばには可笑しな方向に足の曲がった綾子が笑い声を上げ続けながら転がっていた。その身体は液体で濡れていて、顔にはべったりと彼女の髪が貼り付いている。大群の中からは黒藤とは別に、白衣を着た人間の腕が二本突き出ていた。その手には鈍く光る鋏が握られていて、鼠に囚われて上手く身動きのできない黒藤へと真っ直ぐに伸びた。

「黒藤さん!」

私はアレックスの腕の中から飛び出して走り出す。けれど私が彼の元に辿り着くよりずっと早く、その鋭利な刃先は黒藤の腹を穿った。ぐち、と嫌な音が耳をつく。

「あ、ぐ、」

ひしめく鼠たちの鳴き声と綾子の笑い声の中で、傷みの滲んだ呻き声がやけにはっきりと響いた。綾子の声が一層高らかに上がる。

「ふふ、ああはははははははははははははははははははは!」

引き抜かれた腕の向こうで、じわり、と黒藤の灰色のシャツに赤が広がった。

 黒藤の身体が大きく傾いて、波打つ鼠たちの中へと倒れて行く。一瞬黒藤と目が合って、彼の顔は悲しげに歪む。しかし鼠たちは次の瞬間には黒藤を完全に覆い隠した。

 やっと追いついた私は黒藤に手を伸ばそうとして、しかし上から伸びてきた白衣の腕に首を捕まれる。ぎり、と強く掴まれた首が痛くて、息が苦しくて、身をよじるが振りほどけない。喉が、骨が、みしみしと悲鳴を上げる。

 鼠が私の身体をよじ登る。霞む視界の中で鼠から飛び出たもう一方の腕、鋏を握る腕が振り上げられて、私へと下されそうになった時、重く響く唸り声を上げてアレックスが鼠の塊へと突っ込んだ。私を掴む腕にアレックスがかみついて、ボキリと嫌な音がすぐ傍で上がる。手が緩んだ隙に私は振りほどいた。

「ぅえっぐ、ごほ、」

柄付きながら見上げた先。腕の持ち主を覆っていた鼠の一部がばらけて、中から男性の顔が垣間見える。

 鹿島だ。

 鼠の群れの中から鹿島が表情の抜けた顔で、温度の感じられない冷たい目で、私を見下ろしていた。

 鹿島の顔は再び鼠に覆われて見えなくなる。もう一度私へと手を伸ばす鹿島を、アレックスが体当たりして引き倒した。鋏を持つ鹿島の腕が横なぎに振られて、アレックスの顔から血が飛散する。

 私はその隙に私は蠢く塊に手を伸ばす。掻き分けるように鼠の中へと腕を突っ込むと、鼠達はその腕を伝って私の肩へ体へと駆けのぼった。しゃがむ足元からも腕からも、次々に鼠は這い上る。そんな事今はどうでも良い。掻いても掻いても鼠が上って黒藤の身体に辿りつかない。徐々に体が重くなっていく。構わない。構っていられない。

 掻き分けて、掻き分けて、押し入って、ようやく白衣の裾に手が届いた時、私の身体に背後からドンと衝撃が襲った。

「ふふふ、」

背中の上から笑い声が降り注ぐ。背中が熱い。キン、と耳鳴りがして、音が遠くなる。

 ベールの向こうでアレックスの唸り声が聞こえた。綾子の笑い声と、鼠の鳴き声と、どたどたともつれ合う音と、そう言うものがすべて遠い。身体を鼠に覆われて、息苦しい。背中は熱くて熱くて、なのに体の芯から冷えているみたいに震えが止まらない。蠢く闇に光さえも届かない。

 ただはっきりしているのは私が掴む布の感触と、その奥にある温かい温もりだけで、私はどうにか必死にそれに縋りついた。

 手の中で、温もりが身じろいだ。私の手に分厚い掌が重なって、私の手を引き寄せる。引き寄せられた先には白衣のポケットがあって、中には四角い金属が入っていた。私はそれを引き出して、蓋を開ける。

理由は分からない。でも彼がやって欲しいだろう事は分かった。

 思い切りホイールを回すと、ジ、という小さな音と共に熱を持った光が、火が、手の中で灯る。それは蠢く鼠にすぐにかき消されたが、熱に驚いた鼠が「キッヂヂヂッ」と悲鳴を上げて少し散った。鼠の波の手薄になった場所から腕を突き出して、もう一度ジッポの火を灯す。

 灯った火は直後ボッと大きな音を立てて、瞬間的に大きな火が燃えて尽きた。撒かれた消毒液──エタノールに引火したのだ。

「あああああああああああああああああああ!!!」

綾子の悲鳴が背後で上がる。彼女を濡らしていた液体もまた、消毒液だったのだろう。

 ジッポを握る手が炙られて熱かったが、幸か不幸か鼠に覆われていた私の体は火の手を免れていた。

 焦げた臭いが鼻を突いて、警報音が鳴る。天井のスプリンクラーから水が降り注いだ。

「ヂヂ────────────」

鼠の悲鳴と綾子の悲鳴が重なる。私達の上から鼠が逃げるように散った。

 スプリンクラーも警報音も短い時間で鳴りやんだ。軽くなった体を起こして目を開くと、逃げたのか鼠と鹿島が姿はない。燃えたであろう綾子の姿さえ、床に焦げた跡を残しただけで見当たらない。

 私の眼下には、ただ一人。黒藤が死体の様にぐったりと横たわっていた。

「黒藤さん!」

黒藤の顔面は蒼白で、腹が血で真っ赤に染まっている。スプリンクラーから落ちた水が、彼の血と混ざって赤く色づいている。

 手を伸ばそうとして、激痛が背中を刺す。綾子に乗られた際にどうやら刺されたらしい。怪我の具合は分からなかったが、まだ動けている辺り黒藤よりはましだと分かった。

「どうしよう……どうしたら……?」

体を下手に動かす事すら恐ろしい。これ以上血が零れるのは良くない事だけは分かって、とにかく手で押さえるが、これ以上一体どうしたら良いのか分からない。と、黒藤が小さく身じろいだ。

「黒藤さん!」

強く握られた手が私へと伸ばされる。その手を取ると、開いた掌の中からチャリ、と軽い音を立てて鍵が落ちて来た。MWとタグのつけられた鍵。出口の鍵だ。綾子から黒藤は奪えたのだ。

「に、げろ」

絞り出すような言葉。

「はい、逃げましょう。でも黒藤さん血が……血が止まらない……どうしたら良いですか? 教えてください」

血はどんどんとあふれ出る。このままでは取り返しのつかない事になってしまう。でも私ではどうしたら良いのか分からない。

 黒藤が口を開く。私はその口元に耳を寄せる。

「おれ、は……生きる気、は、ない……おい、て……いけ」

しかし彼は私の望む答えではなく、酷い言葉を零した。

「嫌です。絶対に嫌です」

綾子は見捨てないといけない。鹿島ももうダメだった。でも黒藤はダメじゃないはずだ。きっとまだ助かるはずだ。

「お、まえは、生、きろ」

「黒藤さんも、生きるんです!」

黒藤の顔がどんどん青ざめる。押さえる手の隙間からとめどなく血が溢れて止まらない。

 目の前が涙で滲んだ。何もわからない。でも諦めたくない。絶対に諦めたくない。私は獣医じゃないから、命の境界線なんて分からないけれど、でもきっとその線はこんな所に引かれていない。

「お願いだから死なないでください!」

「白衣を脱ぎなさい」

上から声が降ってくる。見上げると、マズルから頬にかけて血を流したアレックスが、優し気な表情で私を見下ろしている。アレックスはしゃがみ込むと黒藤の腹の傷を私の代わりに押さえると、私を振り返った。

「柚弦、白衣を脱いで、そこに転がっている鋏で太めの包帯を作るんだ。ほら早く、彼を生かしたいんだろう?」

それまでとはまた異なるアレックスの様子に私は一瞬呆けたが、『彼を生かしたいんだろう』と言う言葉に我に返った。私は言われた通りに白衣を脱いで鋏で白衣を縦に裂く。動くと背中が傷んで冷たい汗が額を伝ったが、私は歯を食いしばって腕を動かした。

 出来た布を渡すと彼は黒藤の傷に服の上から厚めに布をかぶせ、それごと強く抑える様に巻いて結んだ。手当中黒藤が痛みに呻いて、まだ息がある事に安堵しながらもそれを見守る。

 手早く手当てを済ませた彼は、余った布で私の身体にも包帯を二周強く巻く。触れるとジワリと血が滲んでいた。

「彼の方が重傷だから、柚弦も辛いだろうけどそれで我慢してね」

そう言って、彼は黒藤の身体を肩に担いだ。

「君も、体制悪いし傷口痛いだろうけど我慢だよ。心臓より傷の位置が高いの方が良いのは、君もよく分かっているだろう?」

困ったように言うその口調を私は知っている。どこかで聞いた。そう、夢で聞いた。でもそれよりも前に、私はその声をずっと知っていた。

「じゃあ柚弦、外に出るよ」

彼は開いた方の手を私に差し伸べる。私は頷いてその手を取った。


***


 黒藤の懐中電灯を片手に、もう片手で彼の手を握り、私達は洗浄室を目指す。

「いいかい柚弦。さっきので貯水タンクにかろうじて残っていた水は全て使い切ってしまった。もうスプリンクラーは使えないよ」

階段を一段一段上がりながら、彼は私に言い聞かせるようにそう言った。

「君達を守ってあげたいけれど、彼らを殺しても意味がない……本当にごめんね」

悲しそうに、そしてどこか悔しそうに、謝る声に私は彼を見上げる。彼の顔からはいつの間にか傷が消えている。銀色の瞳が私を見返す。

「貴方は……」

しかし私が言葉を紡ぐより前に、彼は目を細めると「がう」と短く吠えた。鼻先を私の頭に近づけて、ふすふすと匂いを嗅いでまた満足げに「がふ」と鳴く。

 そこにいるのはアレックスだ。彼はもういない。そう分かったから、私は言い掛けた言葉を仕舞う。

階段を上り切り、洗浄室へとたどり着いた。

 そこには、案の定鼠の群れがいた。腕が二本突き出ていて、中に鹿島がいる事が分かる。骨を折っていたはずのその腕はどういう訳か元に戻っていて、先ほど聞いた『彼らを殺しても意味がない』と言う言葉の意味を理解する。

 同時に、彼らは本当に『生きた人間』じゃないのだと実感した。

 私はアレックスの手を離す。黒藤の手に一度は受け取ったMWの鍵を握らせた。

「黒藤さん、先に鍵を開けて外に出ててください。アレックス、お願いね」

掠れた声が私の背を追うのに構わずに、私は鹿島達に向かって走り出した。

 鼠が一斉に私を追う。そうだ、彼らの目的は私だから。私はなるべくMWの扉には近寄らないように、鼠たちが近づかないように囮として立ち回る。

 鼠たちが波のように押し寄せる。鹿島の腕が私を掴もうと忍び寄る。動くたびに背中が痛い。血が足元まで伝う。我慢、我慢しかない。ここを耐えなきゃ死んでしまうのだから。

 私は手近なキャビネットを引き倒して、鹿島の腕を避ける。倒れたキャビネットからいくつもの容器が音を立てて割れた。なんだかわからない液体が刺激臭と共に広がる。

 その時、がちりと金属音が響いて、向こうでドアが開いたのが分かった。

 途端に鼠たちは私から視線をそらし、黒藤達のいるMWのドアへと一斉に駆けだす。

「黒藤さん先に出て! 鍵閉めて! アレックスも!」

今彼に抵抗する力は残っていない。ここに居ても殺されてしまうだけ。

 彼らさえここから出てくれたなら、私には一つ考えがあった。

私の叫んだ声に反応したのは黒藤ではなくアレックスだった。アレックスは一声吠えると黒藤を抱えてドアの向こうへと逃げる。

「グッジョブ、アレックス」

掛けた声と同時にドアが施錠される音が響いて、私はほっと息を吐いた。

 倒れたキャビネットからポリタンクを引き出して、消毒液をばらまいた。鼠たちは一瞬悲鳴を上げて怯むが、少ない消毒液ではすぐに気化して消えてしまう。

 手元にある消毒液を使い果たすのはあっという間で、空のタンクを振り回して鼠と鹿島を牽制しながら他にタンクがないか探す。洗浄室と言うだけあってタンクはそこかしこに沢山あって、私は片端からそれを開けて床にぶちまける。それでも次第に数の増えて行く鼠たちを前にしては牽制が追い付かない。

あと少し、あの扉にまで手が届けば……。

「柚弦さん……?」

背後の廊下の先から声が聞こえた。振り返るとそこには頬を涙で濡らした浩がいた。

「浩君……!」

足元を有象無象と這う鼠に浩が「ヒッ」と息を呑む。どうやら彼は『正常』らしい。

 浩に気を取られていたのがいけなかった。伸びた腕に腕を取られて、私の身体は引き倒される。持っていた懐中電灯が手を離れて転がっていく。身体を這い上る鼠たちを、身をよじって払いのけながら、私は腕を掴む鹿島の腕に思い切り噛みついた。

「はらひて!」

口の中でみち、と鹿島の腕が嫌な音を立てる。口の中に血の味が広がった。それでもアレックスの様に一噛みで腕を折る事なんて私には出来ない。

 離れない腕にもがいていると、衝撃と共に金色の髪が頭上で揺れた。浩が鼠の塊に体当たりしたのだ。

「うう、うううううう!」

自身の身体にはい寄る鼠に恐怖に歪んだ表情を浮かべる。それでも力強く、鼠の群集を両の拳で殴った。

 私はどうにか鹿島の腕を振り払って浩を手招く。

「こっち!」

手近にあった台車を鼠たちの方へと突き飛ばして、MWの扉の方へと走り出す。

 鼠を振り払い、踏みつぶし、周りの設備も棚もパーテーションも手当たり次第に引き倒しながら目的の場所へと目指す。地を這う鼠はともかく、鹿島を芯としたあの群塊は、私達の倒した障害物に行く手を阻まれる。未だ十数匹の鼠が私達の体を這っている事にはもはや構わない。気化した消毒液が喉を刺激して息がしにくい。でもあと少し。もう少し。

 辿り着いたMWの扉は、私の指示によって鍵が閉まっている。けれど、隣のダクトの扉は開けることが出来る。私は銀色のその扉を引き上げて、体を中へと滑り込ませた。

 このダクトの入り口はとても小さい。けれどあまり体格の良くない浩ならきっと入ることが出来る。だから私は彼を振り返って手を伸ばす。そして彼の左手を取る。

「ねえ浩君一つだけ教えて」

取った手は、私をしっかりと握り返した。

「……腕の怪我はもう良いの?」

彼の左腕は、アレックスに噛まれて深い傷を負っていたはずだった。しかし目の前の彼は、先ほどから問題なくこの腕を振り回している。

「……? そう言えば、いつの間にか痛くないかも……?」

そんな事より早く! そう焦ったように言う浩の後ろからが倒したパーテーションを乗り越えて鼠たちが津波の様に迫ってきている。

「そうだね」

私は自身の背中に手を触れて、その手で彼の左手に触れた。彼の手には私の血がべっとりとつく。

途端、浩が私の手を振りほどいた。

「あ、あ、ああああ、ああああああああああああああああ!」

浩は悲鳴を上げるながら手に付いた血を必死に学ランの裾で拭っている。

暗くて血だとはまだ分かっていないだろう。彼からすれば、ただ手が少し濡れただけだ。なのに、彼は今酷く錯乱している。

「水! 嫌だ! 水! 水!」

水の感触に怯えている。

 それは、狂犬病の症状だ。そして怪我が治っているのは、この施設では死人の症状だ。

「……ごめんね」

私はダクトの中から彼の身体を突き飛ばした。浩の身体が、鼠の波に向かって倒れて行く。自重で閉まろうとするダクトの扉を片手で押さえて、反対の手で白衣のポケットから黒藤のジッポを取り出した。扉を完全に閉じるその直前に、ジッポのホイールを強く回して、扉の隙間から鼠たちの方へと放り投げる。

 小さなジッポの灯りが瞬時に爆ぜて、ドン、と大きな音が耳を叩いた。熱い風が頬を叩き、強く黄色い光が目を焼いて、けれどダクトの扉が落ちて私の視界は闇に包まれる。

 扉の向こうでは、きっと火が燃え盛っているのだろう。あれだけ消毒液を、エタノールを撒いたのだ。そのために、わざわざ一人残って撒いたのだ。

 もともとこの施設は火災に弱い。十年前はスプリンクラーがあってさえ全焼してしまった。スプリンクラーを使えないなら、もはや火の勢いを消し止めるすべはない。

 死にたくない、と言っていた浩の声が脳裏に蘇る。私は線を引いてしまった。彼を助けられないという線引きを。

 斜面を滑り降りて、手探りに一番奥を目指す。煤と埃の臭いに咳き込みそうになりながら、網目状の上を四つ這いに進んで、もう一つの扉の前へとたどり着いた。

 待っていてくれたらいいけれど、と思いながら、その熱い扉を叩く。石でできているのかあまり音は鳴らなかったが、すぐに重々しい音が鳴って、ゆっくりと扉が開いた。

 扉の隙間からはアレックスが私に手を伸ばしていて、私はその手を取って外に出る。未だに体にとりついていた鼠を、アレックスがその大きな手で払い落とし踏みつぶした。

 ここにも足元灯が設置されていて、バイオハザードマークの記された白い箱が高く積み上げられているのが見えた。医療廃棄物の山。私にはまるで棺の山のように見える。

 壁際には黒藤が寝かされていて、私は彼の青を通り越して白い顔色に血の気が落ちたが、それでも薄く開かれた唇から微かに空気の通る音がしていて胸をなでおろす。

 辺りを見渡すと積み上げられた箱と箱の間に鉄の扉が見える。きっとあれが出口だ。

「アレックス、黒藤さんを……」

言いかけて、ぶわりと強い熱の風が私の背を撫でた。振り返ると、焼却炉のダクトから赤い光が漏れ出ていて、ずず、ず、と何か大きなものが引きずられるような音がした。

「ゆ、づる、さん」

ガラガラの、かろうじて人の声だと判別できるその音は、私の名前を呼んだ。

「ま、って、待って」

ずずず、と音を立てて斜面を滑り落ちて来たのは人の形をした黒い塊だった。

「まって、おいて、い、かないで」

塊は少しずつ少しずつ私達に這寄ってきて、そして近づいてくるにつれて段々と人の姿を取り戻した。

 焦げた黒い肌が薄橙色に変わり、何もなかった頭皮から金色の髪が蘇る。まるで人が焼かれるビデオをゆっくりと逆再生していくように、塊は浩の姿へとなっていく。

「や、だよ、俺、死にたくない、死にたくないよ、助けて」

それは私へと手を伸ばしていた。私が一度振り払って見捨てた手。もう一度あんなことをしなければいけないのか。見捨てたいわけじゃない。なのに、縋りつく彼をまた見捨てなければいけないのか。

「助けて」

思考が固まって、動けない。私の中の境界線があいまいに揺れる。動けない。

 焼却炉から這い出て来た浩が、投げ出された私の足を掴んだ。

「グルルルァラアアアアアアアアアアアア!」

アレックスが、怒声を上げて浩へと飛び掛かった。私の足を掴む浩の手を引きはがし、浩を押し倒す。

「死にたくない……死にたくないよ!」

叫ぶ浩がアレックスの顔を掴んだ。暴れて逃れようとする浩を、アレックスが押さえつけて食い止める。もがいてアレックスの脇の下からこちらへ駆けようとするのを、アレックスの膝が焼却炉へと押し戻す。

「置いていくなら、いっそずっとここに居てよ……!」

浩の悲痛な叫びは、大きな音を立てて閉じられた石の扉に阻まれた。アレックスが、焼却炉の扉を閉めたのだ。がちりとロックのかかる音が響く。向こう側から浩が扉を引き上げようと抵抗しているのか、ダンダン、と扉を叩く鈍い音が幾度か聞こえてきたが、それもやがては聞こえなくなった。

 途端に、息が上がる。腰が抜けて崩れそうになったところを、アレックスの腕が支えた。

 アレックスはぐい、と私の服の裾を引いて、黒藤の方を鼻で指す。アレックスが持ち上げた黒藤の身体の下に私は自分の身体を滑りこませて、彼を支えた。かかる体重に背中が痛い。膝から力が抜けそうになったが、私はなんとか踏み留まった。

反対側からアレックスが黒藤を支えて、私達は一歩一歩出口の扉へと向かう。

 ドアには鍵は掛かっていなかった。ドアノブに手をかけて、二人分の体重でドアを押し開く。

 ドアが開く。掘り起こした泥のような臭いが強く鼻を突く。

ドアの先には何も見えなかった。踏み締めるべき地面も、等しく広がるべき空も、光も、何も見えなかった。足元灯の光は深く広がる暗闇に吸い込まれ、その闇の中を光は照らしてくれない。

 目の前に広がる異空間に怯んで足を踏み出せずにいると、優しい声と共に強い力が私達の背中を押した。

「行きなさい」

踏み出した足は空を掻く。まるで階段から飛び降りた時の様な、しかしそれにしてはゆっくりとした浮遊感が私達の身体を包む。

 咄嗟に私は背後を振り返った。

 闇の中にぽっかりと浮かんだ四角いドア。その縁には白衣の男とドーベルマンが佇んでいる。男の手には一輪の白百合が握られている。

 私は彼を知っている。私とよく似た目が穏やかに、安堵したように、細められた。

「一緒に……!」

手を伸ばし、叫んだ私の声に、彼は首を振った。

「僕達は行けない……巻き込んでしまって本当にごめんね。でも会いに来てくれて本当に嬉しかったよ」

尻尾を振ったアレックスが「がう」と一声吠えた。

 彼に言葉を駆けたいのに、声が出せない。水の中に飲まれているかのように、ごぼりと空気が口から漏れるだけだ。

 伸ばした手は何物を掴むことが出来ないまま、足元から強い力が私達を吸い寄せて扉が一瞬の間に遠退く。意識が遠のく。暗闇に飲まれて、もう何もわからない。

 

***


 頬がざらざらと痛い。体のどこかしこが重くてつらい。泥の臭いが鼻を突く。辺りでは誰それの声が五月蠅く響いていて、耳を塞ぎたいのに体が動かない。

 目を開くと、ぼやけた視界で赤やら白やらチカチカと光が眩しいから、強く目を瞑ってしまう。

「分かりますか!? 分かるようなら返事をしてください!」

耳元で大きな声がわめきたてる。眠りたいのだけれど、その声があまりに必死に返事を求めて来るから、私は仕方なしに「はい」と返事をした。

「こっち意識があるぞ! もしもし、この手は握れますか? 握れそうなら握ってください」

返事をしただけでは終わらず、どうしてか手を握らされる。嫌々にも指示に従っていくうちに、背中の痛みが体を貫いた。

「痛いところ、言えますか?」

「背中……」

答えながら、もう一度目を開く。辺りを見渡すとヘルメットをかぶったつなぎ姿の男性たちが私の事を取り囲んでいる。

 その奥では信じがたい光景が広がっていた。まるでショベルカーで滅茶苦茶に切り崩したかのように、山が崩れて土がむき出しになっていた。

「こっち、不味いぞ! AED持ってこい!」

私の反対側で焦ったような声が聞こえて、目だけそちらへと動かす。そこでは灰色のシャツを赤く濡らした男が、つなぎ姿の男達に囲まれていて、何か処置をされている。

 その彼を私は知っている。私の脳裏で施設での出来事が次々と蘇る。

「ワクチンを……」

私の声に、私に声をかけ続けていた男が耳を寄せた。

「狂犬病……ワクチンを……早く……」

どうしてか、声を発するだけで酷く疲れる。彼は無事なのか、私達はどうなったのか、今これはどういう状況なのか。聞かなければいけない事は沢山あると言うのに、もう言葉を続ける事も辛い。

 どろどろと、まるで沈み込むように、私の意識は身体から離れて落ちて行く。

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