深海のアナイアレイション(読み切り版)
六葉九日
霜が降りる夏
夜に橙色の焔が星を燃やそうとしている。
樹木が倒れていく轟音の中で、人影が見える。
いつでも呑まれそうで繊細な背中は、地面に倒れた男を揺らしながら泣き声で呼びかける。
「先生っ……、先生! 起きて! ここから逃げるんだよっ!」
男は辛うじて重たい瞼を閉めずに少年に言う。
「イリー……、お前は逃げるんだ。でないとやつらに見つかってしまうぞ。私はもう無理だ」
「僕っ……、先生をおんぶして逃げるんだよっ!」
だがそれはできるはずがないと少年にも分かっていることだ――幼い身体を持っている彼が大男を背負って、逃げるどころか歩けるかどうかすら疑わしいのだ。
「イリー……こんな時くらい私の言う事を聞いてくれ」
「聞かないっ、僕は悪ガキなんだからっ」と言いながら少年は男の腕を肩にかける。が、体格の差で男は無力に彼の背中から落ちた。
「先生、ごめん……」
「おい、誰かいたぞ!」と怒声が焔から聞こえる。
「イリー、ダメだ。逃げろ」
「なんで諦め……」
「逃げろ馬鹿野郎!」
乱雑な足音の近付いてくる音がして少年は男を不安な表情で見る。彼の両眼には光を背いても見える涙が溢れた。彼は唇を噛み締めてくっと喉を鳴らして、男を残して走り出した。
「いい子だ……」と男。
「最期にお前がいてくれて嬉しいぞ……、お前ならきっと最強の白魔道士になれる……」
一気に呟くと、男は息を引き取った。
*
――時は三年後。
モルランナ大陸で最も繁栄するレイモス地方の町の
酒の香りが空気の中で漂う。
マスターはぎゅっぎゅっとグラスを拭きながら店内の盛況ぶりに満足げに鼻歌をする。
カシャン、と前のカウンターに金属が叩く音が彼の目を惹いた。それに目を落とすと金色で煌めいている金属に、マスターは瞠目した。
「なっ……」
「一番高いお酒を一瓶ください」と相手が言ってきた。
マスターは耳を疑った。金から顔を上げると、彼は息を呑んだ。そこに立っているのは、まだ声が変わっていない年齢の子供ではないか。
少年の片手で持っている杖を覗き見ると、マスターは首を傾げる。
――この幼さで魔道士か?
「よう坊や」
酔いかかる赤面の大男は大股で少年に近付いて、威嚇するように自分の影で彼を覆う。どうやら少年は入店した同時に視線を浴びているようだ。
「とーちゃんからもらったお金はちゃーんと締めとかないとなぁ」
「おっさん、誰?」
「俺は……」
「ご忠告ありがとう」と少年はぺこりと頭を下げると続ける。
「でも僕はお酒を買わないといけないから。先生はお酒が好きなので」
丁寧に返されることで男は一瞬拍子抜けした顔をする。彼はどっと笑い出した。
「その先生にお金落としちゃってお酒買えなかったって言っとけぇ!」
ふらふらした巨体で少年に近付き彼の腰にぶら下がっている小袋を奪おうと手を伸ばすが――
『風を操る者よ』
少年は杖を片手で上げて男の方向を指す。すると男は不可抗力――いや、強風に押され仰向きで後ろに倒れる。
男が現状を掴めようとすると、少年の声が耳に響く。
「だからお酒を買わないといけないってばっ!」と言うとマスターに向き直る。
「マスター、お願いします」
「わ、分かりました」
少年が魔法を使っていることに、マスターに限らず誰もが目を丸くして小さな魔法使いに興味を惹かれた。
わっと少年の周りに客達が集まってきて、目にした光景を不思議そうに議論する。
「少年、すごいな!」
「今のは風の魔法だろ? しかも上位の精霊を召喚してなかったか!」
「この年で魔法を操れるなんて天才だ」
「君、名前は?」
「あの……、ちょっと……、しっ失礼します!」
少年は慌てて酒をマスターから受け取ると逃げるように酒場から出た。
ふう、と彼は酒を抱えて大きい溜め息を吐いた。
「大変だったなぁ。早く先生の墓参りに行こう……」
少年――イリーカは男の顔を思い出す。
両親を失った彼は“先生”に拾われて育てられた。反抗的な性格の持ち主だった彼は先生に課せられた修行は嫌いで、三年前まで基礎の魔法しか使えなかった。
昔の自分は知らなかった――先生は大魔道士、世界で唯一“癒し”の魔法を操れる白魔道士であることと、平和な大陸から忌み嫌われ、戦争中の大陸から欲しがられていたことを。
それはどうあれ。
「先生を殺した奴を僕が殺す……そのために先生に教えられた魔法を全部使えるように修行したよ」
彼はぽつりと言った。
「ねえあんた」
イリーカは振り返ると一人の少女――身長的に自分より高く、年も上なのだろうと窺える。彼女はスタスタと彼に近付いて言う。
「もしかして、癒せるの?」
ぎょっとイリーカは杖を握り締める。先生の跡を継いだことは知られてはいけない。敵に情報を流したら追われるだろうと、彼は考えていた。
――まだだ。もっと強くならなきゃ。
「……お姉ちゃん何を言ってるの? 僕はただの魔道士だよ」
「嘘くさいわね。あんたみたいな魔力が優れている魔道士なんて、もっと何かあるはずよ……、まあいいわ」
少女は髪を手で掠る。
「私はモーリナ。あんたに会って欲しい人がいるの、付いてきて」とイリーカの腕を掴んだ。
「え? でも僕は……」
イリーカは否定し続けようとするが、モーリナに遮られる。
「見たわよ」と彼女は強引に彼を引っ張りながら言う。
「あんたは酒場で上位の精霊を召喚しただけじゃなく――」
――ほぼ無詠唱だった。
普段ならば、魔法を使う時には詠唱――召喚する相手と目的を唱えることで成立する。召喚する相手が強ければ強いほど、敬意を表すため詠唱も比較的に時間がかかる。また、上位の精霊達は意識を持っているため魔道士に従うかどうかを決めることができる。
イリーカは黙り込んだ。モーリナは彼をまじまじと見つめて言う。
「……まあ、根掘り葉掘り聞く気はないわ」
モーリナに連れていかれた場所は、焦げ色が付いて古くて小さな二階建ての木造住宅だった。狭小なドアを潜ると暗闇が降りかかる。
『火の使いよ、其の力を借りて我に明かりを』
モーリナにそう詠唱すると彼女がいつの間に手にした木棒にぱっと火が点いた。彼女は歩いて蝋燭に火を付けると、木棒の火を消した。
「上よ。付いてきて」
ギシギシと踏めると悲鳴をあげる階段を上り、先頭にいるモーリナと二階に着いた。二室の部屋は片方だけドアが閉められている。モーリナはそのドアを叩く。
「お姉ちゃん。医者を連れてきたわよ」
彼女の言葉に反応するように微かな音がし、それを聞いたモーリナは勢い付いてドアを開けた。
「お姉ちゃんっ!」
イリーカは彼女の後ろで中を覗く。
一人の女性は足を布団で被っているままベッドの中に座っている。憔悴した顔でこちらを見ている。
「目覚めたら勝手に起きないでとあれほど言ったのにっ!」とモーリナは彼女に駆け付ける。
「あの子は……?」
その声を聞いてイリーカは驚いた。女性の声は細くてまるで聞こえないように弱々しい。
「“癒し”の魔道士よ。彼ならお姉ちゃんを助けてくれるかもしれないわっ」
「そう……」と女性は俯いた。
「あんたも入って」とモーリナはイリーカを招いた。
「私の姉のリリアンナよ。あんたに診て欲しいの」
「……具体的に、リリアンナお姉ちゃんは何があったの?」とイリーカは杖を握ってベッドに近付く。
「お姉ちゃんは呼吸の病気にかかってるの。最近はこうして目が覚めることも少なくなったのよ……。今まで色んな医者探してきたけど誰も助けてくれないの……。お願い、お金はいくらでも払うからお姉ちゃんを助けて!」
イリーカは黙々とモーリナの話を聞き終わると、杖を突き出してリリアンナを指す。
『水を操る者よ』
モーリナは耳を疑った。彼女は息を止めてイリーカとリリアンナをじっと見つめて、起ころうとすることを待つ。
時間は止まった。
イリーカはリリアンナを、モーリナはイリーカを見つめたまま沈黙が流れる。
「……何も起こってないじゃないですかっ」
モーリナは耐えきれずツッコミを入れる。
「もうちょっと待ってよ……、うんうん、えっ?」
モーリナは首を傾げた。話の前半は間違いなく自分に言っていたが、後半は誰と話しているのだろうか。
イリーカは目を伏せた。モーリナは待てられずに聞く。
「一体何がいるの?」
「……お姉ちゃん、僕は無理なんだ。ごめんね」
「どういうことよっ、癒しなら病気くらい治せるでしょ!」
イリーカは頭を横に振る。
「リリアンナお姉ちゃんの病気は生物的か化学的な原因じゃないんだ」
モーリナは眉を寄せる。イリーカが言った“セイブツテキ”や“カガクテキ”というのは聞いたこともない言葉である。
「う、うん……? じゃあどうしたって言うの?」
「リリアンナお姉ちゃんは……」とイリーカはチラッとリリアンナを覗き見る。
「……肝の片方は石化されたみたいだよ。石になったものは“戻し”という闇魔法が治せるかもしれない。でも僕は闇魔法が使えないんだ」
「そん……な……」
がくん、とモーリナは腰が抜けて地面に座り込んだ。
「闇魔法を使える魔道士は……どこにいるの?」
「分からないよ。魔力が高い人だね。でも、あまり関わらない方がいいよ」とイリーカの顔が暗くなった。
「魂を売ることになるから」
これらは、
「リリアンナお姉ちゃんが苦しんでるのにごめんね」とベッドにいる女性を見るが、彼女は微かに頭を振ったような気がした。彼女の目から目を逸らさずに彼は言う。
「……僕の魔法で、リリアンナお姉ちゃんを救う方法があるよ」
――苦しんでいながら死んでゆくくらいなら。
リリアンナは手を伸ばしてイリーカの手を掴んだ。
「……うん、分かったよ」
*
「先生、ごめんね。ちょうど依頼が来てて待たせちゃった」
イリーカは酒場で買った酒を墓の前に置いて墓に手を合わせた。
「これは一番高いやつだよ。僕はお酒なんて飲めないし分からないけどね」
ワインボトルを縛っているリボンは風の中でまるで酔ったように揺れている。
イリーカは言う。
「先生、僕は……正しいのかな? リリアンナお姉ちゃんを……救えたのかな?」
ぬう、樹木の後ろから現れる巨大な影はゆっくりと、イリーカの背後に少しずつ少しずつ、接近する……。
イリーカはその気配を察して素早く後ろに振り返る。が。
「ラキア!」
イリーカはててて、と巨体――銀色の生物に駆け寄りその首に抱き付く。四肢で立っているその生き物はイリーカの身長よりやや高くて、背中は金色だ。それら以外は普段の猫と同じ……ではなかった。
ラキアは猫の尻尾を持っている。三本も。
ラキアはイリーカに顔を擦ってにゃーと鳴く。
柔らかい獣毛を撫でるとそれに顔を埋める。彼はリリアンナの最期の表情を思い出す。
安らかな
――果たして、それは救いなのか。
「ラキア」
イリーカは顔を上げて魔獣に言う。
「行こう……、リリアンナお姉ちゃんに手を出した奴を探し出すんだ」
にゃあ、とラキアは賛同するように鳴いた。
イリーカは彼女の背中に身を投げて、一人と一匹は満月の下で走っていった。
深海のアナイアレイション(読み切り版) 六葉九日 @huuhubuki
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