冬のうた

賢者テラ

短編

 この上なく静まり返った、漆黒の街中を疾走する原付が一台。

 大気の冷たく張りつめた冬の早朝、午前4時。

 そのバイクのエンジン音以外、周囲に響く物音はない。

 S大の大学生・中島明宏は大きなマンションの前で原付を止めると、前カゴに山と積まれている新聞の束を抱え、急ぎ足でロビーの中へと駆けて行った。



 明宏は、『新聞奨学生』である。

 決して裕福ではない家庭に育った彼は、どうしても大学に進みたかった。

 そして、大好きなラグビーがやりたかった。

 そこで、新聞配達をすることで学費の援助が受けられる、その制度を利用しているのだ。



 新聞配達は、いざやってみると大変な仕事であった。

 若く体力のあった明宏は、まだ真夜中のうちに起きることには慣れたが、冬の朝刊配りというのはなかなか試練であった。とにかく『寒い』のである。

 カイロは必須。着込まないと寒いし、手がかじかむ。かといって厚手の手袋なんかしていたら、紙がつかみにくい。

 ピザの配達を冬にやったときもつらいと思ったが、注文が来たら飛び出すピザ屋と違って、たった数時間とはいえ外に始まって外に終わるこの仕事は、なかなか好きでやれるものではない。

 そんな時明宏は決まって、自分を鼓舞するべく、冬にはついつい口ずさんでしまうkiroroの『冬のうた』を歌いつつ走るのが習慣となっていた。 



 時間が時間だけに、すれ違う者は誰もいない。

「ううっ、さぶ!」

 エレベーターに乗り込み、最上階の12階まで登る。

 そこから、配達しつつ下へ、下へと降りていくのだ。

 一度、運動も兼ねて一階から配り始めて上に駆け上がってみたが、バテバテになって懲りていた。その後のラグビーの朝練にもひびき、「二度とやるものかい!」と心に固く誓った。

 新聞受けに、慣れた手つきでどんどん投函していく。

 運動で鍛えているだけに、そのフットワークは軽やかで見事だった。



 7階まで来た時、彼はいつものようにある家の窓に明かりが灯っているかどうかを確認した。

「……今日も、頑張ってるなぁ」

 マンションに張り出した階段部分から、僅かに覗く部屋の様子。ほとんどの家が寝静まって真っ暗なのだが、その家のその部屋だけは、たいてい明かりがもれていた。

 髪の長い少女が、勉強机に向かっているのが分かる。

 そんなに根をつめるのは、受験勉強か何かなのだろうか?



 話は、三ヶ月前にさかのぼる。

 彼が7階のその少女を気にしだしたのは、その頃からだった。

 ということは、彼女が朝早くから起き出したのも、同じ時期からなのだろう。

 初めは、ただ 「頑張る子もいるもんだなぁ」と感心するだけにとどまっていたのだが、ある日の出来事を境に、二人は変った関係を持つようになった。



 ある日、明宏が少女の家の投函口に新聞を突っ込むと、開いた投函口と新聞の隙間の空間から泣き声が聞こえてきたのである。

 普通なら聞き逃してしまうかすかな嗚咽だったが、最近少女のことが気になっていた明宏にはキャッチできた。



 ……一体、何があったんだろ?



 まったく縁もゆかりもない少女ではあったが、その噛み殺したような泣き声には胸を締め付けられるものがあった。そこで明宏は、ジャンパーのポケットに持っていたメモ帳を一枚破り——

『元気出せよ。応援してるから』

 と書き付け、朝刊と共に投函した。

 彼には、そのメモが必ず少女の手に届くという確信があった。なぜなら——

 いつも明宏がその家に朝刊を突っ込むと、一家の中でただ一人起きている彼女が、物音を聞きつけて一分もしないうちに朝刊を取っていくことを知っていたからだ。



 次の日。明宏が同じような時刻に少女の家の前まで来ると、さっきまで温めていたであろう缶コーヒーがドアの前に置いてある。

 きれいな女の子らしい字で『どうぞ』と書かれたメモと一緒に。

 それを見つけた明宏は、うれしくなった。

『ありがとう』と書いたメモを残して、その缶コーヒーをおいしくいただいた。

 明宏の温まった白い息が、まだ暗い冬の早朝の空に吸い込まれていった。

 それから、面と向かい合って会うこともない、二人の不思議な関係は続いた。



 そして今日。明宏は少女に渡そうと、『合格必勝祈願のお守り』を持ってきていた。菅原道真ゆかりの神社が販売するそのお守りは、直接行かなくてもネット販売で買えた。

 今の時代、まったく便利になったものである。

 数回のメモのやりとりから、少女が高校進学を控えているのだということは分かっていたから、どうしても何らかの形で応援してあげたかったのだ。

 家の前で、明宏は新聞を丸めたその中にお守りを滑り込ませ——

「ご利益がありますように!」と少しばかりの祈りを込めて投函した。

 しばらく見ていると、やがてその新聞は家の中へと音を立てて吸い込まれていった。間違いなく、少女の手に渡ったはずだ。

「……頑張るんだぞ」

 極寒の空気の中、それでも温かい心持ちになった明宏は、急ぎ足で次の家の前へと走っていった。



 三月になったある日から、少女はいなくなった。

 少女がいなくなったというよりは、その一家自体が引っ越したようなのだ。

 それは、突然だった。

 新聞集配所の主人から、「ここの家は引越しで解約になったから、次から配らなくていいよ」と告げられた。苗字を見ると、まさに記憶にある少女の家のものだった。

 一抹の寂しさとともに、明宏はその一冬の不思議な思い出を胸にしまい込んだ。

 今でも、時折思い出す。

 あの少女は、無事に自分の目指す道を行くことができたのだろうか——。




「こっちだ!」

 叫んだ明宏に、前方を激走していたフォワードからボールが回ってきた。

 胸でラグビーボールを受け止めた明宏は、軽いステップを踏んで、目の前の大柄な敵フォワードを抜き去った。

「行けえええええええええ!」

 キャプテンの黒川が後ろから叫ぶ。

 目標である敵のインゴールスペースまで、あと7メートル——。

 その時、明宏の背中は、衝撃とともに圧迫感を感じた。



 …………!



 審判の笛が高らかに鳴る。敵に、トライを阻まれてしまったのだ。

「ちっくしょう!」

 倒れこんだ明宏は、胸に付いた砂を払い落として立ち上がった。



 年も明けて、寒さもたけなわの一月。

 東大阪にある、ここ花園ラグビー場では『ラグビー大学選手権』が今まさに闘われていた。

 明宏の所属するS大チームは、宿敵・O大と対戦中。前半はすでに終了。

 試合は、後半の40分に突入していた。

 スコアは現在、26-21。

 前半は一進一退の攻防を繰り返していたが、後半に入ってO大がじわじわとリードを広げてきた。バックスというポジションであった明宏は、敵ながらあっぱれという他ないフォワードの鉄壁な守りに四苦八苦していた。

 チーム一のポイントゲッターとして期待がかかっていた明宏は、ここに来て疲れを見せていた。



 ……ここで負けるわけにはいかない。



 青空を仰ぎ見た彼の脳裏に、ふと長い間忘れていた記憶がよみがえった。

 新聞配達の時夜明け前に起きていて、ひと時心を通わせ合った、あの少女。



 ……どうして今そんなこと思い出したんだろ。そう言えば、あの子元気かなぁ。



「お、おい中島……」

 敵のノックオンによりスクラムを組もうとしているタイミングで、チームメイトの大橋が明宏に声をかけてきた。

「あ、あれ見てみろよ」

 大橋は、S大側の応援席を指差している。彼の指の先を見ると——



 見たことのない派手な集団が、急に現れた。

 どう見てもそれは……チアリーディングの一団だった。

 明宏の大学のチア部ではない。来てもらうよう手配できなかったから。

 それにさっきから、応援スタンドの真ん中あたりに誰も座っておらず、大きくスペースを空けていることも気になっていた。ウチのチア部でないなら、一体どこが?

 きらびやかなユニフォームに身を包んだ謎のチアガールの一団は、いきなり現れて素人離れしたアクロバット的演技を披露しながら、S大を応援しだした。

 観客席から、驚きの声が上がっていた。

「これは……もしかしてあの『シルバー・ユニコーンズ』!?」



 その名は、明宏も聞いたことがあった。

 女子運動部が軒並み強いことで知られる、T女子学園高校。

 そこのチア部・チーム名『シルバー・ユニコーンズ』は、全国チアリーディング選手権大会で何度も優勝を飾っている有名なチームだ。

 この前、海外遠征でアメリカの『全米高校選手権大会』でも優勝した、という快挙をニュースで見たのを覚えている。

 S大側のスタンドは、突然の飛び入り応援ゲストに沸いた。

 そして、それは選手たちのモチベーションをもかなり上げる結果となった。



 パスされたボールをキャッチした明宏は、万感の思いを胸にグラウンドを駆け抜けた。そして一人抜き、二人抜き——。

 ついに彼の前に敵の姿はなくなった。

 ただ一人、明宏だけは確信していた。なぜ彼女たちが来たのかを。

 チアガールたちの中に、あの少女がいることを。



「ノーサイド!」



 明宏の体がボールとともに敵ゴールになだれ込んだ瞬間。

 ホイッスルを鳴らした審判は、声高らかにそう宣言した。

 そのトライは、ギリギリのところで有効と認められた。

「やったぞ!」

 結果は28-31で、S大の勝利で幕を閉じた。

 明宏たちの勝利を見届けたシルバーユニコーンズの女の子たちは、いずこへともなく引きあげていった。



「お久しぶり……ってのもちょっと違うかな。初めまして、って言うべきなのかしら?」

 明宏が、花園ラグビー場を後にしようとした時。

 入り口で待ち構えていた少女は、シルバーユニコーンズのメンバーの一人だった。

 彼女は「金山俊美」と名乗った。

 その苗字は、間違いなくあのマンションの七階の一家の苗字だ。

 二人は、缶ジュースを買って入り口近くの植え込みに腰掛けた。

「ごめんなさいね、急に引っ越しちゃって。最後に何も言えなくて、ちょっと気にかかってたの」



 明宏は、少女を初めて正面から見た。

 ほっそりとした、それでいて引き締まっている均整のとれた体。

 ロングヘアは相変わらずで、毛先のほうはお洒落にソバージュがかっている。

 健康美あふれる、はつらつとした少女であった。

「どうして僕が……そしてこの試合のことが分かったの?」

 明宏にとって、今回のことは全く予期せぬ出来事であったから、何よりもそれを不思議に思っっていた。

「あの冬の日に励ましてもらったことが忘れられなくて。最近になってね、思い切って前に取っていた新聞の集配所に電話して、責任者のオジサンから聞いて、あなたのこと知ったの。そして今日の試合のこともね」



 ……あの腹黒オヤジめ。

 そんな電話があったこと、オレに一言も教えてくれないで!



 俊美、という名前だと分かったその少女は、日の光を受けて輝いた瞳で、明宏の顔をのぞきこんだ。

「あなたの励ましのお陰で、夢をあきらめないで高校一のチアの名門に入ることができたわ。今日の私の応援返し、お役に立てたかしら? あなたとの思い出をチームのみんなに話したら感動してくれてね、『是非協力させて!』って駆けつけてくれたんだよ」



 新聞奨学生、というただキャンパスライフをエンジョイしている学生とは違ったつらい立場も、寒い日や暑い日に感じてきた一切の苦労も、明宏はこの瞬間にすべて忘れ去った。

「お兄さん、本当にありがとね——」

 俊美は、つぶらな瞳から涙を一粒はみ出させて、明宏に身を預けてきた。

 明宏は、チア服に包まれたその華奢な体を優しく受け止めた。そして空を見つめたまま、優しい歌声で歌いだした。寒い配達の日はいつも歌う、『冬のうた』を。



 俊美は、目を閉じてその歌声に聴き入った。

 二人の頭上で、まだ寒さの残る春の空はどこまでも突き抜けるような青だった。


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冬のうた 賢者テラ @eyeofgod

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