【闇092】穴【穴要素なし】
日はすっかり暮れていて、だだっ広いグラウンドも僅かな月明かりだけが頼りだった。
月明かりに押されて時折星が弱々しく瞬く以外、その光景に動きはないかに見えた。
だが。
校庭の隅に佇む古ぼけたバラックから、一つの人影が緩慢な動きで現れる。
大きなボストンバッグを肩から下げ、幾分頼りない足取りでヨロヨロと校門に向かい始める影。
「……はあ。」
ため息は大きな空気の固まりとなって彼の口から零れ出た。
暗闇の中、彼の表情を窺い知ることは出来ないが、そのため息が全てを物語っている。
過去20年において、県立板野高校野球部はこれといった成果が無かった。
良くて二回戦。大概は大会に出ても、初戦で姿を消す運命にあった。
野球部の部員も監督も、周りの誰も彼も、板野高校の野球部に期待している者は皆無だった。
それが常であったはずなのに、今年は少し違った。
今年入部した一年生で、何人か有望な戦力がいたのだ。
今年の夏季大会が近付くゴールデンウィーク前の練習試合。
毎年県大会のベスト8に名を連ねるような中堅高校相手に、16対14の接戦を演じたのだ。
スコアとしてはどうなのかと思う者も少なくは無い。
だが、もしかしたら、今年は二回戦の突破も夢では無い、もしかしたらベスト8くらいいけるんじゃ無いのか。そんな声が囁かれ始めた。
遠慮がちに、色めき始める周囲の大人達。
その空気は、監督にも選手にもじわじわと伝播した。
これまでは日が落ちる前に撤収となっていた練習も、白球を追えるギリギリまで行われるようになった。
ミスをしても笑いが起こるような緊張感の無い雰囲気も、一変した。
端から見たら、それは良い変化だったに違いない。活気に溢れる部活動。それまでやる気を見せなかった部員達も、ニンジンがぶら下がれば目の色も変わる。
「……はあ……」
またも、影から盛大なため息が漏れた。
彼にとっても、最後の夏。まさか高校生活の中で、部活に脚光を浴びる日が来ようとは、夢にも思わなかった。
彼は
彼は知っている。自分がいない場所で、こう揶揄されている事を。
――レフトが、穴だ。
実際、先の試合で、16の失点の内、彼のミスと思われる物が半数。捕失、後逸、暴投。
それでも三年生ということと、打撃力はそこそこあるという事から、辛うじてレギュラーではある。
しかし、その事実が余計に彼を苦しめる。
応援してくれる観客の前でミスをするくらいなら。チームメイトや監督に恥をかかせるくらいなら。
――いっそ、試合になんて出なくたっていい。
だがそれを訴えられないでいるのも、また彼の気質であった。
だから、せめて。
照明設備などとても持ち合わせない弱小野球部でも、ランニングは好きなだけ出来る。
捕球をする練習は相手が無いと出来ないが、ランニングは好きなだけ一人で出来る。
そう思って、彼は連日この時間までグラウンドに居た。
校門に近付くにつれ、彼の疲労も不安と共に彼の肩へとのし掛かってくる。
誰も居ないと思っていた場所に、突然人の声が聞こえた。
「おう。お疲れ」
彼は思わず立ち止まる。
突然の事に驚いた。
声の主は、彼のチームメイト。現エースだ。
校門に寄りかかる姿。僅かな月明かりを一身に受け、爽やかな笑顔を覗かせている。
彼から見るこちら側は、完全に暗がりになっていることだろう。
「ランニングだけじゃ不安だろう?
明日は、昼休みにノックしようぜ。付き合うよ」
そう、声の主は続けた。
……良かった。
照明など無い、暗闇で良かった。
この顔をチームメイトに見せる事が無くて、本当に良かった。
彼は、溢れる涙を拭わずに、なんとか震える声でこう返した。
「……おう。よろしく頼むわ」
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