第2話

 目覚まし時計の一度目の音を、男は無意識に消す。

 五分後に鳴る同じ音を、男はやっと聞き取り、慣れた動作で時計を叩く。男は目を開け、窓越しの明るさから今日の天気を知る。

 七時過ぎに男は起きるが、上半身を起こしたまま布団を羽織っている。何がきっかけなのか、男はやっと布団から出る。

 ゆっくりと布団を畳み、押入れへ放る。トイレへ行き、洗面台で手と顔を洗う。男はまだ夏用のパジャマを着ている。薄い水色のパジャマが、水飛沫を受けて点々と濃くなっている。


 着替え終っても、男は部屋の中で座っている。

 ヴァネッサ・カールトンのCDをかけて、何をするでもなくじっとしている。

 男が家を出るまで、まだ三〇分もある。顔を洗ったあとに現れた目脂を取り除いたり、全身を使ってあくびをしたり、何も思い浮かばなければ、そのまま何も考えずじっとしている。そしてCDを停め、コンポの電源を落とす。

 鞄に仕事で使う制服を入れ、ハンカチと携帯電話をポケットに入れ、腕時計をはめ、鍵を持つ。

「行ってきます」と小さく言い、男は外に出た。



 男が向かった方から、高校生らが歩いて来る。中間テストの最中で、教科書やノートを持ち、友達同士で問題を出し合ったり、昨晩何時まで勉強していたかを言い合ったりしながら学校へ向かっている。

 誰も空を見ていないが、秋らしい風が吹いている。

 高校生に混じって小学生の姿も見える。親に手をひかれて行く子もいれば、ひとりで石を蹴りながら進んで行く子もいる。数人がはしゃぎながら、友達が家から出て来るのを待っている。

 

 年老いた女性がいる。庭に出て、柵越しに友人と会話を始めている。病気の話や、死に近い話や、死そのものの話を今日もしている。

「お庭、いつもきれいにされてますねぇ」

 死臭が消え、話を切り上げる時間が来る。

 毎度同じ言葉を言い合い、柵越しの友人は小さな手押し車に身をあずけ、その場を去る。庭から一歩も出なかった年老いた女性は、少しのあいだ庭の隅から空を見ていた。


 近隣の家々で掃除が始まる。洗濯をし、家中の掃除をし、何組もの布団がベランダに出される。高音が混じる掃除機が動いている。雑巾を使ってテーブルやテレビの埃を拭う。

 洗濯機が動いている時間を利用して、昨晩からの洗い物を済ませようと台所に立つ。冷蔵庫の上に置いてあるラジオを聴きながら、家人の注意を無視して手許に缶ビールを用意し、グラスの汚れを洗い流して行く。

 入るなと言われていても、勝手に息子の部屋へ忍び込み、勉強机の一番上の引き出しに入っている女の子の写真を盗み見てしまう。その好みが、父親のそれと似ていることを面白く思う。娘の部屋では、ベッドの上に放り出されている漫画をついつい開いてしまい、掃除の途中だというのに二巻がどこにあるのか探してしまう。娘のピアスを耳にあてて鏡を覗いてしまう。

 教科書の並ぶ本棚から、一冊のノートを見つけ、書き綴られた稚拙な詩を読んでしまう。そうして、自分の娘だということを改めて知る。

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