第3話

 男が去った部屋に入ってくるのは布団を叩く音だ。開け放しのトイレの窓からよく聞こえる。埃が小さく震える。それ以外の大きな変化は起こらない。冷蔵庫が動き出し、いつの間にか落ち着いている。

 目の前の道路を挟んだアパートの扉の開く音がし、女性がひとり出て来る。仕事に行くよりも少しだけ着飾り、アパートの階段を下りる。ヒールのあるブーツは去年も履いていた。角を曲がる前に上着を脱いで、ノースリーブのワンピース姿になった。太陽は南中にある。

 昼だ。


 ひとりの女性が商店街で惣菜やコロッケなどを片手に、家の戸を開ける。テレビを点け、目の前に昼食を広げる。テーブルにウーロン茶が並んでいることもあれば、スポーツ飲料水が並んでいることもある。

 学校を休んだ娘と一緒に食べるうどんを用意したりしている。

 遠く、北にある小学校から声が聞こえて来るのは、昼食が終わり、掃除のあとの休み時間に入ったからだろう。そして、高校生は午前中に三科目のテストを終え、勉強をするために帰って行く。

 遅番出勤のフリーターが、高校生らを追い越して駅を目指す。

 何かつぶやいたようだが、誰にも聞こえない。


 一週間に何件、この時間帯に杉並区で自殺が起きるのだろう。

 干していた布団を片付け、すべての家事を終え、それから自殺する人が何人かいるかもしれない。発見されるのは夕方か、もっと遅くだろうか。


 一度帰宅した小学生が友達の家へと遊びに出掛けるのと同じ時刻、赤子を連れて散歩に出る母親がいる。乳母車にタオルやオムツなどを入れた大きな鞄を積み込み、公園や、川沿いに設けられた遊歩道を目指して、家を出る。日の光の加減を気にしながら、数ヶ月前に見つけた段差の少ない公園へ向かう。

「風が気持ち良いね」

「すっかり秋になったね」

 母親は、公園に着く手前のコンビニで、ヨーグルトを買おうと考える。自分のために紅茶も買い、あそこのベンチに座ろうと思う。そこのベンチが誰かに取られていたら、反対側のベンチにしようと考えている。

 携帯電話がメールの着信を知らせるが、無視をする。

 赤子は乳母車の中で眠っている。


 朝にはほとんど見られなかった雲が数を増やし、断続的に太陽の前を過ぎる。どれもが白い。鳥が一羽飛んでいるが、高過ぎて黒い点でしかない。最近、風のことばかり考える。考え過ぎて、最後はどうでもよくなるのだが、それでも考えてしまう。

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