風が

伊藤

第1話

 中華料理店の換気扇から香りを奪い、おもてに出ているビールの空きビンからも匂いを奪う。公園を抜けながら、誰かがスニーカーの先で掘り起こした地面の湿気と、公園を囲む樹木の、枝葉の引っ掻き傷から滲む香りも包み込む。

 車の排気ガスや、ブロック塀にこすりつけられた獣の体臭、アスファルトのひび割れの中の虫の欠片を一緒にして、風は壁にあたり、家を揺らし、家の中の戸を揺らし、外壁にいくつもの小さな渦を生んだあと、去って行く。

 家からも香りを奪い、また別の家の、別のビルの壁をめがけて進んで行く。数分後には、新宿のビルの合間を抜けているのだろう。もしかすると、そこから先、少しだけ江東区をかすり、いつか海へと流れ出る。

 また次の風が家を揺らす。

 中華料理店の香りが消え、排気ガスも薄れた夜中になっても、風は止まずに吹いて来る。それでも、いつの間にか風は止む。

 みんな、海へ行ってしまう。


 風が止んだからではなく、遠くを走る電車の音が聞こえなくなったのは、終電の時間が過ぎているからだ。周囲の建物から漏れる明りもわずかで、街灯ばかりが目立っている。街灯に集る虫もほとんどいない。この景色の中に動きはなく、家の中を覗いても何も動いていない。

 ただ、男がひとり眠っている。

 男は寝相が良く、横になった最初の形のまま布団の中で眠っている。

 何かが鳴る。埃まみれのキーボードか、テレビか、蛍光灯の傘か、木製の天井か、どこかで小さな破裂音がする。家がわずかに軋んでも、中の男は、やはり動かない。眠るように死んでいるのだろうか。

 男は、何の前触れもなく布団を引き剥がす。四半世紀も秋を経験しているのに、衣替えの時期を見誤り、眠っている途中に布団を引き剥がさなければならないほど熱がこもってしまう。

 一度引き剥がされた布団を、眠ったまま、先ほどと同じようにかけ直すことは難しい。このままだと、不格好に布団は絡まって行く。そして、目が覚めたとき、寒さに気付く。朝が来るにはもう少し待たなければならない。

 男は細く青白い四肢を晒し、闇の中で眠っている。

 風が吹き、いままで風が止んでいたことに気が付く。この風が雲を散らし、今日の朝を快晴にするのだろう。


 色の変化はいつも左からだ。

 太陽はビルの隙間を見つけて直進する。屋根、壁、外付けの階段、ブロック塀、ブロック塀の足元のわずかな土、アスファルトの凹凸へと、順に温度を上げる。だから、また家が軋む。天井、柱、壁、床が軋む。

 まだ男は起きない。布団にたくさんのしわを作りながら眠っている。

 男は昨晩、風邪をひいたかもしれないと言っていた。夕飯のあとに飲んだ風邪薬の効果で、いつもより深い眠りに就いているのかもしれない。風邪薬を飲んでいなくても、男が起きるのはもう少し後だ。


 日が昇り、最初に動くのはカラスだ。カラスだけじゃないかもしれないが、目や耳に届くのはカラスの動きだ。カラスは右から飛来し、数羽が近辺に降り立ち休息をとる。屋根の上を歩き、鳴声を出し、少しずつ左の方へと飛んで行く。音をさせて羽ばたき、光に照らされ青い艶が見える。

 それからやっと、人の気配がする。早朝の散歩を日課とする者や仕事へ向かう者が、朝帰りの若者たちと入れ代わりに外へ出て来る。知らないうちに市場へ出掛けていたのか、エンジン音が八百屋の近くで止まる。止まった車の音に反応して犬が吠える。

 遠くで水の爆ぜる音がする。塀の向こうに水の放物線が少しだけ見える。


 この家の左隣にはコスモスを咲かせる家があったが、昨年取り壊され、いまは新築の家が建っている。庭と呼べる空間のほとんどが駐車場となっていて、花はすべて植木鉢に植えられている。そこにコスモスはない。壊されてしまったあの家は、最後の数年廃屋となっていて、季節ごとの花が咲いていた。

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