第4話

 誰もいない部屋の中で耳を清ますと、時計の針の音が聞こえる。六〇秒に一回、少しだけ大きな音がする。

 色気のない六畳の部屋は、カーテンが常に閉められていて、昼間でも暗い。仕事のない日でも一日中カーテンが閉められているのは、男が昼過ぎまで眠っているからだ。昼過ぎに起きても、少し経てば西日がきつくなる。洗濯物も部屋の中に干すので、窓を開けない日もある。

 洗濯物くらい外に干せば良いのだが、窓の手前に置いてある本棚が邪魔で、本棚を動かすよりも、洗濯物を部屋の中に干す方が楽だと思っている。実際にはどちらが楽なのかわからない。

 この部屋に、男はもう七年住んでいる。


 カーテンの隙間から差し込む光に、棚の埃が目立つ。壁に貼られたポスターも静止していて、天井から吊り下がっている緑色の傘の蛍光灯も、そこから垂れる紐も、じっと動かずにある。今日の風はそれほど強くないので、何も動かない。

 屋根。

 雀が二羽、飛び跳ねながら屋根を叩いて進む。そして、すぐに飛び立って行く。

 近くの家からピアノの音がする。毎日毎日、同じフレーズを繰り返し弾いている。指の運動だろうそれは、響きの心地良さなど関係なく、半音ずつ上がりながら、下がりながら、何度も繰り返される。その音からは楽しさを感じ取ることはできない。十五分か二〇分ほど繰り返されたいくつかのフレーズが聞こえなくなると、若干気持ちの込められた音楽に変わる。重く揺れる曲の中で、突然に紛れ込む高音を指は追えず、いつも、わずかに遅れて鳴る。テンポが崩れ、数小節前から弾き直されるが、やはり、また同じ結果になる。だからこそ練習を続けているのだろうが、なかなか上達しない。

 太腿の上に手をつき、項垂れ、深呼吸をし、気をとり直しているのだろうか。

 左手だけで弾いているときはスムーズに行く。

 


 左隣から、床を駆けている足音が聞こえる。数分して家から出て来た子どもは、自転車のかごに鞄を放り込んだ。その中にはたぶんスパイクが入っている。

 夕方に、家の塀に向かってサッカーボールを蹴飛ばしている姿をよく見かける。日を追うごとにリフティングの回数は増え、利き足でない左のキックも強くなっている。

 時折、姉と一緒にパスを回している姿を見る。

 小学校へ行くのだろうか、それとも、神田川を越え、善福寺川沿いまで行くのかもしれない。もしかすると、もっと別の、もっと近いところに練習場があるのかもしれない。

 自転車に乗って、すぐの角を曲がって見えなくなる。北へ向かったからといって、善福寺川まで行くかどうかはわからない。

 その家の一階の屋根に、猫が横になっている。どうやって屋根に登ったのかわからない。

 温められた屋根と、直接の日の光と、弱い風を全身で感じて寝そべっている猫が、この世にはあと何匹いるのだろう。尻尾が動いている。


 南にある国道から低い響きが聞こえて来る。

 住宅街に反響するバイクのエンジン音が遠ざかって行く。学校の校内放送が、意味のわからない音となって伝わって来る。甲高いブレーキ音は自転車だろう。

 目の前の道をふたりの男が歩いて行く。どちらも背中に楽器を背負っていて、ひとりはギター、もうひとりはベースだ。

 彼らとすれ違った女性は、携帯電話に向かって笑っている。

 どこかの家で、目覚まし時計が鳴り始める。

 豆腐屋のラッパが聞こえる。

 誰かがどこかで手を叩いた。

 夕方の風で洗濯物が冷えて行く。

 日の沈むのが早くなった。犬の遠吠えが聞こえ、草むらで虫が鳴き始める。更地の上をコウモリが飛び、川沿いの街灯が順に灯って行く。

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