彼岸花かくして咲き誇る

かもどき

彼岸花かくして咲き誇る

 『一』


 ああ、お姉さま。桜お姉さまなのでしょうか。私は未だ確信が持てずいます。

 あのお姿は、本当にお姉さまだったのでしょうか。それとも、寂しさに侵された私が、見知らぬ巫女にお姉さまの姿を重ねているだけなのでしょうか。

 私の瞼の裏にはまだ、先ほど見た景色が焼きついております。しかし私はいずれ、今日のことも遠く忘れてしまうでしょう。ですから、私の見たままのことをここに書き記すことに致します。

 ああ、もしも桜お姉さまなのであれば。孤独の見せた一時の幻想でなかったのなら、もう一度昔のように、柔らかな手で私の髪を梳いて、『薄華はっかといると落ち着くの』と頭の上から優しくお声をかけていただきたいものです――。


 妹達へ。もしも読んでいるのなら、これより先は読まないこと。そしてこの日記のことは決して誰にも話さず、綺麗さっぱり忘れること。破ったならば一時間抱きしめの刑に処します。ああ、花梨だけは私の薄荷はっかの香があまり効きませんから、別の刑にします。とにかく、この先を見てはなりません。


 陽射しの柔らかな昼頃、境内のお掃除に少しだけ嫌気が差して、本堂の裏の山を歩いていた時でした。春でしたから木々の緑があたり一面を覆って湿っぽく、陽光にも乏しい、さらには高さも大してないという味気のない山です。しかし、私は気晴らしに一人この山を歩くのが好きです。これはつい先日に知ったことなのですが、この山の中腹には一本だけ桜の木があるのです。そこに居ると桜お姉さまが隣にいるように感じられて、それから私はその場所が一番のお気に入りになりました。

 いつものように山道を歩いていると、ああ、いつもというのは決していつも掃除から逃げているわけではありません。私はたまに、山道を歩きたくなるのです。ふと、その日はいつにも増して日陰が多いことに気がつきました。手をかざして上を望むと、頂上に立つ大岩の後ろ、普段なら遠くにのどかな空模様の見える場所に、数寸先さえ見えなくなるような深い霧がかかっていたのです。白の背景に、大岩をくくる赤い縄が普段よりも際立っていました。それで奇妙に思って目を凝らすと、驚くことにその縄の上で静かに白い衣が揺れるのが見えたのです。もし私の目に狂いがなかったのなら、それはちょうど私たちが身に着けている巫女装束と同じでした。

 初めは不思議に思ったのですが、近づくにつれて輪郭が徐々にはっきりとし、麗しい女性の雰囲気がたしかに伝わってきました。大岩の中ほどに腰かけ、憂うようにこちらを見下ろし、そしてその周りからは白霧を立ち上らせている、なんとも神秘的なお姿でした。

 声をかけようと岩のふもとまで近づいたのですが、ふと目を離した瞬間、強い陽が顔に差しました。再び顔をあげれば、そこには女性の姿どころかあたり一面を覆っていた霧さえなく、大岩の向こうには青空があるのみでした。

 それからしばらく呆然としていて、ふと、その女性の姿が私の記憶の中にあるお姉さまと似ていることに思い当たりました。そうです。あれは間違いなくお姉さまでした。消えてしまった霧を掴むように、思い返せば思い返すほど、目の前に腰かけていた麗しい巫女はお姉さまだったという確信が深まっていくのです。しかし少し考えれば、あのような場所にお姉さまが居るはずがないということくらい分かります。ですが私の直感はあの記憶は本物だといって聞かず、夢のような一時を忘れられぬまま、私は今日を上の空で過ごしておりました。


 ああ、私はどうも日記というのが苦手です。ですからここからは、お姉さまに宛てた手紙だと思って書くことにいたします。けれど本当にお姉さまに読まれてしまったら、きっと私は顔を真赤にして逃げ出してしまうことでしょう――。


 お姉さま。私、薄華はっかは未だ変らず、この寺にいます。先月で十八になり、鏡を見ては大人の雰囲気が付き始めたかなと自信を持ったり、幼いころから低いままの身長に文句を言ったり、まだまだ半人前の花巫女として日々を過ごしております。気がつけば私はもう最年長になってしまい、妹達の世話と、お寺のお掃除と、家事炊事と、お姉さまに見てもらっていた時とは比べ物にならないほど忙しく、今更ながらいつもお姉さまの手を煩わせていたことを深く恥じております。

 思い返せば、お姉さまは素晴らしい花巫女でしたね。笑顔を絶やさず、常に背筋をぴんと張られ、生まれついての母のように私たちの相手をされていたのをよく覚えております。私も大きくなったらそのようになれるとばかり思っていたのですが、何年経てども私は不得手なままで、一つ二つ下の妹たちに助けられてばかりです。どちらが姉でどちらが妹なのか分からないと、妹達にからかわれることもあります。もちろん妹達は私より身長が高いのですから、傍目に見れば姉妹が逆に映ることでしょう。

 お姉さまがお寺を出た時のことも、私は未だ強く覚えています。そういえば、一昨日でちょうど六年ですね。十二歳だった私はどんな顔をしていましたでしょうか。泣きじゃくっていた私は、お姉さまの桜の香と柔らかな手の感触を確かめるのに精一杯で、自分の顔も、あろうことかお姉さまの顔さえ滲んで見えておりませんでした。お姉さまは地方でも元気でおられるのでしょうか。いえ、お姉さまのことです。きっとそちらでも一人前の花巫女として立派に務めておられるのでしょう。

 しかしそう考えると、どうしても都合の合わないことがあります。私は今日の間ずっとこのことを考えておりました。もしもあの白霧に包まれた女性の影がお姉さまだったのなら、どうしてお姉さまは裏山にいらっしゃったのでしょうか。もしも都まで帰ってきているのであれば、どうして私たち妹に顔を見せられないのでしょうか。きっと、私のあずかり知らぬ特別な事情があることと思います。しかし、私も、花梨も、ほかの妹達も、叶うならばお姉さまに会いたいと思っております。もしもお姉さまの桜の香を嗅げば、普段はつんとしている妹達も皆すぐに抱きつきにゆくことでしょう。年長となり、姉として振る舞っている妹達も、まだお姉さまに甘えたいのです。ですからどうか、妹達の前に姿を見せてくださいませんでしょうか。

 きっとお姉さまが喜ぶと思いますので、この手紙に散った桜の花弁をいくつか添えておきます。


 桜お姉さまへ  薄華より




『二』


 ああ、お姉さま。やはりお姉さまだったのですね。辺りの木々さえ霞む白霧の中、巫女装束が揺れて、凛とした視線が私を射抜いた瞬間、やはり私の直感に間違いはなかったのだと確信いたしました。ああ、お姉さま、今でもお慕い申し上げております。お姉さまに返していただいた儚げな微笑は、まだ瞼の裏に焼きついております。

 私の気持は、六年が経てど変っておりません。恥ずかしいことですが、お姉さまが寺を去った後、まだ幼かった私は毎晩のように一人で泣いておりました。そして疲れ果てて涙が引っこんだかと思えば、お姉さまの胸で泣いていた時のことを思い出して、また心の奥から涙が溢れてくるのです。今でもたまに、胸が締めつけられるような寂しさに襲われることがあります。お姉さまのことを思い出すたび、半身が欠けてしまったような感覚に襲われて、しかし私ももう姉にならなければならないと思って、皆の前で弱気になるのを必死に堪えてきました。いつしか泣かなくなり、また幾つもの別れを経て、ついには最年長になって、その頃には私はせめて志だけはお姉さまのようになれたのだと信じておりました。

 しかし、それは唯の傲慢な思い込みだったのですね。お姉さまに会ったその刹那、もう一度抱き締められて桜の香とともに撫でられたいと、子供のような衝動が心に溢れてやみませんでした。その後のことは、お姉さまが見た通りです。

 恥ずかしいような暖かいような不思議な気持が、未だ胸の底に、桜色の水溜りとなって残っています。私は子供じみた心を必死に抑えていただけで、甘えられる相手に、いや、お姉さまにずっと飢えていました。思い出すと顔から火が出るようです。

 ああ、涙が零れてしまいました。気が付かないうちに、体のあちこちが火照っています。落ち着けてから、また続きを書こうと思います。


 冷静になって思い返すと、自分の行いに深く恥じ入るばかりです。脇目も振らずお姉さまの元に走りゆくなど、姉としてあってはならないことです。

 しかしどうして、お姉さまはそのようなお姿であられるのでしょうか。あの頃と変らぬ風貌であるのに桜の香だけはひどく褪せておられて、そして何より幽霊と形容するしかないお体のことがひどく心残りです。一度も口を開かなかったのはもしや、喋ることさえ出来ないということなのでしょうか。

 私が体を預けた瞬間のお姉さまの顔は、どこか哀しげでした。そのまま体を通り抜けて地面に打ち付けた頬は、まだ少しじんじんと痛みます。

 そしてひとすじの風が吹き、私が握っていた桜の花弁が宙に舞った次の時には、お姉さまの体は、哀しそうな笑顔は、辺りを覆っていた霧とともに消えていました。

 ああ、お姉さまのもとに、何があったのでしょうか。

 あの不思議な力を持った桜は一体、何なのでしょうか。

 これはきっと愛に飢えた私の幻想であって、桜お姉さまはきっと元気でいられるのだと願ってやみません。


 近頃といえば、お姉さまが去られた後に引取られた赤子がめでたく六歳となり、先日初めて花巫女の装束に袖を通しました。花名は『都忘れみやこわすれ』といいます。実際の花も見たのですが、花弁は明るい紫色で、ちょうど六歳の子の小指ほどの大きさの鱗片りんぺんが、黄色の丸を囲うように咲く、小さな花でした。都忘れは菊に似た花ですから、菊姉さまとどこか似た香が残ります。

 皆には「みやこ」と呼ばれ、一つ二つ上の妹達と混ざり立派にお仕事をしております。なにごとにも健気な姿はどこか、桜お姉さまのようです。ああしかし、時々失敗をすると涙を溜めてきゅっと頬を膨らませるのです。もしも幼いころのお姉さまが泣いたらこのような顔をされたのかしらと思うと愛くるしくて、「大丈夫ですよ」と姉らしく抱きしめて頭を撫でるのですが、薄荷の香はやはり小さな体には癖が強すぎるようで、みやこは嫌だ嫌だと私の腕の中で手足をじたばたさせます。私も負けず劣らず小さいので(悲しいことに、六年前と変っておりません)、みやこはすぐに逃げ出して、「ねえさまなんてきらいだ」と怒ったように顔を赤くして睨んできます。ああ、幼い花巫女の、ふくれた姿のなんと可愛いこと。つんとした薄荷の香を吸い込んだみやこは失敗のことなど忘れ、また元気にお仕事に戻ってゆくのです。その背中を見送って息をすると、腕の中に残った都忘れの香が体に染みわたって、自然と笑顔になります。きっと皆も同じなのでしょう。みやこの歩いた後には笑顔が咲いてゆきます。

 都忘れは私、薄華のような癖のある香とは違って、お姉さまのような万人に好かれやすい香ですから、参詣者の方にも気に入られているようで喜ばしいことです。しかしどこか妬ましいと思ってしまうのは、やはり私が未だに子供じみているからでしょうか。

 私の香を気に入っていただけたのは、後にも先にもお姉さまと花梨だけでした。そういえば、『薄荷』という名前は花巫女としての『華』に欠けるからと、『薄華』という名を付けていただいたこと、今でもよく覚えております。

 ああ、このような恥を書き連ねている私はやはり、愛に飢えているのでしょう。


 そう言えば、みやこのことでもう一つ、他愛もない話です。

 先日みやこが少しだけ迷子になるという事件がありました。結局は私が裏山で見つけて、少しばかり叱っておいたのですが、どうにもみやこと迷子というのが繋がらないのです。真面目な子ですから、ふらりと一人で裏山に行くという姿があまり思い浮かびません。

 私がみやこを見つけたのは、夏菊が十輪ほど生えている場所でした。都忘れは菊と近しい花ですから、何かそこに惹かれるものがあったのでしょうか。みやこはその手に一輪の夏菊をもって、虚空を見つめておりました。

 ふと、夏菊姉さまのことが頭に浮かびました。指折り数えたのですが、もうこの寺を去られてから八年が経つのですね。

 私が声をかけるとみやこは驚いたように振り向いて、虫の鳴くような小さな声で「すみません」と言い、観念したように私のもとに自ら歩んできました。その雰囲気が、強がりな普段の姿とはあまりにも離れていましたから、私はしばらく何があったのかと目を丸くしていました。気になることは数多あったのですが、みやこは何を訊けど口を開くことはなく、私が手を取ろうとしても無言のまま反抗し、小さな握りこぶしを開こうとはしませんでした。

 その後、私はどうして裏山を歩き慣れているのかと他の妹たちに勘繰られ、とうとう白状して妹たちに叱られてしまいました。お姉さまのことも話したのですが、いくらこの目で見たのだと言っても信じてはもらえず、あまつさえ「ねえさまは最年長なのだからしっかりしてください」と叱られてしまいました。ああ、まったくその通りです。私は姉として皆の規範であらなければなりません。未だ愛を求め、お姉さまの幻想を求めては仕事を放り出して山へと通う、そのようなことはしてはならないと分かってはいるのです。しかし、私の心は幼子のように弱く、きっとお姉さまに頼らなければまた昔のように幾度も泣いてしまうことでしょう。

 まだいつにこの寺を離れるかは、分かっておりません。しかし、平穏かなと呟くたびに、旅立ちが迫っているのを感じます。愛しい妹たちと離れるのは寂しいですが、私もお姉さまのように強くならなければなりません。その時は願わくば、お姉さまと再会できますよう――。


 桜お姉さまへ  薄華より




『三』


 お姉さまの冷たい掌の、柔らかな肉の感触がまだ確かに残っているうちに、この手紙を書いております。まだ私の右の手は、どこか天国のような場所に囚われたまま、抜け出せておりません。私の涙と喜びは枯れることを知らず、ここしばらくの間は感情がひどく不安定でいます。

 春が終ってもお姉さまに会う為、もうほとんど散った桜の花弁を拾い集めていたら、妹達にまた歩いていたのかと鬼のような形相で問い質されてしまいました。やはり私はどこまでも、不出来な花巫女です。愛を注ぐことよりも、愛を受け取ることを考えてしまうのです。桜を握った手を開いて告白しようかとも考えましたが、もしも僅かな信頼さえ霧のように消えてしまったらと考えるうちに、それさえ出来なくなってしまい、自分の醜さを恥じておりました。

 夜になると私は一人、泣くでも物思いに耽るでもなく、お姉さまに握っていただいた手を頬に当てて、その冷たさを思い出しています。

 お姉さまは、彼岸へ行ってしまわれたのですね。あの桜はきっと、お姉さまの半身なのでしょう。此岸と彼岸を繋ぐ橋であり、お姉さまが現世に生きた証なのだと、私は一人でに思っております。お姉さまの皮膚に触れていると、それが幹であると分かっていながらも、その内側に血の脈動を感じるのです。お姉さまが生まれ変り一本の桜となったような暖かさが、私には確かに伝わってきます。ですから、私は寂しくありません。

 散った桜の花弁は、箪笥に仕舞ってあります。願わくばもう一度お姉さまの手に触れたいのですが、そのために沢山の花弁を使ってしまえばきっと春が来るまでに箪笥の底が見えてしまいます。そんなことになれば、私は耐えられずに泣いてしまうことでしょう。ああ、次の春までお姉さまの姿を見ることしかできないこと、どうかお許しください。夏が来ようとも、秋が来ようとも、私はひとひらの花弁を手に握ってお姉さまの微かな香に包まれることしかできないのです。

 けれど、もしも私がこの寺を去ることになれば、もう一度ありったけの花弁を腕に抱えて、お姉さまを抱きしめにゆくでしょう――。


 先日、花梨が私に話があるのですと、密かに打ち明けられたことがあります。花梨はどうやら、十六という若さにしてこの寺を去ることが決まったようなのです。私も驚きましたが一番動揺していたのは目の前の花梨で、その目には少しだけ涙を溜めて、寂しそうな表情をしていました。

 ――ああ、私はこの期に及んで花梨を抱きしめてもよいものか迷ってしまったのです。

 やがて、普段の花梨とは思えないようなか細い声で「手を握っていただけませんか」というのが聞えました。私が花梨の肩に手を回すと、柑橘の香がふわりと広がりました。それは心なしか普段よりも甘く、頭の中までが軽くなってしまうような香でした。私は花梨より身長が低いですから、こすれた頬から口に向けて花梨の涙が零れてきました。悲しみとは裏腹に甘く、ほんのりと暖かさが広がるような味でした。

 十六という若きにして皆と別れることの辛さは、痛いほどに分かります。きっと花梨は内に多くの不安を抱えているのでしょう。こうして抱き合うことができるのも最後かも知れないと思ったのか、花梨は私のことをまるで縛るように強く抱いて、薄荷の香に身を預けていました。心臓の鼓動が、やけに強く感じられました。「姉さまの香は落ちつくのです」といわれたときには、私まで泣いてしまいそうでした。

 ああ、しかし本当は、私はその時まったく他のことを考えていたのです。

 もしも花梨が居なくなれば、私の香を好いてくれる人は誰一人としていなくなってしまいます。そうなれば最年長である私は、もう誰にも優しく触れることができなくなってしまうでしょう。私はこんな時にも、自らのことを強く心配していたのです。甘くも、穏やかでもない薄荷の香が、このときばかりは呪いのように感じられました。


 あっという間に最後の時は流れ、今日の昼に、花梨は皆に惜しまれながら出て行きました。やはり姉らしく、泣きじゃくる妹達を抱きしめておりましたが、一方で唯一の姉である私とは微笑みを交わすだけでした。言いようのない気持に襲われましたが、しかし私は確かに、その目の端に涙が浮かんでいるのを見ました。きっと最後は姉として行きたかったのでしょう。私にもそれが分かりましたから、声をかけることはせず、静かに視線を合わせたままおりました。風に裾をなびかせながら階段を下りて行くその身には間違いなく、お姉さまのときと同じ哀しい雰囲気が宿っておりました。

 花梨は柑橘の仲間ですから、その日は皆で花梨の果を食べました。季節ではありませんでしたので味は褪せていましたが、他のどんな果実よりも強い甘みと、特有の雑味が刺さるように感じられました。

 室に帰ると、普段であればお姉さまに向けた手紙が置いてある机に、いつもとは異なる紙が一枚乗っておりました。その手紙には一枚の花梨の葉が添えてあり、打ち明けることなく秘めてきたのであろう哀しみが綴られてありました。

 手紙を静かに炎に落とすと、もう二度と吸うことの叶わないであろう花梨の甘い香が、熱に乗って辺りに広がりました。ゆらりと揺らめいて、やがて消え去り、その時になってようやく私は思い切り泣くことができました。

 ああ、私はお姉さまがしたように、花梨に寄り添えたのでしょうか。今はただ、それだけが気がかりです。


 桜お姉さまへ 薄華より




『四』


 薄華姉さま、お元気でいられるでしょうか。花梨です。きっとこの手紙が姉さまに読まれている頃には、私はもう寺には居ないことでしょう。

 あのような見苦しい姿をお見せしてしまったこと、しかし優しく抱きとめていただいたこと、本当に感謝しています。お姉さまの香の残滓はまだ少しだけ、私の掌に残っております。桜姉さまが卒業されてからは姉らしく振る舞うように心がけていたのですが、やはり私も心の底ではまだまだ姉さまに甘えたかったのですね。

 まず、薄華姉さまに謝らなければならないことがあります。私は、姉さまが密かに桜姉さまに向けて書いていた日記を覗いてしまいました。ああ、見てはいけないと思うと好奇心が抑えられなくなるのです。妹達には一言も告げておりませんから、どうか罰は与えないでください。私は結局姉さまに恐ろしい刑を言い渡されるのを恐れて、こうして手紙に書き記すことでしか告白出来ませんでした。なんと臆病者なことでしょう。もしも姉さまに一週間触れてはならないと言われでもしたら、私はきっと一日中姉さまの後ろをつけてしまいます。

 そしてもうひとつ、姉さまが書いていた桜姉さまのことがどうしても気になって、私は密かに裏山まで通っておりました。お恥ずかしいことに、実際にこの目で見るまで「桜お姉さまが居た」という文章は妄言なのだと信じ込んでいました。けれど、違ったのですね。

 姉さまの跡を目印に山道を歩いて行くと、得もいわれぬような不思議な感覚が少しずつ体に染みわたるのを感じました。まるで、心臓が自然と共鳴しているかのように、風と鼓動とがぴたりと一致するのです。それは桜の木の近くで最も強くなり、導かれるように幹に触れると、掌を通して命が流れ込んでくるような感覚がありました。それから桜お姉さまと同じ香のする花弁を三つほど拾って、また薄華姉さまの足跡を辿ってゆくと、姉さまが手紙に書き記したのとまったく同じような、濃霧が辺りに浮かび上がってきました。はっと大岩を見上げるとそこには確かに桜姉さまの姿がありました。信じられないという気持と、それよりも遥かに大きな喜びが胸の中に込み上げてきて、一筋二筋と涙が頬を落ちてゆきました。桜姉さまはあの時と変らず凛とした御姿でいらっしゃって、「桜姉さま」と呼びかけると、微笑を返してくださいました。それに合わせて、さきほど私の中に流れこんだ命がぼうっと暖かくなり、体が火照るような気がしました。しかしその笑みは今にも消えてしまいそうで、弱々しく感じられたのです。きっと薄華姉さまは、この感覚を「儚げに」と表現されたのだろうと深く納得いたしました。


 姉さま、とても正直なことを申し上げますと、私は強く緊張しています。そして同時に寂しく、辛く、怖いのです。これが花巫女の使命なのだと分かっていても、未だに私の気持はふわふわと浮かんだままで決意を固めることが出来ません。これが姉さまや妹達との一生の別れだと思うと、どうしても体が震えるのが止まらないのです。

 姉さま、遠くからで構いません。私のことを想っていてほしいのです。それだけで私は一歩を踏み出す気持になれると思います。

 ああ、結局私は孤独がもっとも怖いのです。我儘だということは分かっています。だからどうか、私の悲しみをほんの少しだけ姉さまも一緒に背負ってほしいのです。それだけで、私はきっと笑顔でゆけるのです――。


 妹達にこの手紙を見られるのは恥ずかしいですから、姉さまがこれを読み終られましたら、綺麗に燃やして、その灰は裏山へと撒いておいてください。ああしかし、この手紙に添えた花梨の葉だけは姉さまがどうか、持っていてください。

 妹達へ、もしこの手紙を読んだのなら、薄華姉さまのところへ持って行き、抱きしめの刑に処されなさい。


 薄華姉さまへ  花梨より




『五』


 ここに、私の罪を、すべて告白します。今日という長い一日の間、私はただ、嘘の笑顔とともに過ごしていました。罪を内に抱えながら生きるというのは、これほどに重く辛いものなのですね。しかし私は、妹達の誰にも、この罪を告白する勇気がありません。

 ですから、せめてお姉さまには、そのすべてをお話ししようと思うのです。


 私は、花梨を殺しました。

 ああ、すべて私のせいなのです。私が至らなかった故なのです――。


 昨日の夜、私はお姉さまへの手紙を書くために、夜遅くまで室に蝋燭を灯して筆を走らせておりました。普段であれば皆が寝静まり、痺れた脚を動かすことさえ憚られるような静寂が続くのみなのですが、この夜だけは違いました。一時間ほど経った頃でしょうか、耳を澄ませると、「ひた、ひた」という、ちょうど幽霊のような足音がしているのに気が付きました。

 最初の内は、妹の誰かがお手洗いに行こうとしているのかと考えましたが、すぐに違うと分かりました。その怯えたような足音はゆっくりと、私の室へと近づいてくるのです。私は最年長ですから普段から遅くまで起きていたのですが、今まではそのようなことは一度もありませんでしたから、少しばかり怖くなって、できるだけ音を立てぬようにして戸に近づきました。

 恐る恐る戸を開けると、花梨がいました。数日前にこの寺を去ったはずの花梨が、です。「どうしたの」と声を出そうとしましたが、私の喉が動くことはありませんでした。花梨が今にも死にそうな面持ちで、私のことを見ていたからです。そのまま、花梨は脚の力を失って倒れ込んでしまいました。私が暗い廊下で動けなくなった花梨の背中をさすると、花梨は私の薄荷の香を肺一杯に吸い込んで、「姉さま」と何度も何度も呟きはじめました。

 姉さま、姉さま、助けて、助けてください、姉さま、どうして、死にたくないのです、姉さま、姉さま、姉さま、ねえさま……

 普段の快活な花梨とはあまりにかけ離れた、枯れた花のような声が延々と続いておりました。ふいに夜風が吹いて、花梨の柑橘独特の強い香が、私の室をすうっと通り抜けてゆきました。そのまま背中に手を当てていると、やがて花梨の声は涙となりました。姉さまという言葉は嗚咽に崩れ、そこに残ったのは小さな愛と、その何倍も大きな悲しみだけでした。

 ようやく泣き止んだ花梨を諭し、二人で布団の上に座ると、最後に残っていた理性が途切れたように、花梨はまた大きな声を上げて泣きはじめました。もしも私がお姉さまのように聡明で、慈愛に溢れていたのなら、きっとたちまち花梨の心を静めて、皆が幸せになれるような終りを導けたのでしょうか。しかし私には、ただ、薄荷の香を交わらせることしかできませんでした。花梨の背中は暖かく、その時には確かに、命を感じたのです。古びた時計がかちかちと鳴るなか、花梨は私にもたれかかるようにして眠りに付きました。そして私は愚かにも、花梨の穏やかな息につられ、同じように眠ってしまったのです。

 私が起きると花梨の姿はどこにもありませんでした。朝日がまぶしく、しかし布団の中には微かに柑橘の甘い香が残っていました。

 ぴらぴらという音の方を見ると、机の上で、弱々しい文字の書置きが風に吹かれておりました。その内容を、私は一字一句決して忘れないでしょう。

 『姉さま。ごめんなさい。どうか私のことは、ひとときの夢と思って、さっぱり忘れてください。気に病む必要もございません。ですから、裏山には来ないでください。』

 その時になってようやく私は、あれだけ助けを求めていた花梨に何一つ寄り添えていなかったのだと知りました。悩みを聞くことさえせず、お姉さまのような愛を心になみなみと注ぐでもなく、ただ私は傍に座って悲しみの任せるままにしていただけなのです。きっと明朝、花梨は私の寝顔を見て言いようのない寂しさに襲われたことでしょう。そして、そうとも知らず、私はただ呑気に眠っていたのです。

 書置きを破ったことを謝りながら、走りました。急いで裏山まで行くと、普段よりもずっと早くに白霧があたりに立ち込めて、たちまち少し先の木々さえ霞むような視界になりました。そのときは桜の花弁を持っていなかったにもかかわらず、です。不安が足元から這いよってきて、そして同時に間違いなく花梨はここへ来たのだと確信できました。登って行くにつれて、花梨の香がますます強くなってゆきます。しかしそれは普段の花梨とは違った香で、誘惑的な魅力を含んでいました。



                              』

 ああ、自分で書いておいて、どうしてここまで残酷なほど冷静でいられるのか、他でもない私自身に吐き気がします。

 思わず破り捨ててしまいました。この光景だけは、お姉さまにも伝えることができません。ああ、懺悔致します。私はお姉さまに嫌われることを何よりも恐れているのです。その我儘な内心故に、花梨の最期をお姉さまに伝えられずにいるのです。なんと醜いことでしょう。すべて私が悪いのです。花梨に寄り添えなかったこと、赤い縄を美しいと書いてしまったこと、それが花梨の背中を押したこと。花梨は未だ、宙に浮いたままいるのでしょうか。それとも、苦しみから放たれたのでしょうか。死の間際、花梨は何を思ったのかと考えるたびに、後悔と苦しみに襲われるのです。花梨はきっと姉のように振る舞う子供である私を恨みながら、無念の中に失墜したのでしょう。そうであれば、もう、私は死ぬことでしか償えません。

 今日の間、私は花梨に手を付けるどころか見に行くことさえせず、頭の片隅に追いやって過ごしました。そう考えると、この手紙を書いているのも、結局は私自身がこの罪の意識から逃れたいが故のことなのでしょう。

 妹達から、「表情が優れませんよ」と何度もいわれました。その心配そうな表情に花梨の顔を重ねては、逃げるように「大丈夫ですよ」と自らに言い聞かせて、どうにか体の震えるのを抑えておりました。

 後追いも考えました。皆が寝静まってから、細い縄を手に持って考えました。しかし棘のような糸が首筋に触れるたび、背筋から冷たいものを感じて踏みとどまってしまうのです。

 お姉さま、お姉さま、助けて、助けてください、何からでしょう、何でも構いません、ですから、お姉さま、私を助けてください――


 桜お姉さまへ  薄華より




『六』


 ずっと私は、花巫女について大きな誤解をしていたのですね。

 今はもう、すべてが腑に落ちて、そしてすべてが無為に見えています。私の心の中は、「清々しい」という言葉で表すにはあまりに黒く、しかしその黒は透き通るような、満ち足りたような黒なのです。ああ、真実とはどんな嘘よりも無味で、いつまでもはらの中に残り続けるのですね。それのなんと虚しく、幸せなことでしょう。

 私たち花巫女は、人間などではなかったのですね。花の香を纏った人間ではなく、。物語のようにいうのであれば、きっとそれは『化身』というのが相応しいのでしょう。

 私のこの体は偽のもので、私の心臓の奥深くでは、薄荷としての本能が燃えているのですね。お姉さまも、花梨も、妹達も、私たちのすべては色とりどりの花に支配されているのだという真実を、私は不思議と受け入れることができました。


 花梨の体はまだ大岩に残っていました。その際に桜の花弁を持って行かなかったこと、どうかお許しください。

 一言で表すのなら、それは死であり、同時に新たな生でもありました。辺り一面には腐った柑橘の香が漂い、初夏の暑さも加わって、むせかえるほどの甘さが頭の中に染みてゆきます。その香の渦巻く中心はもちろん頂上の大岩の、花梨の死体です。

 花梨の小さな口からは、手の平ほどの太さの幹が真っすぐに伸びていました。

 折れ曲がっていたはずの首は幹にあわせて上向いており、もう少し傾けば縄から滑り落ちてしまいそうでした。幹はちょうど腐った脚からも下に伸びており、華奢な花梨の体を文字通り貫いていました。それは長い脚のようでもあり、もう少しで地面に到達しようとしています。きっと今は、もう地につき深々と根を伸ばしている頃でしょう。それが花梨の木だということは、何の名札がなくとも分かりました。

 力強く命を伸ばす幹とは反対に、花梨の体は脆くなり、萎んでいました。きっと体中の骨は折れ曲がって、中は恐ろしいことになっていたでしょう。風が吹くと手首から先が腐り落ちて、熟れた果実のようにぐしゃりと崩れてしまいました。しかし不思議と血はなく、代わりに花梨の樹の中に真赤な血がどくりどくりと廻っているのが感じられました。

 私はその姿を見て、花巫女とは何かということについてようやく理解することができました。花巫女の人としての姿はいわば仮の姿であり、私たちの体は花を守るためにあるのですね。『開花』するとき花巫女の体は捨て去られ、その養分をもとに新たな命が芽吹く――私たち花巫女は、死をもってその役目を全うするのですね。

 花梨は数日前から、自らの『開花』に感付いていたのでしょう。そして姉様たちがどうしてのかを知り、それと同じように命を絶とうとしたのだと思います。もしも妹達があの体を見ればきっと自らの運命を儚んですぐに後を追ってしまいますから、どこか遠い所で密かに死ぬ。そう考えて、私に手紙を残したのでしょう。

 しかし、花梨はまだ十六です。使命とはいえ、目前に迫った死への恐怖にはとても耐えられなかったのでしょう。私なら『開花』について知っているかも知れない、そう考えて花梨は仄めかすようなことを手紙に綴り、私のところに戻って来たのだと思います。ああしかし、私はそんな花梨を抱きしめて、分かってやることができませんでした。花梨の背負っている苦しみの、その欠片さえ肩代わりしてやれなかったのです。私が何も知らないのだと分かった花梨はきっと、途方もない孤独の中に突き落とされたに違いありません。寂しさと恐怖に耐えながら、花梨はあの岩で首を吊ったのでしょう――。

 花梨は穏やかに最期を迎えられたのでしょうか。私はそれをただ祈るばかりです。もしも私がもっと大きな愛を注げていたのなら、大丈夫ですよと優しく声をかけられたのなら、きっと花梨は強く一歩を踏み出せたことでしょう。そう思うとやはり、花梨があれだけ悲しみに溺れてしまったのは他ならぬ私の罪です。

 そして花巫女の真実を知ると同時に私は、もうひとつの大きな衝動に襲われたのです。きっとそれは、愛と表現するに相応しいものでした。

 私は自分の運命に思い到るのと同じくして、ひとつの樹となった花梨に、ひしゃげて折れ曲がった花梨に、心の底より陶酔していました。羽化、脱皮、開花――そんな言葉が頭を巡ってゆくのを感じました。花梨に近づくほどに柑橘の香は強くなり、すべてが甘くなってゆきます。

 ああ、甘い。甘かったのです。何もかもが、甘い。

 脚に触れると、枯れた肌色の皮膚がぼろぼろと崩れ落ちて、その中からまだ若々しい茶色の皮膚が現れました。ぼうっとした意識に導かれるまま、静かに歯を突き立てると、樹を流れる血が私の口に流れ込んできました。

 飲み込む度に、私の中に潜んでいるであろう薄荷の芽が疼くのを感じました。体内で別の生命がうごめいているようで、それは身の毛もよだつほど気持が悪く、同時にがありました。それは愛を飲んでいるようで、飲むと同時に渇いてゆくのです。私は夢中になって花梨を啜りました。自分でも、どのようにしてその生き血を飲んだのか、今となっては思い出すことが出来ません。ただ、薄荷の本能の満足のゆくまで、ひとつの植物となったように食事をしていたことだけは確かに覚えています。

 私の血の半分が花梨で染まってしまうほど長く、私は花梨を飲みました。それでもなお花梨の樹は生命力に溢れ、人の体を捨て去りながらその根を伸ばしておりました。歓びに満ちたその姿を見ていると、どこか体がむずがゆくなるようでした。薄荷としての心が、人の体を捨てることを待ち侘びているのでしょう。私たちは花なのですから、それも当たり前のことです。

 ああ、私もいずれお姉さまや花梨のように生まれ変るのですね。そうなれば、花として愛に飢えることのない日々が訪れるのでしょうか。


 桜お姉さまへ 薄華より




『七』


 私の中にある花は花梨を食べて変容したようです。この目で見ることはできないのですが、心なしか私の薄荷の香は薄くなり、何の面白味もない白色から少しばかり暖かな色が付いた気がするのです。さらにいうなれば、一夜また一夜とお姉さまや花梨のことを想いながら寝る度に、心臓が張り裂けそうな奇妙な感覚が強くなってゆくのです。これはきっと、いや間違いなく『開花』の兆しなのでしょう。私にもついに、殻を破り花となる日が訪れようとしているのですね。

 薄荷の香がいくばくか薄まってからというもの、みやこを抱いても以前より心なしか抵抗が弱くなったように感じます。そのせいか、皆が私の周囲を避けなくなりました。参拝者の方が「よい香りになった」と仰られるところも、私は密かに見てしまいました。ああ、やはりどれだけ見繕おうとも、薄荷など要らない花だったのですね。お姉さまは私が自分が薄荷であることを憎まないよう、必死に私を包んでくださっていたのでしょう。もしもお姉さまが居なければ、私はもっと醜く育っていたやも知れません。しかし、お姉さまも花梨も『開花』して、もう誰も私の香を好いてくれないというのなら、私が薄華、いえ、薄荷で居る理由もありません。

 ですから、私は自らが薄荷でなくなったことを悔やんでいないどころか、嬉しく思っています。開花しても皆に愛されることのできるような、お姉さまのように美しい花が咲かんことを、人としての最後の刻を過ごしながら強く祈っております。

 

 桜お姉さまへ 薄華より




『八』


 私の渇きはとどまるところを知りません。花梨を飲んでから、もっと美しくありたい、愛される姿でありたいという欲望に私は取り憑かれてしまいました。もしももっと血を飲んだのなら、より皆に好かれるようになる。そんな希望が少しずつ膨れ上がって、悪魔のように私に囁いてくるのです。もっと血を飲めと。それは決して花の本能などではなく、醜く愚かな「人としての心」なのでしょう。お姉さまに会いに行くたび、その皮膚に噛みついて、内側を流れる命をごくりと飲み干したい衝動に襲われるのです。ですから、この頃お姉さまに会いに行けていないことをどうかお許しください。お姉さまを想うが故のことなのです。

 私の飢えは、渇きは、いくら水を飲もうとも、妹達の香に酔おうとも、永久に満たされることなく内側で膨れてゆくばかりです。もしも私が一人、薄荷の香の中に居たのであれば、なんとか歯を食いしばって耐えることもできたでしょう。しかし私は姉として、妹達を捨て置くことなど出来ません。そうして日々妹達の姿を見るたび、いえ、花巫女の血を前にするたび、私の理性は脆くなっていくのです。今もしも妹の誰かが怪我をして血が滴りでもすれば、たちまち私は獣へと変貌してしまうでしょう。

 ああお姉さま、こんなことを考えてはならないのだと、私は分かっているのです。けれど、甘く麗しい香が、隙間風になびく白色の裾が、陽に焦がされた薄桃色の頬が、飲め、喰らえ、美しくあれと、私の欲望をくすぐるのです。


 私はやはり、どこまでも醜くあるのですね。皆が寝静まった後、私は一人みやこの室へと忍び込んでしまいました。それは泥棒がするような、忍び足でにやりと笑いながら戸を開けるというものではなく、死を待つ囚人が神に縋るような、そのような気持だったことを覚えています。薄い布団と箪笥だけが置かれた四畳半は微かな月光に照らされて、その中央にはみやこが無防備に、可愛らしい顔をして眠っておりました。――ああ、その隣に曝された艶めかしい肩の、なんと煽情的なことでしょう。こうして書いていると、その時の光景が目に浮かぶようです。

 そこから私が何をしたのか、今となっては記憶が曖昧です。ただ私が正気に返った時、私の歯は真赤に染まり、みやこの肩には牙の貫いた小さな跡が確かに残っていました。みやこは最後まで目を覚ますことはありませんでしたが、その寝姿は深く眠っているというよりも死んでいるのに近いものでした。

 途端に私は怖くなり、逃げるように自分の室へと帰りました。しかし恐怖に怯える最中も、確かに私の舌は歯と唇に残った血を零さぬように舐めて、愛の甘さを感じていました。一睡もできぬまま朝が訪れ、真っ先にみやこの元へ行きました。努めて平常を装って声をかけると「ねえさま」と呼ぶ声がして、私はようやく恐怖から解放されました。肩の傷はいつの間にか消え、姿だけ見ればいつも通りのみやこがそこには在りました。しかしその顔は熱に浮かされたようで、口だけを微かに開いてただ「ねえさま」と繰り返し呟いているのです。まるで私が花梨を吸ったときのような、得体の知れないぼんやりとした意識に動かされているような様子でした。皆には風邪だと伝えましたが、私の頭の中には『毒』という言葉がぐるぐると回っていました。

 みやこはしばらく私の腕にしがみつき、そして静かに、小さな犬歯を肌に突き立てました。それに気付いたときにはもう、すべてが手遅れでした。血が滴り落ちるとともに、凄まじい甘さと香が私の中に流れ込んできたのです。それは、血の巡りにあわせて全身が幸せに沈んでゆくような感触でした。都忘れの香が幾重にも膨れ上がったような幸せを体に押し込まれてゆくたびに、力が抜けてゆくのです。そのまま体が崩れ落ちてしまう寸前にみやこは口を離し、傷口から滴る血を愛おしそうに舐めはじめました。私は毒に意識を乗っ取られないようにするのが精一杯で、必死に体の内から沸きあがる花の香に抗っておりました。「ねえさま、ねえさま」と喉を震わすみやこを見ていると、底の知れぬ恐怖と、そしてそれを包み込む幸せと愛が溢れてくるようでした。

 花梨を飲んだ時、私の花は毒を持ってしまったのでしょう。それか、私の中の愛に対する醜き欲望が毒に姿を変えたのやもしれません。いや、きっとその両方なのでしょう。そうであるならば、私が花梨に強く惹かれたことや、花梨を飲んだころから妹達が懐き始めたことにも納得がゆきます。

 花の血に飢えるようになる毒と、心を侵される毒。私はその毒を生みだし、あまつさえみやこにもその毒を入れてしまったのです。花巫女が毒を体に入れると花の血を求めるようになり、そして心までもが侵されてしまう――。きっと私は恐ろしい毒花になってしまったのです。


 次の夜、私は記憶を失いました。起きるとまた妹が一人、毒に侵されていました。

 次の夜、私は扉を箪笥で塞いで眠りました。起きると、箪笥にしまっておいたお姉さまの桜の花弁が、室の中に散らばっていました。

 次の夜、私はみやこに自分の手を縛るように頼みました。みやこは何の疑いも持たず、ただ虚ろな目で私の手首に縄をかけ、「姉さま」と繰り返し撫でていました。起きると、引きちぎられた縄の残骸がありました。

 私の香は日に日に強くなっているのでしょう、まだ血を吸っていないであろう妹達でさえ、毒の香に侵されているような様子でいます。

 ああ、お姉さま。私は怪物になってしまいました。

 いけないことをしているのだと、分かっているのです。私はまだ私の意識のあるうちに、死ななければなりません。しかし私はこの期に及んで、生まれて初めて受け取った零れおちるほどの愛に、いくばくかの未練を感じているのです。


 桜お姉さまへ 薄華より




『九』


 ああ、私などどうでもいいのです。ですからどうか、妹達を助けてやってください。私は今確かに、新たな胎動を感じています。私の中に芽吹きつつある花は真赤な色をして、毒を持ち、そして一面に棘のような花弁を持っています。もし私が自ら命を絶たなければ数日もしないうちに私の殻はむりやりに破られ、『開花』がおこることでしょう。そうなれば、毒に侵された妹達は必ず私の後を追ってしまいます。妹達はそれほどまでに狂ってしまったのです。互いに血を吸い、そして愛し合い、底のない幸せの中に溺れているのです。

 私は今、おぞましいほどの愛に包まれています。最初は心地よいとも思っていた愛は、もう恐怖でしかありません。私は毒のようにあふれる愛から逃げるために、一日中室に閉じこもっています。愛に飢えた怪物の末路と笑うのが相応しい姿です。ねえさま、ねえさまと呼ぶ声に憑りつかれ、私はもうずっと眠れておりません。もしも一度気を抜いたのなら、妹達が母なる毒を求め室へと入り込んでくることでしょう。私はもう、あの幸せに抗うことなどできません。幸せに噛まれてしまえば、あっという間にすべての罪を忘れてしまうことでしょう。

 どうか、何もかもをなかったことにできるのなら、してください。私は薄荷の香に文句をいうことなど二度といたしません。万人に好かれる花ではなくとも、薄華という名とともに生き、そして使命を抱いて開花することを誓います。ですから、妹達を正気に戻してください――。


 どれほどの時間が経ったのでしょう。夜になり、妹達は眠ったようです。しかし、私が次の夜を『私』のまま越すことはないでしょう。

 もう私には、死ぬこと以外何もできません。ですから、これからこの日記をお姉さまのところまでお持ちし、そしてお姉さまの桜の樹を流れる血を飲み、花梨と同じように大岩で首を吊ります。本当ならばお姉さまを傷付けることなどしたくはありません。しかし私がお姉さまの前を通ればたちまち毒に意識を乗っ取られ、きっと渇きを満たすまで血を飲み干すことでしょう。やはり、私は怪物になってしまったのです。

 ああ、本当ならば、血を吸いたいという衝動を感じたときに、首を吊るべきだったのです。そうすれば妹達がみな狂ってしまうことなどなかったのです。今はこうして悔いることができますが、もし毒を貰ってしまえばもはや罪を悔いて償うことさえできなくなるのでしょう。

 夜の明けぬうちに、桜の花弁を腕に抱えて、お姉さまのもとへと行きます。

 お姉さま、私が、すべて悪いのです。ああ、お姉さま、お姉さま――。


 桜お姉さまへ 花梨より




『十』


 月明かりを頼りに、十四人の少女たちが山道を歩いてゆく。彼女たちの身につけている白い巫女服は至るところが血に汚れ、半分以上が真赤に染まっていた。

 彼女たちはみな何かに惹きつけられるように、虚ろな目を頂上へと向けて進んでゆく。やがて辺りには白霧がたちこめて、風も音も、何もかもが聞こえなくなった。

 辺りには季節外れの桜の花弁が散らばって、甘い桜の香が広がっている。頂上に近づくにつれて地面の桃色は濃くなってゆき、あるところからはぴたりと赤色になった。少女たちはその場所を囲むように並ぶと、一歩ずつ、中心にある二つの死体へと近づいてゆく。

 一つの死体は、頂上に立つ大岩から垂れた縄に吊るされており、その体の節々からは、真赤な刺々しい見た目をした花が何十輪も生えていた。その下には、麗しい雰囲気をもったもう一つの死体が、肩に牙の跡を残して、同じようにいくつもの花の苗床となって倒れていた。

 一人の少女が死体に生えた花を手にとって手折ると、小さな茎の断面から血がじわりと染みて、小さな流れとなって零れはじめた。少女たちは皆それを真似して、その流れの下に口を近づける。

 誰かの喉が鳴るたびに死体は枯れて、皮膚が脆く崩れ落ちる。やがて吊るされていた死体は首が耐えられなくなったのか、大きな音を立てて胴体が桜の絨毯に落ちた。


 朝陽が、十六人の死体と、そこから生える何百輪もの花を照らす。

 それは、かつて花巫女と呼ばれた少女たちの最期だった。

 少女たちはみな、花の毒に侵されて眠るように横たわっていた。

 いつしかその真赤な毒花は『彼岸花』と名付けられた。


 鮮やかな紅色で、毒を持ち、背は低い。

 薄荷かくして愛に飢え、彼岸花かくして咲き誇る。

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彼岸花かくして咲き誇る かもどき @underarea

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