39 新世界へ

 新舞浜総合病院。先端医療の集うこの病院に、塩見はいた。真新しく開放感のある廊下を、表札を確認しながら歩いている。目的の部屋を見つけると、静かに二回ノックし、扉を半分だけ開けて、その体躯を滑らせた。

「ご気分はいかがですか」

「塩見さん」

 起こしたベッドにいるのは、パジャマ姿のチョコ・エク・ルレア。塩見を認めると、表情が和らいでいく。個室の窓は開け放たれ、初夏の爽やかな風が入り込んでいる。それに合わせて、ルレアの透き通る髪が、揺れている。

「おかげさまで。少しずつ食べられるようになったんですよ」

「そうですか。それは良かった」

 塩見は丸椅子を引きずりながら座ると、ルレアを見た。ルレアは塩見の訪問が嬉しそうにこちらを見ている。また少し痩せただろうか。襟元から見える鎖骨が、一段と際立っているようにも見える。血色は、以前よりは良い。食べられるようになったというのは、本当なのだろう。

 あの事件後、精神的な負担からも体調を崩していたルレアはこの病院に移送された。県警の配慮もあり、個室が割り振られている。部屋にテレビやラジオの類は無い。情報から隔絶されたこの部屋で、ルレアは穏やかな時間を過ごしている。今の彼女に必要なのは、時間だった。寂しさは、その代償だ。

「今日はお話をしに来ました」

「お話、ですか」

「そうです。大きいお話が、二つ」

 塩見はピースサインを彼女に向けた。それを寄り目で見つめる彼女には、やはりどことなく幼さが残る。女性としての魅力よりも、保護欲の方が掻き立てられるのは、彼女がそれだけ若いということの証左だと、塩見は思った。

「そう改まって言われると、緊張しますね」

 塩見は少しだけ両手を広げた。彼女はそれを見ると、自分の胸に手をあて、ゆっくりと深呼吸を、二回した。

「はい。お願いします」

 彼女が落ち着いたのを確認して、ポケットから封筒を取り出した。便箋には、日本のものではない押し花がされている。ルレアはそれをそっと受け取ると、差出人の名前を見て、口を手で覆った。

「ミルさんから、貴方への手紙です」

「……いま、読んでも?」

 塩見に促され、そっと手紙を開いていく。ルレアは、それを丁寧に読んだ。瞳が文字を追っていく度に、その瞳の輝きが増していく。読み終わった彼女は、なおもそこに書かれている内容に理解が追いつかないようで、戸惑いの表情を向けている。

「これは、いったい」

「順を追って説明しますね」

 彼女の瞳を覗き込むようにして、塩見は言った。

「先日、貴方を襲った男が目を覚ましました」

 彼女の瞳の奥が揺れたが、塩見は続ける。「男の命は無事です。と言っても、まだ完全には動けないですがね。話をしてみたところ、彼は貴方を襲ったことを認めました。そして男の証言から、貴方が魔法を使っていないこともね。貴方の無実が証明されたんです」

 彼女の瞳が潤んでいく。ダイヤモンドの煌きが、こぼれ落ちた。

「おめでとう。あとは貴方が元気になるだけですよ」

 ルレアは両手で顔を覆った。静かに震える肩が、彼女にのしかかっていたものの重みを示していた。

「良かった……。あの人が無事で」

 その言葉を聴いて、塩見は心臓が波打つのを感じた。この純粋な少女は、自分がこんな状況におかれてなお、相手の身を案じていたのだった。大人になるにつれ忘れていく優しさを、指摘されたかのような気分だった。

「そして、そこに書かれている話なんですが」

 塩見は彼女に、この一ヶ月で起こった出来事を、ゆっくりと説明した。日本が異世界と友好条約を結んだこと、日本に、異世界混血児の育成学校ができること。

「ミルさんは、貴方にその学校の先生になってほしいそうです」

 これはミルの提案だった。樹木化した男の状態をエルフの有識者がみる限り、暴走するエーテルを抑え込もうとした痕跡があったそうだ。そこにはルレアの才能と、そして優しさがあったのだと、ミルは言った。

「ミル様が」

「……これには、私も含めて、みんなが賛成しています」

 ルレアは困惑しているようだった。瞳が泳ぎ、逡巡していることがわかる。色々な想いがそこにはあるだろう。

「日本は貴方を苦しめてしまった。でももし、貴方がまだ日本を嫌いにならずにいてくれるなら、日本の未来、いや、二つの世界の為に、お力を貸して頂けませんか」

 塩見が頭を下げると、彼女は怯えるように口を閉ざしてしまった。責任という言葉は、この年代の少女にはあまりにも重たい。

「私に、できるでしょうか」

 彼女はつぶやくように言った。

「人を傷つけてしまった、この私に」

 再び塞ぎ込みそうになるルレアの手を、塩見はそっと取った。

「貴方ならできます。人を気遣う優しさを持っている、貴方なら」

 彼女から返答はない。静かな時間が二人を包んでいく。そして塩見は、扉の向こうから微かに聞こえるその音をきっかけに、塩見はそっと立ち上がった。

「悪い話じゃないと思いますよ」

 見下ろす塩見に、不安と孤独が入り混じった視線を送るルレア。

「あの、もう一つのお話というのは」

 無意識に彼女の手がスーツの端を掴んでいる。塩見はそっとその手を取り、人差し指を立てて、半眼して言った。

「すぐに分かりますよ」

 その直後だった。廊下からドタドタと足音が聞こえてきたかと思えば、扉がものすごい音を立てて開かれた。そこには、肩で息をしたエルフの女性の姿があった。

「チョコ!」

「姉さん!?」

 女性はヒールを蹴り飛ばしながら部屋に駆け込み、飛び込むようにしてルレアに抱きついた。二人は涙を流しながら、その再会を喜びあっている。塩見は、そっとその扉から出ようとした。

「塩見さん」

 ルレアが見ている。塩見は肩を竦めて、言った。

「私には優秀な部下がいましてね。貴方がお姉さんに会うために来日したと聞いて、あれからずっと、探し回っていたんですよ。連絡が取れたのは今日の話です」

 その言葉に、ルレアは涙を流しながら、深く頭を下げた。水のように透き通る髪が、差し込む日差しで煌めく。その胸に顔を埋める姉の髪を見て、やはり姉妹なのだなと塩見は思った。

「ああ、それから」

 塩見はわざとらしく思い出したように、言った。

「その学校の話なんですがね、お姉さんのお子さんも通うそうですよ」

 ルレアは姉に向き合った。ダイヤモンドの双眸が、交錯する。姉に会えたこと、そして姉に子供ができたこと。その二つの喜びを、姉妹は言葉を交わさずに、分かち合っていた。

 塩見はそっと部屋から出た。返事はまた今度でいい。今は、失った家族との時間を取り戻させることが、一番必要なことだと、そう思った。

「塩見さん!」

 その塩見の背中に、ルレアが叫ぶように声をかけた。裸足のまま部屋から飛び出した彼女が、手すりに捕まりながら、その言葉を伝えるために。

「私、やります! 絶対、いい先生になってみせます!」

 塩見は振り返らなかった。彼女の意思が聞けたのだから。子どもたちの未来が、約束されたのだから。


「ぶえっくしょん!」

 京子は、渦港のカウンターで盛大にくしゃみをした。

「んあー、こりゃ誰か噂してるな」

 ハンカチで鼻を拭うと、手元の資料に目を落とす。処理しなければならない書類が、山のように積み上がっている。京子は気合を入れなおし、手際よく作業していく。

 あの日から、舞浜渦港審査室は多忙を極めていた。双方の同意のもとルールが明文化されたおかげで、異世界からの来訪者は日に日に増えている。中でも、観光旅行が増えているのが大きな違いだ。就労予定がなくても数日に渡る滞在が許されるようになったのだ

 そして。

「なんでこれがだめなんですか!?」

 反対側のカウンターでは、日本人が受付にクレームをつけていた。

「ですから、レメニアへの持ち込みは最小限のもので……」

 異世界旅行。つい先日試験運用が開始された、日本の英断である。異世界に憧れる一般日本人の異世界訪問が、向こう側の渦周辺一定地域に限って許可されたのだ。

 そして、双方の研究も盛んになった。動植物の生態系に与える影響、そしてお互いの文化について、連日のように報告書が提出されている。

 日本は、異世界と新しいスタートを切ったのだ。

「早く戻ってこないかな。あの人」

 その渦港に、塩見の姿はない。塩見はあれ以降、異世界問題のエキスパートとして、全国を飛び回っている。在籍こそ審査室の一員だが、もうかれこれ、二週間は会ってない。たまに電話で連絡が来るが、いつも雑用ばっかりだ。分かっていながら、「頼れるのはお前しかいない」なんて言葉に、尻尾を振って対応してしまう自分がまた情けない。それでも、彼の力になれていることが嬉しかった。

「末期だな、こりゃ」

 物好きだなとは思う。でも仕方ないとも思う。今は、再びレメニアのあの地へ、もう一度二人で行けることを夢見ながら、仕事に打ち込むしかない。その日は絶対に来る。京子は、そう信じている。

 辺りを見渡せば、いつの間にか混雑度が増していた。他のカウンターも埋まり始めている。

 京子は手持ちの資料の山とドシンと避けると、身を乗り出して、元気に言った。


「ようこそ日本へ。就労ですか? それとも観光ですか?」

 





 終わり

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塩見 ~異世界入国審査官~ ゆあん @ewan

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