森は生きている

賢者テラ

短編

 樹々たちの歌を聴いている間に、かなりの時間が過ぎてしまっていることに気付いた。

 安本昌弘は、腕時計で日没までもう1時間もないことを確認すると、一秒を惜しむかのように愛機の一眼レフを構え、その息を呑むほどに美しい緑の幻想を切り取っていった。



 月刊誌「Photo Nature」のカメラマンである昌弘は、仕事の一環であるとはいえ、この撮影を心から楽しんでいた。

 小学生時代より、父が趣味で使うカメラに興味を持ちだした。お小遣いやお年玉を貯めに貯め、中学二年になってやっと一眼レフのプロ仕様のカメラを手に入れた。

 それ以来、すっかり写真の虜にになった彼は、進路においても迷いがなかった。カメラマンを養成する専門学校に入り、そのままストレートに若手カメラマンとして現在の職を得た。

 まだ学生時代に、富士フィルム主催の自然写真コンクールで優勝という実績をすでに残して世間を騒がせていた昌弘に、声をかける新聞社や出版社は幾つかあった。

 しかし、その多くが女性アイドルのグラビア撮影や新聞の社会面などに載る報道写真を撮る仕事だった。何よりも自然を撮ることが好きだった昌弘は、迷わず自然写真をメインとするこの雑誌社での活躍を、望んだのである。



 最新の高密度のオートフォーカスシステムを搭載したカメラは、その自然の神秘を余すところなく捉えていった。そして彼は、必ず自然の声に耳を傾けた。

 小川の声。山の声。森の声。鳥たちのさえずり。

 今昌弘が聞いているのは、樹々たちの歌。

 我々が心を開いて、耳を傾けるならば自然はどんな時でも応えてくれる——。

 それが彼の信念であった。

 納得のいく枚数と内容を取り終えた彼は、日没を迎えた森に別れを告げた。

「……また、よろしくな」

 近くの森林センターに駐車しておいた愛車、スズキジムニーに乗り込み、オレンジ色に照り映える森を後にした。風に揺れる木立の動きは、まるで去り行く昌弘に手を振っているかのようだった。



 自宅に戻り、PCで撮影画像を確認した昌弘は驚いた。

「……何なんだこれは」

 昌弘もカメラマンという職業柄、また長く写真の世界に付き合ってきた人間として、『心霊写真』まがいの不思議な写真、というのは何度かお目にかかったことがある。

 世で騒がれるもののうち90%近くは、カメラ光学の視点から説明のつく、ニセモノである。

 しかし、中にはそれでも説明のつかないものも確かにあった。

 今、昌弘がPCのモニターを通じて見ているカメラの撮影画像も、その一つに間違いなかった。

 震える手で、画像をプリントアウトする。

 高解像度で大判に出力するため、機械の処理にも時間がかかった。

 プリンターが紙を吐き出すまで、かなりもどかしい思いを強いられた昌弘は、やっと出てきた写真を天井にかざして食い入るように見つめた。

 そこに映っていたのは、確かに森だったのだが……

 燃えていた。

 まるで森林火災にでもなったかのように。



「そんなバカな」

 編集長の早田は、煙草の火を灰皿でもみ消した。

 そして、椅子の背もたれに体を預けて、フーッとため息をついた。

「お前が、ウソをついたりして人を担いだりする人間じゃないことは、オレが一番よく知っている。しっかしなぁ、うちは超常現象を扱う雑誌じゃないし……こんなものが撮れたからといって特集でブチ上げるわけにもいかんし」

「編集長——」

 早田のデスクの前に立つ昌弘は、意を決して進言した。

「バカな話に聞こえるかもしれませんが、これは何らかの自然からの『警告』だと思うんです。ムリなお願いかもしれませんが、もっと突っ込んだ取材をさせてください。そして、この写真が真に意味するものを探りたいんです」

「…分かった。動いてみるが、過度な期待はするな。かなりの確率で、待ったがかかるぞ」

 早田は問題の写真を色んな角度から眺めていた。

 そして最後に、編集部の窓から見える赤坂や六本木の街並みを見下ろした。

 昌弘は、早田がボソッとつぶやくのを聞いた。

「自然が怒っても、無理もないやな」



「安本さん、バッチシ調べてきましたよ!」

 編集長への談判の後、助手を勤める神藤由梨が昌弘の元へ駆け寄ってきた。

 彼女は、厳密にはまだ社会人ではない。

 昌弘の母校である、写真専門学校の在校生だ。

 勉強兼アルバイトとして、この雑誌社に出入りしている。

「学校の勉強もあるだろうに、ありがとな」

 由梨は、カメラマン志望というよりも、自身が被写体になるほうが自然なモデル並みのプロポーションの持ち主だった。

 しかし、由梨は顔とスタイルのわりにはファッションには無頓着であった。

 実際今も、ジーンズにTシャツという、ラフないでたちである。

「いえいえ。学校の勉強なんかよりも、はるかにこっちのほうが面白いですから」

 由梨はそう言って可愛くペロッと舌を出してから、調査の詳細を説明しだした。



 問題の森というのは、T市の郊外にある高崎という地にある森林だった。

 関東ユナイテッド・インターナショナル開発、という会社がその一帯の土地を買収して、会員制のリゾートホテルを建設する、という計画のあることが分かった。

 地域住民の反対の声はもちろんあったが、全てが合法的に行われている上、それによって利益を得る組織も多かったため、比較的スムーズにすべてが進行していた、と言えた。

「アニメの宮崎駿監督が自身の作品にちなんだ 『トトロの森』を開発から守った、っていう前例もあるけど……今回の場合は土地に話題性もないからムツカシそうねぇ~」

 由梨はそう言って、腕組みをして考え込んだ。



 次の日。

 雑誌社のコネを使い、取材と称して開発会社の相川社長にアポを取った。

 社長は、初めリゾートホテルの宣伝でもしてくれのかと思い彼らを歓迎したが、森林のことに話が及び火事の写真を見せる段になると、烈火のごとく怒った。まぁ、当然の反応ではある。

 けんもほろろに、昌弘と由梨は社を叩き出された。

 しかし、そんなことでくじける二人ではなかった。



「……かゆい」

 昌弘は、赤い斑点の浮き出た腕をボリボリとかきむしった。

 森の中に長いこといると、嫌でもやぶ蚊に咬まれる。

 遠くから、買い出しに出かけていた由梨が、スーパーの紙袋を抱えて戻ってきた。

「ハイ、今日の食料。あ、お薬も買ってきたから、そんなにかかないでくださいよ」

 そう言って由梨が放り投げるチューブの薬を、キャッチして眺めた。



 ……ブテナロック? これって、水虫の薬とちゃうかった?

 ムヒとか虫除けとか買ってきてくれよ!



 そう思ったが、今回のことでは規定の労働以上に進んで協力してくれている由梨に対して、優しい昌弘は文句が言えなかった。由梨は、気が効く分野とそうでない分野との落差が激しかった。

 薬を使わないでポケットに入れる昌弘を、泣きそうな潤んだ目で見つめる由梨。

 昌弘は、目だけで由梨と会話した。



 ……何だよう。せっかく買ってきたんだから、今目の前で使ってくれ、というのか?



 コクコク、とうなずく由梨。

 そして、両手を胸で組み合わせ、ものすごく期待する眼差しを送ってくる。



 ……ええい、神様!



 昌弘はブテナロックのチューブから軟膏をひねり出し、腕に塗り広げた。

「ああ~っ、さすが由梨ちゃんの買ってきてくれた薬は虫さされに効くなぁ~。もう最高!」

 ヤケクソの昌弘は叫んだ。製造元も真っ青になる使用法である。

「でしょでしょ? よかったぁ、安本さんのお役に立てて」

 ご満悦の由梨に見えないように、そっとため息をついた昌弘であったが——



 ……あれ、かゆくない。

 ホントに効いたのか?



 信じられないことに、かゆみが治まった。

 昌弘は、「思い込みによる心理的効果」か? などと、いらないことを考えたが、ここへ来た本来の目的を思い出して意識を周囲に集中させた。



 彼らはここ最近、毎日同じ時間帯に森にやってきて、見張りをしていた。

 由梨の推理によると、こうである。



「問題の写真は、夕方の風景だわ。

 ということは、日没近くね。

 もし、仮にこれが『未来を写した』ものだとするなら、その時刻に森を張ってれば防げるわね。

 あと、それがどの日に起こるのかだけど、工事の着手が三週間後だから、それを過ぎると森は原型をとどめていないはず。だから森が燃えるということが起こりえるのは、三週間以内ね。

 結論! 今日から三週間、夕方に高崎の森を見張るのだ!



 かくして二人は、毎日日没の少し前に出かけては、火事になる原因はどこかにないか、と見張りを続けているのである。

 そして、今日はすでに二週間と三日目であった。

 未だ、何も起きる気配がない。



 やがて、森の輪郭に、沈みかけた夕日が触れた。

 その時だった。

 二人が草むらに隠れて様子をうかがっているところに、全身黒ずくめの服装をした見るからに怪しい男が森に入ってきた。手には、大きなポリタンク。

 男は立ち止まってキョロキョロ辺りを見回していたが、やがて意を決したかのように、ポリタンクの中の液体を撒き散らしだした。臭いからすると…恐らくガソリンか灯油だ。

 カメラマンである二人は、カメラを構えてばっちり犯行の証拠写真を撮った。

 フラッシュの光に気付いた男は、振り返って驚愕の表情を浮かべる。

「そこまでよっ! 観念なさいっ」

 昌弘と由梨は草むらから飛び出して、男にとびかかり取り押さえた。



 その時だった。

 男が、気味の悪いうめき声を上げた。

「マジぃ?」

 由梨が男から飛びのいた。そこには、黒と黄色のまだら模様をした蛇が…身をくねらせていたのだ。昌弘と由梨があっけにとられている隙に、蛇はものすごい速さで草の茂みに這い進み、姿が見えなくなっていった。

 組み伏せた男は、額に玉のような汗を浮かべて、体を痙攣させている。

 目を開けているが、ほとんどまばたきをしていない。

 冷静さを取り戻した由梨は、しゃがんで男の容態を確認しだした。

「……これはヤマカガシに咬まれたのとも、ニホンマムシに咬まれたのとも違うわね。恐らくはいるはずのない、外来種の毒蛇にやられたんだわ。最近は、輸入したペットを飽きて勝手に放す不届き者もいるからね。とにかく、これはモタモタしてたら助からな——」

 由梨が言い終わらないうちに、男が気を失った。すでに呼吸も浅い。

「ダメね。今から背負って病院に行っても、救急車を呼んでも間に合わない!」



 昌弘は、森を悲劇の舞台にしたくなかった。

 例え、森に放火しようとした犯人であっても、人命は尊い。

 何としても、助けたい——。

 長きにわたって自然の声に耳を傾けてきた昌弘は、森に叫んだ。

「お願いだ! どうしたらいい? 頼む、力を貸してくれ——」

 それを聞いた由梨は、バカにするどころか一緒になって声を張り上げた。

「私からもお願い! 写真を通して警告してくださったあなただから、きっと今この時も見ていてくださってますよね? 責任を持って森の危険は回避しますから、この人を助けてくださいっ。よろしくお願いしますっ」



 二人の言葉が途切れると、静寂が森を包んだ。

 静まり返って、答える者は何もない。

 日も落ち、辺りがかなり暗くなってきた。

 由梨は手持ちのランプを灯し、男の容態を確認した。

 脈が……遅い。

 生命のともし火は、今正に消え入ろうとしていた。

 由梨の両目から、とめどない涙がこぼれ、意識のない男の頬に落ちた。

「助けてよおおおおおおっ」

 人の死、というものに初めて直面したであろう由梨は、ぐしゃぐしゃの顔を隠しもせずにしゃくりあげた。



「?」

 昌弘の心に、さざ波が立った。

 夜風に、葉がざわめく。

 落ち葉が舞い上がり、大地がささやく。



 ……?

 …………ブテナロック?

 何だ、そりゃ?



 確かに、そう聞こえた。

 宗教を信じている人の信仰が本物かどうか試される時というのも、ちょうどこんな感じであろう。森からのムチャクチャな答えを、昌弘は頭の中で反芻した。

「由梨ちゃん」

 呼びかけに反応した由梨は、ビクッと体を震わせて昌弘のほうを向いた。

 ポケットから軟膏を取り出した昌弘は、それを由梨に手渡した。

「傷口に、それをすり込んでみるんだ」

 一瞬ポカンとしていたが、すぐに顔色を取り戻した由梨は、

「それって……森のお告げか何か?」 と確認してきた。

 昌弘がうなずいたのを見てとって、由梨はすぐさま行動に移した。



 奇跡的に、男は一命を取り止めた。

 男は、森林が消えることによって不利益をこうむる人種の一人だった。

 キャンプに来る人にバンガローを貸し出したり、ハイキング客相手の売店を経営したりして生計を立てていたが、森林自体がなくなってしまえば風情もなくなり、当然客足も減る。

 森に火をつけることは、逆に自分の商売を台無しにしかねない。しかし、この男はそんなにしてまで、開発側に悪いうわさが立ち、不利益を被るように仕向けたかったのだ。

 男のしたことは犯罪であり、許されることではなかったが……確かに一方的な開発、という行為の犠牲者には違いなかった。



 このことを知った、あの開発会社の相川社長は、驚くべきことに今回のリゾートホテルの建設を取りやめる決定を下して、世間を驚かせた。

「わしもな、自分一代だけでここまでの地位と財を築き上げた端くれじゃ。わし一人の力じゃないっちゅうことは身に沁みて分かっとる。そして何か、目に見えん大きな力が世の中にはある、とも漠然と思うとる。

 だから、今回のことはわしへの警告じゃ思うてな、受け止めることにするわ。兄ちゃん、こないだは済まんかったな、邪険に追い払うてしもて」

 後日、わざわざ出版社まで出向いてきてまで詫びと報告に来てくれた相川社長は、早田編集長と昌弘にそう言い残して帰って行った。

 


 放火男を診察した医者は、しきりに首をひねっていた。

「……何で、助かったんだ?」

 男が咬まれたのは、スリランカに生息するはずの『インドアマガサヘビ』だった。

 事件の後、専門チームによるヘビ捕獲作戦が実施され、判明した。

 すぐに血清を打たねば、死にいたることがほとんどなのだ。

 昌弘は、ブテナロックのチューブを医師に見せて、聞いてみた。

「あの、これって毒に効きます?」

 医師は、鼻からズリ落ちた眼鏡を手で押し戻して、あきれ顔で一言。

「そんなもの、効くわけがなかろう」



「そう。やっぱり薬が効いたんじゃなくて、森の起こした奇跡だったのかな」

 昌弘の家に遊びに来ていた由梨は、そう言って勢いよくソファーにボンと跳びのった。

 まるで、子どもみたいだ。

「みたいだね」

 由梨に隠れて、昌弘はじゅくじゅくになった自分の腕を見て、トホホと嘆いた。

 ブテナロックは男を毒から守ったが、昌弘を虫さされからは守ってくれなかった。

 あの時かゆみは消えたが、やっぱり用法がまずかったのか、患部が膿んできた。



 ……ちっくしょう。



「さすがは私の買ってきたお薬よね! なくなるまで、ちゃんと使い切ってくださいね」

 満面の笑顔で、昌弘の顔をのぞき込んでくる。

 女性にそんな顔で見つめられば、邪険にできる男などそうそういないであろう。

「うん、分かったよ。大事にするからね……って、あれ?」

 昌弘は、慌てて森の写真を手に取った。

 うしろから、由梨ものぞき込む。

 そこに写っているのは燃える森ではなく、自然そのままの森であった。

「……ってことは、悲劇は無事回避された、ってことね」

 由梨は昌弘に、テーブルにあったジムニーのキーを投げて寄こした。

「さ、今からドライブよ」

 キョトンとした顔で、昌弘は尋ねた。

「えっ、どこに?」

 スキップして玄関に駆ける由梨は、ドアを開けて振り向く。

「高崎の森に決まってるでしょ。作戦成功の報告と、感謝を捧げにねっ」



 車が着いたころには、もう夕暮れ時であった。

 駐車場に車を停めた二人は、森の入り口に立った。

 感謝をどう表していいか迷った二人は、とりあえず神社でするように手をパンパンと合せて、森に向かって合掌した。

「……聞こえる」

 由梨が、ハッとして顔を上げた。

 その言葉を聞いた昌弘は、うれしくなって由梨を抱きしめた。

「君にも、聞こえるんだね! あれが!」

 ビックリして身を硬くしていた由梨だったが、次第に体の力を抜いて昌弘を受け入れていった。

 静かなざわめきとともに夜を迎えようとしていた森は、さざめき揺れた。



 アリガトウ

 アリガトウ……

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