【闇037】月明かり、宵の口

 月明かりの下、忠之助は川沿いの小道を歩いていた。

 小川に架かった、小さな丸木橋を渡り、また川伝いに道を進む。

 あと少しで花街だ。心持ち、忠之助の足も速くなる。

 すると柳の陰から声がした。


「旦那、旦那」

 声のする方に顔を向けると、暗がりから小汚い格好をした、猫背の男が姿を現した。

 晴れているのに笠を被り、相貌はしかと見えない。

「旦那、良かったら見てってくだせえ」

「…物売りか?」

「へえ」

 だが、忠之助の見る限り、特に物を売っている様子も無い。

「こんな宵に一体、何を売ってると言うんだ?」

「へえ。忘れっちまった思い出でさあ」

「忘れた思い出、だと…?」

 あまりの胡散臭い物言いに、忠之助が怪訝な顔を見せる。

 その表情を知らずか、物売りの小男は尚も続ける。

「さいでさあ。旦那の忘れっちまった思い出を、買ってくだせえ」


 改めて小男を眺めるが、月明かりの下で、柳と笠の作る陰が邪魔をし、農民のような汚れた服を着ていることくらいしか分からない。あえて言うなら、不気味である。

 しかし、その男の言う言葉が、忠之助には妙に気に掛かった。


「思い出を売るとは、一体どうやって?」

「へえ。この箱の中に、手を突っ込んで貰うんでさあ」

 忠之助のもっともな問いに、男は脇にぶら下げた小さな木箱を掲げて答えて見せた。

 木箱は肘から下の腕がまるまる収まりそうな細長い物で、確かに握り拳が通りそうな穴が空いている。

 薄々感じてはいたが、それを見るに当たって、いよいよ忠之助は自身の好奇心を無視出来なかった。

「いくらだ?」

「へえ。一つ四文でござい」

「…ふむ」

 月が明るく、気持ちの良い風に誘われ、今宵は花街で久方ぶりに羽目を外そうと出てきた忠之助。余興には丁度良いのでは無いか…。

 

「良かろう。一つ買ってやろう」

「へへ、毎度」

 猫背の小男は相変わらず笠の下の表情が分からない。

 男の差し出す木箱に、忠之助は躊躇わず右腕を突っ込んだ。

 忠之助の右手は箱の中を当てもなく彷徨う。何も無い、そう言いかけた時、何か空気の固まりのような物に触れた気がした。

 途端、忠之助の脳裏に鮮明な情景が蘇った。


 ――忠之助、十歳の春。

 小鳥の囀りに目を覚ました忠之助は、直ぐさまそれに気付いた。

 …冷たい。

 …またやってしまったか。

 即座に行動を起こす、忠之助。

 早くしないと女中が世話をしに来てしまう。

 布団を抜け出し、素早く寝間着とふんどしを脱ぎ捨てる。

 そして、布団をずるずる引きずり…


「…って、おいい!」

 忠之助は慌てて木箱から右腕を引き抜いた。

「貴様!

 なんてものを見せやがるっ!!」

「へえ。忘れっちまった思い出でさあ」

「こんな物を思い出させるな!」

 右腕をさすりながら、忠之助は息も荒く男に怒鳴り散らす。

「ですが旦那、どんな思い出かはこちらで選べねえです。きっと、旦那の好みも中にはありまさあ」

「…確かだろうな…?」

 気を取り直し、再度箱の中に右手を突っ込む忠之助。

 はてさて……。


 ――忠之助、十七の春。

 忠之助は昼の問屋街を歩いている。

 二十歩先には、着物姿の娘の背中。

 娘はこの先の着物問屋に帰る所だろう。

 何故、忠之助は娘の背中を追っているのか。

 それは、寺の門前で娘を見掛けて、声を掛けようとしたが上手くいかず、それから半里程の距離、娘の後を黙って追いかけて来たからだ。

 早くしないと、屋敷に入ってしまう。

 早くしないと、また声を掛けられない…。


「って、おおいいい!」

 またも忠之助は慌てて右腕を引き抜く。

「へえ。忘れっちまった思い出でさあ」

「それはもういい!

 もうこりごりだ、この馬鹿者っ!!」

 忠之助は男の足元に四文銭二つを投げつけ、ズンズンと花街の方へ歩き去った。


「…へえ。毎度ぉ」

 男は屈んで銭貨を拾い上げながら、忠之助の背中に声を掛ける。

 きっと今夜は忠之助の酒が大いに進むであろう。

 忘れるには理由がある。

 人の心の闇など、無闇に覗かないのが吉である。

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