第5話

 日が沈み切り、誰かがくしゃみをし、やっと男が家に帰って来る。階段を上がり、何も入っていないポストを確認し、玄関の鍵を開け「ただいま」と言う。もし、目の前の洗濯機が声を発することができたなら、「おかえりなさい」と言うのだろうか。

 男は明りを点ける前に鞄を床に置き、時計や財布、携帯電話を机の上に放る。

 無意識に明りは点けられ、その顔にうっすらとひげが伸びているのがわかる。パソコンを点け、コンポの電源を入れCDを回す。朝と同じヴァネッサ・カールトンが気に入らないのか、CDをアン・マッキューの『コアラ・モーテル』に変えた。

 未だ立ち上がらないパソコンを気にしながら、鞄から制服を取り出し洗濯機に放る。台所で顔と手を洗うと、換気扇を回し、煙草に火を点ける。そこには一脚の椅子がある。

 すでにパソコンは立ち上がっているが、煙草を吸い終るまで男は動かない。煙草を吸っている途中に一度、前屈みになって大きな咳をする。

 外から聞こえた小型犬の鳴声に合わせて男も「キャン」と呟いて、煙草を消す。

 立ち上がったパソコンが二、三通の迷惑メールを画面に表示し、男はすべて削除する。ネットの中に数分だけ留まり、男はパソコンから離れる。ここ数年、男は家でテレビを見ていない。

 トイレで小便をし、手を洗い、また煙草を吸う。そして、電話が鳴る。

 煙草を吸ったまま、携帯電話の通話ボタンを押す。

「もしもし――あぁ、どうしたの?――いや、まだ――え?――あぁ――別に、用事はないよ――どうせ暇ですよ――なに?――(煙草を吸う)――良いよ――(煙草を揉み消す)――(微笑んでいる)――そうだね、三〇分くらいかな――わかった、じゃあ西口で――うん、あとでね」

 電話が終わっても、少しのあいだ男は動かない。

 無言で部屋に入ると、時計や財布を持ち、パソコンを消し、コンポを消し、明りも消して、振り返ることなく家を出た。

 置き時計の文字と、蛍光灯の紐の先だけが部屋の中で光っている。


 夕方が来たばかりと思っていたのに、すでに多くの家庭では夕飯の準備は整っていて、その夕飯もあっというまに終わり、自然と決まった順番で家族が風呂を済ませて行く。

 携帯電話片手に、娘が犬の散歩から帰って来る。

 自室の窓から空を見上げる息子が、携帯電話越しに、誰かへ月がきれいだと知らせる。

 父親は小学生の息子に、自転車のタイヤへどう空気を入れるか、目の前で実践して見せる。

 恋人と別れた娘の、目の赤いのを見て、母親は口を閉じる。

 息子の練習しているギターのフレーズを、父親は何の気なしに風呂場で口ずさむ。

 祖母の隣に猫がいる。

 テレビを見て笑う。何かを思い出して泣く。虫の音に聞き入る。ビールを取りに台所へ向かう。恋人からのメールが届き、駅へ迎えに行く。

 風が吹く。

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