「その男、主夫」・3
―6
足元はおろか、手元さえ見えない漆黒一色の世界を、主夫は歩いていた。
「ふむん」
入口をくぐってから、五十歩目で止まる。明らかに地下室の広さと歩数が合わない。それに途中から、木の床が無くなり、砂の地面に変わっているようだった。
光が必要だ。
エコバッグから、古びたカンテラを取り出して、明かりを灯す。
光が瞬く間に広がり、ようやく周りが見えるようになった。
ユキが立っていたのは、果ての見えない荒野だった。辺りには石を積んだだけの粗末な墓がずらりと並んでいる。
空に太陽は無く、見渡す限り黒雲が広がっていた。そのせいで、世界はどんより暗かった。
風は無いが肌寒い。そして、微かに漂うハッカの匂い。
「
カンテラを下に置き、ユキはボンヤリ呟いた。
ここは、現実世界と異界の中間の世界。
通称、境目。
ここは、理の通じないモノが現れた時に発現する。
そして、モノが現れた周辺にだけ、怪異が起こるようになる。
……と、ユキは師匠から教わった。
またしばらく歩くと、朽ち果てた古井戸に出くわした。
怨……怨……。古井戸の中から、あの音が聞こえてきた。
「こんばんは」
ユキは古井戸に声を掛けた。
〈どなた?〉
古井戸が震えながら尋ねる。
ここにあるモノに、常識は通用しない。古井戸だって当たり前のように話す。それを受け入れない余所者から、命を落とす。
「主夫です」
ユキは真面目に名乗った。
〈助けておくれ。抜けられないのだ〉
古井戸が震えた。震動が音になって、耳に伝わって来るようだ。
〈愚か者が呼んだ。呼ばれたから出ようとした〉
なぜか、音が笑っているように聞こえる。
ユキが首を捻ると、古井戸がまた震える。
〈愚か者にげた。にげたから出られない〉
今度は泣いているように聞こえる。
いや、それより……。
ユキは後ろ首を掻いて嘆息した。
古井戸の言葉が正しいとすると、カデヤカ老は生前に『異形のモノ』を召喚しようと、試みたようだ。
それが何かしらの理由で中断、止む無く召喚に使った地下室諸共、封印した。
「お爺さん、とんでもない事してくれたなあ」
〈愚か者。どこだ。どこだ?〉
古井戸の震えが大きくなり始めた。
「ああ、自力で出てくるぞ。これは」
ゆっくり後ろに退くユキ。
みるみる内に古井戸が崩れ、骨の腕が出てきた。それも白骨ではなく、所々に肉がつき、黒く焼け焦げた腕である。
そして、異臭の雑った風と共に、ケタケタ笑いながら、焦げた骸骨頭が外に飛び出した。
骸骨頭に体はなく、頭の周りは乳白色の煙で覆われていた。先に出た右腕は、土星の輪の如く、煙をまとって骸骨頭の周りをぐるぐる回り始める。
〈愚か者は汝か?〉
骸骨頭は怒りながら尋ねた。
「だから、主夫ですって」
訂正する主夫。
「どこにでもいる……戦業主夫」
彼はエコバッグからまな板を取り出して、剣術のように構えを取った。
〈怨!〉
右腕が煙の尾を引いて、主夫にまっすぐ迫り来る。主夫はまな板を振り上げ、軌道を逸らしてしまった。
そのまま、まな板を円盤投げの要領で投てき、骸骨頭の頬を砕く。
主夫は助走をつけて跳躍。
鉄拳を骸骨頭めがけて振り落とした。
硬い頭蓋に亀裂がはしった。
〈吽!〉骸骨頭が吠える。生じた亀裂から、しなびた細腕が飛び出した。細腕がしなり、滞空中の主夫を襲う。
だが、主夫は空中で胴を捻り、回転蹴りで迎撃。
逆に細腕が折れた。
着地した主夫は、エコバッグの元へ駆ける。だが、彼の前に骸骨頭から抜け出した怪物が、素早く立ちはだかる。
「……ええと、骸骨の中にミイラさん?」
主夫は足を止め、生きた死体を睨んだ。
朽ち果てた身体に皮鎧をまとい、土くれめいた顔は、穴だらけだ。
屍人である。
「
生きた死体が飛び掛かった。主夫は後方に飛び退く。
振り下ろされる手。伸びた爪が割烹着を掠める。
回避後、即座に反撃のサイドキックを繰り出す主夫。だが、屍人もバク転でこれを回避。更に着地と同時に腰を落として、再跳躍の態勢に入った。対する主夫は背を向け、エコバッグに向かって疾走。
背中越しに屍人が襲いかかるのを感じながら、エコバッグからはみ出た柄へ手を伸ばす。
「死ねえ、愚か者お!」叫ぶ屍人。
必殺の爪が主夫の背中へ振り落とされる。
「僕はあぁっ!」
主夫が目当ての得物を掴んで引き抜いた。
フライパン。
「主夫だああぁぁっ!」
全身を使って力の限り、フライパンを振り上げた。
フライパンの底が屍人の手に当たる。
そのまま爪を潰し、手を潰し、腕を潰していく。
さらに肩を砕き、片胸も抉り、とうとう頭を吹き飛ばしてしまった。
フライパンを振り切った直後に、凄まじい轟音が空気を裂いた。
〈怨……〉
体の半分を失った屍人は地面に倒れると、静かに砂となって溶けてしまった。
たちまち、境目の世界に亀裂がはしる。パラパラと風景がガラス片のように崩れ、あっという間に消えてしまった。
そして、狭い地下室が露わになった。主夫は何もない部屋の中央で、ポツリと佇んでいた。
「……え?」
後ろから声がした。振り返ると、ロコが立っていた。
「あんた、何をしたんだ?」
「うーん……」
答えに迷っていると、またロコが質問する。
「つーか、あんた。何者なんだよ?」
これにはすぐ答えられる。ユキはニコリと笑って言った。
「主夫です」
(終)
戦業主夫 碓氷彩風 @sabacurry
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