第7話 狂気

 考えるべきは綾子の事だけではない。脱出について私達は何も前進できていない。

その事に意識を向けるべきだと分かっているのに、それでも私には一つ気になる事があった。父の話を切り出した直後、あの時の綾子は何だか様子がおかしかった。いや、ずっと様子はおかしかったのだが、あの時は一段と異様だった。口調は酷く機械的で、何より私を『柚弦ちゃん』ではなく『紀伊』と呼んだ。あの時の綾子は、優しく達観した彼女とも恍惚と『永遠』に焦がれる彼女とも、全く違ったように見受けられた。

 私が最後、とはどういう事だろうか。それに────

「『たった一つが逃げたから、皆死ぬことになった』」

綾子が言った言葉を辿る。

「それって、どういう意味だと思いますか?」

黒藤は一瞬の沈黙の後、口を開く。

「まあ……薄々予想は付いていた。恐らく何かしらの事故で実験マウスが脱走したんだろう」

淡々と、黒藤は言葉を続けた。

「ここみたいなセーフティレベルの高い……言い換えれば危険度の高い実験施設の場合、被検体同士の想定外の接触は実験に致命的な影響を与える。だが脱走した鼠がどのルートを通り、どの鼠と接触したかなんて分からない。だから脱走した場合は施設内の全実験の『やり直し』が求められるそして用済みとなった実験動物は────全て殺処分されることになる」

無感情に告げられた言葉はあまりに残酷な事のように聞こえた。

 ショックが顔に出ていたのだろう。黒藤は一つため息を吐く。

「理解しがたいだろうが……消費される命って言うのはそう言うものだ。殺したくて殺す訳じゃない。実験に携わる人間は余分に命を消費しないで済むように、いつだって細心の注意を払っている──だが、それでなお起きてしまう事故もある」

逃げる事は許されない。まるで呪詛のように繰り返される言葉は、元々鼠たちを縛っていた言葉なのだろう。

「何となくわかった気がします。何故、私が鼠に狙われていたのか」

逃げる事は許されない。それがたった一つの『私達に課せられた』規律と言った。

「追っていたのは私じゃなかった……」

言葉がピースの様に並べ替えられ、一つの形を織りなす。

 あの言葉を話していたのは綾子ではない。鼠が追っていたのは私ではない。

彼らは……ずっと『紀伊(キイ)』を追っていた。

「私の母を追っていたんです。彼らは生き延びた最後の一人を求めていた」

施設にいた『全て』殺さなければならない。鼠は殺した。職員も。けれどまだ『全て』を殺し切っていない。きっと規律に対して鼠たちはそう認識したのだろう。だからこの施設は終わることが出来ずにこうして彷徨い続けている。

 だったらやっぱり私はここで死ななければいけないのだろうか。そんな事を言ったら目の前のこの人はまた静かに私を諭すのだろうけれど。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。鼠を逃がした誰かが悪かったのか、死んだ父が悪かったのか。生き残った母が悪かったのか。何も知らなかった私が悪いのか。死ぬまで逃げられない命として生まれた彼らの運が悪かったのか。個人に責任はないと黒藤は言うけれど、なら彼らは、一体どうやって気持ちを晴らしたらいい。

 死ぬまで逃げられない命だった彼らは今、死んでもなお逃げられてはいない。迷い込んだ人間を取り込みながら、永遠にこの施設を彷徨い続けている。

「死ぬことだけが解放への道……?」

「おい、馬鹿な事を考えるな」

黒藤が眉間に強くしわを刻んで私を見下ろす。私は彼を見上げて首を振った。

「違います、そうじゃないんです……本来なら、実験動物が逃げられないのは『死ぬまで』ですよね?」

思い出すのは、あの【犬】の部屋で見た二つの骨壺。正常な死の形。

 現実の死の先に『永遠』はない。魂にはあるかは知らないが、私達に見える現実で言えば、そこには死体が残るだけ。

「……ここで死んだ動物の死体は、どこへ行くんですか?」

飼育室に並んだ沢山のゲージ。一部屋当たり、少なく見積もっても百匹分は並べられていた。そんな部屋がこの施設には十以上ある。まさか死体を全てこの施設で保管しているはずはない。

 他の被検体と接触しただけで実験に影響を与えるのなら、それは死体も同じだろう。そうでなくても危険な病原体が感染した死体だ。それを正面玄関や、動物や餌を搬入する動物受入室から外に出すなんてするのだろうか?

 黒藤は私の言いたいことを理解したらしい。何かを思い出すように眼を細め、そして知識を絞り出すように言葉を連ねる。

「…………この施設の場合……死体は医療廃棄物だ……だから、専用の隔離保管場所に集積する……そして……業者に外から直接運び出されるはずだ! おい、見取り図を見せろ」

私はスマホから見取り図の写真を出して黒藤に渡す。二人で覗き込んで探すものの、それらしい保管場所は見当たらない。

 ややあって、黒藤は端に記された見取り図の作成日を拡大した。

「平成元年3月……法改定前で保管場所を確保していないのか。だが火事のあった十年前は既に法改定後だ。必ず隔離保管場所を増築している。あるとするなら……全ての汚染物が集まる洗浄室近辺が怪しいな」

私達は顔を見合わせて、そして資料室のドアのかぎを開けた。


***


 階段を上り、三度目の洗浄室。最初はエントランスを、次の時は電気室を目指していた際通っただけだから、ちゃんと捜索はしていなかった。

 扉があるとしたら外壁側のはずだと、私達は分かれて壁沿いに調べる。

 洗濯機を通り過ぎ、キャビネットの裏を確認し、白衣の詰まったカートをどかす。洗面台を避け、大きな箱型の機械の隣で物干しに掛けられた白衣と作業衣の束を分け奥に入る。何本もの配線と剥き出しのパイプ間の通る白い壁を辿る。

 設備も物も多いものの、この場所は実に整然としていた。余計なものは片づけられていて、設備の配置にも人の動線に気が配られていた。

だからこそ、それは意図的だったのだろう。

 目的の物は、並べて寄せられたパーテーションの陰に隠れる様にひっそりとあった。後付けらしい黒色の引き戸と、小さな鈍色のダスト。引き戸には『廃棄物保管場所(MEDICAL WASTE) 無断立入禁止』というプレートが取り付けられていた。

「黒藤さん、ありました」

黒藤を呼べば、彼もまた扉を確認して「ビンゴだな」と呟く。

 私達はドアノブに手をかけて捻るが、ガチ、と固い音に止められて捻り切ることが出来ない。鍵がかかっているのだ。

「メディカルウェスト……『MWの鍵』か」

唸る様に黒藤が呟いて、私は綾子と鹿島が警備室で見つけたという鍵の存在を思い出す。

 あの鍵を預かっていたのは綾子だった。その綾子は今、この施設との心中を望んでいる。今の彼女と話をして、素直に鍵を渡して貰えるとは到底思えない。

 私は隣のダクトを見る。そこには掠れた文字で『焼却炉』という言葉が刻まれていて、その横に『使用禁止』というテープが貼られていた。

 ダクトを塞ぐ銀板もロックされてはいたが、こちらはノブを捻る事で簡単に外すこと出来た。ドアノブを引き上げて中を覗く。中は思ったよりもがらんどうとしていた。ダクトからの高低差はそれほどなく、なかなか狭いが私なら中に入ることが出来そうだ。

「かなり古いな……昔はこれで処理していたのか」

黒藤も覗き込んで懐中電灯で中を照らす。排気のための穴が上にあるが、さすがに細くて私でも通れそうにない。だが奥にあるもう一つ──恐らく廃棄物保管室へ通じているらしい扉は、私なら通ることが出来そうだ。

「あっちから開けられるかもしれません。私、ちょっと入ってみますね」

スマホのライトを片手に私はダクトに足を入れて滑り入る。

 短い斜面を滑って焼却空間に辿りつくと、立てはしないものの思った程狭苦しくはなかった。この空間だけなら、私ともう一人が入っても余りがありそうだ。足元は網目状となっていて、その下にはバーナーの様な機械が見える。錆と埃の臭いがつんと鼻を突いて、ずりずりと進むと膝や掌が細かい煤や塵で汚れた。

 あっという間に奥の扉まで辿りつき、私はライトで照らしてみる。構造的には上に押し上げる扉の様で、私は掌で押し上げてみるが扉は固い感触に阻まれて動かせない。この扉も又、ロックされているようだ。

 当然の事だがこちらからロックを外す手段はなく、私は黒藤を振り返って仰ぐ。

「こっちもダメでした……ここから出るには綾子さんから鍵を奪うしかなさそうです」

「そうか」

 私の目を焼かないよう懐中電灯の光を反らした黒藤は、一つため息を零した。

 当然だ。仕方ないとはいえあの彼女に再び会うのは気が重い。だが、それでも私達はここから出なければならない。見捨てるならせめて私達だけでも助からなければならない。

「せめて、鹿島さんたちと合流してから行きましょう」

いくら私が狙われているとはいえども、出口を見つけた今、彼らもきっと私達に協力してくれるだろう。浩の生徒手帳の件はあったが、何かの手違いだと言う可能性だってまだ残っている。確認せずに決めつけて見捨てることは出来ない。

 ブブ、と手の中で短くバイブが鳴る。見れば、ついに携帯の電池が切れてしまったらしく、電源が落ちた。

 私はスマホを仕舞って四つ這いになり、ダクトの斜面を登る。しかし煤で汚れたからか床が滑ってもたついてしまう。

「すみません、ちょっと手を貸していただいても良いですか?」

黒藤を見上げて手を伸ばすと、黒藤は言葉なくその身を動かす。

持ち上げられた手は、私ではなくダクトの扉へとかかった。

「黒藤さん……?」

思わぬ行動に、私は彼の名前を呼ぶ。灯のない空間で、私から彼の表情は見えない。

もう一度彼の名前を呼ぼうと口を開くのと同時に、黒藤はダクトの扉を閉めた。すぐにガチンと固い音がして、扉がロックされたことが分かる。私は慌てて滑る床をばたばたと登り上がり、扉を叩いた。

「黒藤さん!? ちょっと! 開けてください!」

押しても叩いても、扉は少しも開いてはくれない。内側からはロックを外す手段はない。閉じ込められた。他でもない、黒藤に、これまで絶対の味方だった人に。

「黒藤さん!」

訴えるように彼の名を叫べば、鉄製の扉の向こうから微かに呟くような黒藤の声が聞こえた。

「お……はい……ろ」

扉に耳を宛てがい「何ですか!?」と叫ぶが、声が小さいのか何を言っているのかまでは聞きとれない。

 滑り落ちそうになる身体をどうにか両壁に足と背で突っ張って支えながら、私は再びドアを殴る。しかし扉はやはり動く事はなく、黒藤は扉を開けてくれない。それどころか扉の向こうから黒藤が立ち去る物音が聞こえた。

「出してください! 黒藤さん出して!」

声を張り上げても彼は戻ってきてくれはせず、やがて扉の向こう側からは何の音もしなくなった。


***


 暗い。何も見えない。光源がないから目が慣れても視界が戻る事はなく、私はずっと暗闇に閉じ込められている。ここまでくると目を開いているのか閉じているのかもよく分からない。音もないから、起きているのか寝ているのかさえ曖昧だ。

 あれから一体どのくらいの時間が経っただろう? 一人は時間の感覚が狂う。何時間もここに居る気がするし、たった数分しかたっていないような気もする。

 閉じ込められて最初の方はどうにか出ようともがいてみたが、固く閉ざされた扉を前に何もできず、せめて黒藤が戻ってくることを祈ってドアの前で待っている。

 どうして黒藤はこんなことをしたのだろうか。ついに私が足手まといに感じたのだろうか。だから追いかけてこられないようにここに閉じ込めたのか。それだったらまだ良い。仕方ない。状況が状況だ。鼠を惹きつけてしまう私を置いていくのは、悲しいが理解できる。

もしくは鹿島達と合流する際、私がいない方が話が早いために置いて行ったのだとしたら、それなら事前に話してほしかったがまだ理解できる。

 けれど、もしもそうじゃなかったら? また私を守ろうとしているのだったら?

 この焼却炉の中には鼠がいない。通気口は全て外と繋がっているだろうから、彼らが入ってくることはない。だから、この空間は今あの施設のどこよりも安全な場所だ。

 もし彼がそれを分かって私をここに置いて行ったのだとしたら。そして逃げるための鍵を奪いにたった一人で地下へ向かったのだとしたら。

 せめて……せめて鹿島達と合流をしていて欲しい。だとしたら私を置いていった理由なんてどうでも良い。

 だが、私には気が付いているのに目を反らしている事がある。

 そもそもあの人はどうしてあの山にいたのか、という事だ。

鹿島は趣味、浩は肝試し、綾子は供養。それぞれあの『名所』の事を知っていて、それぞれの理由で訪れた。

では黒藤は? 彼もまたあの山の事を知っていた。だったら、そんな曰くある土地へ一体何をしに来たのだろうか? 何の荷物も持たず身一つで────ああ、そもそも彼は最初に出会った時に『崖』の方から降りてこなかっただろうか?

 一人になって考えれば考えるほど、嫌な予感に苛まれる。

 鹿島達と合流して、鍵を得に行っているのならそれで良い。力になれないのは悲しいが、逃げられればなんでも良い。

 でも私の考えが万が一当たっていたとして、自棄になっていてもなお他人の命を見捨てられない人間がこの状況でとる行動は何だろうか。自らを鑑みずに、他人ばかりを守ろうとする人がこの状況でとる行動は?

 あの人の中で命の境界線はどこで引かれている?

あれから一体どのくらいの時間が経っただろう? 一人は時間の感覚が狂う。何時間もここに居る気がするし、たった数分しかたっていないような気もする。

 早く帰ってきてほしい。鹿島と浩を引き連れて、三人分の足音が聞こえて来てくれたら、閉じ込められたことなどどうでも良い。早く、一刻も早く、帰ってきてほしい。


***


 あれから一体どのくらいの時間が経っただろう? 一人は時間の感覚が狂う。何時間もここに居る気がするし、たった数分しかたっていないような気もする。まさか何日も経っているという事はないはず。

 ずっと暗闇と見つめ合っていると嫌な考えばかりが頭をよぎる。

 綾子がここで彷徨い続けていたのだとしたら、じゃあ私達はそうではないと言い切れるのだろうか? だって鼠に襲われる前の綾子はいたって普通で、何週間も、狂犬病が発病するほどの長い時間をこの施設で過ごしていたようには見えなかった。私達と同じように、つい数時間前にここに迷い込んだのだと、それは演技ではなく彼女自身がそう認識しているかのように見えた。

 なら、私達は一体いつからここを彷徨っているのだろうか。今日ここに来たと思い込んでいるだけで、本当はもうずっと、何年もここを彷徨っていたとしたら。もうとっくに手遅れだとしたらどうしよう。

 私もまた、とっくに狂っていたのだとしたらどうしよう。

 嫌な想像に胃がキリ、と収縮する。

 慌てて私はバックから氷砂糖の袋を取り出す。封を切って一つを口に含んだ。

氷砂糖を舐めている間、口の中にある間は、時間の流れが正しく進む。

自分は今どこまで正気なのか、考えるだけで怖くなる。でもこれが口の中にある間だけは、正気でいるはずだ。

 早く帰ってきてほしい。私が正気でいる間に。早く早く早く。早く帰ってきてほしい。


***


 あれから一体どのくらいの時間が経っただろう? 一人は時間の感覚が狂う。何時間もここに居る気がするし、たった数分しかたっていないような気もする。まさか何日も経っているという事はないはず。

 なるべく何も考えないよう気をつけながら、ただただ耳を澄ませて待っている。

 まだ足音は聞こえない。

 口の中の砂糖は溶けてもう口の中に味もない。何個も食べていい加減喉が渇いたが、それでも私はもう一つを手に取って口に含む。氷砂糖の残りが少ない。

 早く帰ってきてほしい。氷砂糖がまだ残っている内に帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。


***


 早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。足音はまだない。早く帰ってきてほしい。氷砂糖の味がしない。早く帰ってきてほしい。あれから一体どれくらい時間が経ったのだろう。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。私はまだ正気だろうか。早く帰ってきてほしい。何日も経ったという事はないはず。早く帰ってきてほしい。狂犬病はまだ発病していないはず。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。氷砂糖の味がしない。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。あれから一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。早く帰ってきてほしい。私はもう正気じゃないのではないだろうか。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く帰ってきてほしい。早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早早早早早早早早早早早早早早早早早早早早──────

「呑まれてはいけないよ」

思考の渦の中で、柔らかな声が私に囁く。黒藤ではない。鹿島でも、浩でもない。低くて丸い、大人の男性の声。

「大丈夫、もう少し待っていて。きっとここから出してあげるから」

それはどうしようもなく安心する声だ。私はこの人を知っている。この人を信じて良いと知っている。

「大丈夫だよ、柚弦」

暗闇の中、声の方へと手を伸ばす。温かい手が私の手を握り返したような気がした。


***


 ふと、思考を抜けて我に返る。

耳元に、扉の冷たさがない。それどころか、座っていたはずの私は今仰向けに横たわっているらしい。

 何でこんな体制になっているのだろう? どうにも思考がぼんやりとする。

起き上がろうと体勢を変えると頭がぐにゃりと痛みを発した。暗闇の中でチカチカと星が舞っている。

 どうにかこうにか起き上がって、手探りで辺りを探る。足元は網目状になっていて、少し先につるつるとした斜面がある。どうやら私はこの斜面を滑り落ちたらしい。

 どうしてそんな事になったのか、そんな事は明白だ。身体を支える力が抜けたのだ。どうして力を抜いてしまったのか。頭の痛みが答えを訴える。待つことに疲れた私が寝落ちたのだ。

 理解した私の頭から、一気の血の気が引いた。いったいどのくらいの時間眠っていたのだろう。いったいどのくらいの時間私はここに居たのだろう。

 口の中に氷砂糖の味はない。上がりそうになる息に、胸に手を当て無理やり深呼吸を繰り返す。埃っぽい味が口に広がった。

 呑まれてはいけない。落ち着かなければいけない。どれほどの時間が経っていたとして、私に出来る事は言われた通りに待つことだけだ。

 はて、それは誰に言われたのだったか? 黒藤は何も言わずに行ってしまったのに。ああでも待つしかない。待つことしか今の私にはできない。気が狂っている場合じゃない。

 口の中に氷砂糖を一粒放り込む。滑る斜面をよじ登って、再び扉の側に座る。

 早く帰ってきてほしい。私が正気でなくても、もうどうでもいいから。お願いだから無事で帰ってきてほしい。

 冷たい扉に耳をあて、その奥に音がないかと探す。すると、近くでカタン、と音を聞いた気がした。

 私はハッとして耳を強く押し当てる。気のせいだろうか? それともこれも都合の良い夢だろうか?

 しかし続いて重い音が規則的に聞こえてきて、それは明らかに誰かの歩く足音だった。私は嬉しさに声を上げそうになって、しかし様子がおかしい事に気が付いた。

 足音は一人分。黒藤が戻ってきたのだろうかと思ったが、足音はこの扉に近づいてくることはなく、少し離れたところを何かを探すように徘徊している。黒藤ならこの扉の場所を知っている。鍵を取ってこられたのなら真っ直ぐにここに来るはずだ。

 だが鹿島と浩は二人一緒にいるはずで、よほどの事がない限り別行動は取っていない。綾子はヒールを履いていたからもっと軽い音のはずだ。

 だとしたら、この足音の持ち主として可能性が最も高いのは最後の一人。あの【犬】だ。

 私は少し逡巡する。

 【犬】の部屋で見せた、彼のそれまでと違った姿。牙を剥く【犬】と、私に甘えて来た【犬】。牙を剥いて浩に噛みついた彼と、私の頬を舐めた彼。

 両親を通して私に懐いてくれているなんて所詮は都合の良い想像に過ぎず、どちらが本当の彼の姿なのか真実は分からない。ここで再び会いまみえる彼がどちらの彼なのか分からない。信じていいのかは分からない。

 のしのしと、歩く足音は未だ何かを探している。けれど、その足音は今にも離れてしまうかもしれない。

 そう、今しかチャンスはない。私は、信じる覚悟を決めた。

 力いっぱいに、鉄の扉を叩く。鈍い痛みが握った拳にジワリと広がったが構わない。一度、二度、三度、派手に音を響かせて、思い切り叫んだ。

「アレックス!」

それは父の遺した記録に載っていた名前。

「アレックス助けて!」

あの【犬】の本当の名前。

 ────ガルルルルウルルルルルアアアアアア────

 鉄の扉越しに、遠吠えが響く。力強い足音が近づいて来て、近くのものが次々と倒れる音が派手に響いた。

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